同時代の創造精神を持つサルドノW・クスモとの「泥洹ないおん/nirvana」公演

 9月13日の京都芸術劇場・春秋座での公演を終え、サルドノ一行がインドネシアへの帰路に立ち、無事帰国をしたとの連絡を受けた後、日本は台風18号のニュースで騒がしくなっていた。京都は数日前に彼らを案内して回った鴨川、さらには桂川が豪雨で大氾濫。公演日が一日でも違っていたら大変なことになっていたと、胸を撫で下ろす。
 9月3日、サルドノW・クスモと女性三名からなるダンスシアターが来日した。サルドノに会うのは15年ぶり、1998年に私がジャカルタに招聘された「アートサミット」での出会い以来である。あの時はまだ元気だったレンドラとズライダ夫人、ベンケル劇団の面々が来場してくれ、翌日は彼らの家で御馳走にもなったが、そのインドネシアのカリスマ的詩人、作家・演出家のレンドラも既に逝かれてしまった。またサルドノから、私たちの友人である作家で演出家のプトゥ・ウィジャヤが重篤であること、一緒に何度も演奏をしてきた元スラカルタ芸術学院(STSI)の学長だったスパンガも入院中だと聞き、時の流れを痛感した。サルドノは68歳になるが、相変わらず気さくで元気だった。

<京都公演のダイジェストVTR映像>
 今回の公演の発端は、私に東京文化会館から舞台創造事業の作品をという依頼があったことに始まる。当ホールは西洋音楽の殿堂として名高く、私のような既成の音楽枠にはまらない音楽家が選ばれたことだけでも画期的だが、誰か他のジャンルの方とのコラボレーションをという依頼もあり、以前から機会があればコラボレーションがしたかったインドネシアのカリスマ・ダンサー、サルドノに連絡をとった。彼はジャカルタ芸術大学の指導者でもあり、ちょうど9月は大学のクラス開始前でスケジュール的にも可能だということで、二つ返事でOKのサインが来た。公演までの進行は、私がまず基礎になる音楽を作曲・演奏してサルドノに渡し、それから彼は三人の女性ダンサーを選び、リハにはいっていったが、ここ数年、長い布や紙に絵の具を振りかけて描いた作品を舞台美術としても使うことを知らせてきた。熱かった今年の夏は盆踊りも控え、その舞台と音楽の構想を練りながら、彼らの9月の来日を待った。

<左からサルドノ、ヘルダ、土取、リカ、ハニーの面々>
 彼が連れて来た三人の女性ダンサーは各人各様の経歴と個性をもったサルドノの教え子でもあった。ハニー・ヘルリナは芸術学院でダンス指導も行っているベテランで、伝統舞踊、特に仮面舞踊の達者である。宮廷仮面舞踊はもとより、バリやチルボンなどの多くの村でもガムランで踊る仮面舞踊を修得し、サルドノ門下として実験的な踊りも身につけた才ある舞踊家である。(ちなみに今回はジャワの仮面に加え私が持参した備中神楽の翁面を用いた即興舞踊も行った)

<ハニーの仮面舞踊>
ヘルダ・ヨシアナは26歳の若手ダンサー。芸術大学でサルドノから舞踊を習い、2007年には世界モダンダンスコンテストで2位の成績を収めたこれまた才あるダンサー。サルドノの作品にも多く出演している他、同期のダンサーで今度愛知トリエンナーレにも出演するジェコ・シオンポの前作品にも参加している。今回の作品では先のハニーが私の三味線でジャワの伝統舞踊を基に踊ったのに対し、彼女は爆音のリズム音楽で激しい身体運動の踊りに徹した。もちろんサルドノの演出である。もう一人のリカ・オクタベリア・ダルマワンもヘルダ同様26歳の若手ダンサー。とはいえ、前者二人とは異なり、彼女はジャカルタ芸術大学で振付け学を学び、照明デザインやアートプロジェクトの活動に従事しており、舞踊歴は前者に比べて短く、今回もサルドノのアシスタントプロデューサー、マネージメントを兼ねてダンサーとして参加した。特異とする所はヒポップ・ダンスであるが、サルドノは今回の公演では一切彼女の得意技を披露させなかった。逆に全く踊らせず、一枚の絵の描かれた紙の絨毯をゆっくり舞台に広げて舞い、去るだけの単純な振付けを与えた。この三者三様の踊りの変化が観るものへのイマジネーションを幾様にも与えたことは間違いない。
 サルドノはこのように三人の女性の舞踊を中心に舞台を進め、最後に自らが踊るという構成を立てていた。打ち合わせからゲネの間も、サルドノも私も何度も構成に変化を加えていき、結局当日の舞台でもスポンテニアスな舞踊があらゆる場面で展開される為、一番大変だったのは照明家だったかもしれない。サルドノがサルドノなら私も即興演奏は特異とする所で、お互いにその変化をこそ楽しんだ。

東京文化会館の舞台>
 東京文化会館はコンサートホールでもあり、舞台が狭く少々ダイナミックなパーフォーマンスには不向きだったが、音楽家舞踊家の距離が近かった分、逆に密度の濃いコレスポンドができた。
 京都芸術劇場に移ってから、サルドノは舞台の花道、そして本舞台の広さを観て、ここでは東京で御法度であった舞台で直接絵を描く方向に急遽ディレクションを変えた。またここでは私のドラムソロも加えると同時にハニーとの三味線場面では桃山晴衣の「泥洹」はもちろん、急に「梁塵秘抄」の「君が愛せし・・」という唄が舞台で出、その後インドネシアのスンダメロディーを口ずさむことになっていった。
 サルドノが舞台で描いた絵は天井から長く垂れ下がった一枚と、大きなキャンバスに描いた二枚。そのキャンバスの二枚と共にあった踊りは幼い頃から習った武術シラットや宮廷舞踊の振りを深い呼吸と緩急のリズムで変化させたサルドノならではの舞踊だった。

<キャンバスを手に踊るサルドノ>
 時に怒声を発し、瞑目して祈るサルドノ。東京公演では彼が1968年初めてプラナバンの舞台で上演された「ラーマーヤナ」でハヌマンを踊ったときの荒々しい勇姿そのものが、今日甦っていたとの感動を観客から聴いた。ハヌマン神は不滅だったのだ。

<舞台美術・装置となったサルドノの絵画>
 公演後は両劇場で私とサルドノのトークがもたれ、ほとんどの観客が帰らず耳を傾けてくれたのが印象的だった。私たちは古代から連綿と続く人間の芸術について、サルドノはジャワ原人、私は縄文について、また彼の絵画の開始時期がスマトラアチェの大津波と関係していたことから福島の問題まで話題は及び、ヒンドゥーハヌマンから古事記猿田彦の話と・・・話題は尽きず、一緒に行動している間にも多くの話をした。
かつて、私もサルドノも70年代をヨーロッパやアメリカの学生運動を機に展開していった前衛芸術運動の中にあった素晴らしいアーティストとの出会いを通して、自分の活動を展開してきた。日本とインドネシアという環太平洋の圏内にあり多くの共通文化を持つ二人が、同時代を世界の潮流の中で旅し、長い時を経て再び創造の時を同じくすることができた今回のコラボレーションは、サルドノの健在とアジア文化の深淵を再確認させてくれた忘れがたいものとなった。

<土取の演奏楽器>
 「泥洹・ないおん」は桃山晴衣が演奏を続けて来た父、鹿島大治氏の作曲した三味線曲で当初は唄と舞踊が組まれていた。この舞踊曲が今回のようにインドネシアの舞踊と共に上演されるとは、大治氏も夢にも思われなかっただろう。桃山は私の三味線を聴き乍らどこかで微苦笑していたにちがいない。
 最後に、実現にむけて動いていただいた東京文化会館、京都芸術劇場の方々、制作スタッフの方々、個々の名前をここに記せませんが、本当にありがとうございました。

開演間近!!土取利行meetsサルドノWクスモ【NIRVANA泥洹・ないおん】

 今年もまたアジアの舞踊家との貴重なコラボレーションが実現する。数年前に「光」を共同製作した韓国舞踊家キム・メジャさんに次いで、インドネシアのカリスマ的舞踊家サルドノWクスモとの「NIRVANA泥洹・ないおん」が2013年9月7日東京文化会館と9月13日京都芸術劇場・春秋座で開催される。

 サルドノとの出会いは私がピーター・ブルック劇団の音楽監督として活動していた1980年代に遡るが、この出会いについては後述するとして、先ずは多岐にわたる彼の活動歴を簡単に紹介しておこう。

<サルドノW・クスモ>
 Sardono Waluyo Kusumo(サルドノWクスモ)は1945年3月6日、インドネシアの古都ソロで生まれている。8歳の時、宮廷に使えていた父の友人からシラットsilatという武術を学び、その3年後彼から舞踊を習うようにいわれる。サルドノが師事したのは故ラデン・ンガベヒ・アトモケソウォRaden Ngabehi Atmokesowo。彼はそこでアルサンalusanという、マハーバーラタラーマーヤナ叙事詩に由来する役柄の洗練された舞踊スタイル以外の踊りを禁じられ、感情を制御し、流れるような型のアルサンの踊り手になった。
 しかし、1961年、ラーマーヤナ・プランバナンが初上演された時、大事が起こった。この時、アルサンを踊れるのはサルドノしかいなかったため、ラーマ王子の役は当然彼にまかされると思っていたが、彼の期待は大きく裏切られ、その役は他者に振り当てられた。それどころか、サルドノに与えられたのはアルサンとは正反対の荒々しく粗野な踊り、ハヌマンの役であった。さらにこの猿のハヌマンの踊りを40×18メートルという大舞台で大群にして大規模な舞踊に仕立てる結果となった。サルドノは、考えてもみなかった舞踊の枠に立ち向かい、サルドノ独自の舞踊をこのときに開花させた。そしてこの時、サルドノはバレーのポーズやエドガーライス・バロウズの漫画で見たターザンの動作を真似ることから、新たなハヌマン舞踊を創出したのである。250名のダンサーと二組のガムランオーケストラという破格をやり抜いたサルドノ・クスモの旅がここから始まり、その創造のエネルギーは今日まで尽きることがなかった。 
 サルドノはこうして1968年、23歳の若さでIKJ(ジャカルタ芸術大学)の最年少メンバーとなり、1970年には独自のサルドノ・ダンスシアターを設立。'74年にバリ島のタガス村を舞台に『ディラの魔女』を上演。(これは92年に映画としても完成した)
1979年『メタエコロジー』を機に以後瀬力的に83年『プラスティック・ジャングル』、87年『嘆きの森』等、環境問題をテーマにした作品を発表。88年にはヒンドゥー教と仏教で説かれている宇宙の構成要素である『マハ・ブータ』、93年にはオランダ植民地支配とジャワの精神世界を対比させた『ゴングの響きの彼方より』を発表。近年にはオペラ『ディポネゴロ』や2010年の『雨の色彩の森』と題した、自らが描くペインテニングと舞踊、マルチメディアやインスタレーションを導入した画期的な作品を発表するなど、活動はダンサーにとどまらず、振付家、演出家、美術家、作家として国内のみならず海外にも活動を広げてゆき、世界のサルドノとなる一方、自国のジャカルタ芸術大学で後裔の指導にも余念がなく多くの若手ダンサーを輩出してきてもいる。

<筆者とタパ・スダナ:ブッフ・ドュ・ノール劇場で>
 このように伝統を礎に現代あるべき舞踊の形を追求して来たサルドノであるが、私が彼の活動を知ったのは、78年にピーター・ブルック劇団に参加してきたバリ島出身の役者タパ・スダナを通してであった。彼はサルドノと同じ1945年生まれで、1968年にイクラ・ネガラ、プトゥ・ウィジャヤ、W.Sレンドラ、サルドノ・クスモ達とインドネシアで演劇活動を始め、とりわけインドネシアにおいては画期的だったレンドラの演出のシェイクスピア作品「ハムレット」「オイディプス」「マクベス」に出演し、1973〜74年にはサルドノが振付けをした新版ケチャの創作と、先に紹介した74年同タガス村で行われた仮面劇「ディラの魔女」にも出演。そしてこの「ディラの魔女」をもってヨーロッパ公演をした後、スイスでバリの仮面舞踊劇団を結成し、そのままヨーロッパで活躍するようになったのである。
 タパがブルック劇団に入った78年、私たちはアヴィニオン・フェスティバルで『鳥たちの会議』を上演し、この作品にブルックがバリやジャワの仮面を用いたためタパが起用されたのであるが、実はこのアヴィニオン・フェスティバルでは『マハーバーラタ』を上演する予定だった。ところが、この作品の一部分だけをと考えていた当初のアイデアがブルック、ジャン=クロード・カリエールサンスクリット学者のフィリップ・ラヴァスティンと読書会を持つうちに、全編を演劇化したいという方向に変わり、急遽『鳥たちの会議』の上演となったのである。

<ブルックとマハーバーラタの俳優、音楽家達と>
 76年からブルック劇団の音楽家として活動を始めた私は、この『鳥たちの会議』の後、『マハーバーラタ』というつかみ所も無い巨大な物語を全編上演するという話をきかされ、音楽監督としての任命をうけたのである。ブルック達の脚本やアイデアがいつ頃終熄するのかも定まらないまま、私は一人『マハーバーラタ』が今も息づくアジア諸国に芸能・音楽を求めて旅をすることになった。その一つにインドネシアのバリ島があった。世界で最もイスラム人口の多い国とされるインドネシアで、この島だけはバリ・ヒンドゥーという土着宗教とヒンドゥー教が合体した独自の宗教を形成し、村の共同体システムも手伝ってガムラン音楽や舞踊など、伝統芸能が生活と密接に繋がりをもって生きていると同時に、それらの悉くが『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などのヒンドゥー神話を背景にしているのだからどうしても行かざるをえない国である。
 この『マハーバーラタ』音楽調査のためにバリ島を選んだもう一つの理由は、ちょうどこの時タパ・スダナがブルック劇団に入団し、親しくなっていたからである。この頃の私の音楽歴はアメリカやヨーロッパのフリージャズや即興音楽に徹してきたため、アフリカには出向いていたものの、アジア諸国の音楽とは無縁で、もちろんインドネシア、バリ島の音楽も未知だったため、すべては運にまかせての調査旅行となる予定だった。そこでタパが教えてくれたのは、とにかく首都デンパサールに着いたら自分の実家を訪ねてネトラという人物に会わせてもらえということだった。タパの実家は印刷業を営んでおり、そこで父親と弟に会い、ネトラを呼び寄せてもらった。ネトラはタッパと60年代から70年代にかけて演劇活動を共に続けていた仲間で、サルドノとも親しい人物。サルドノ、レンドラ、プトゥたちがジャカルタスラカルタで活動を続けていたのに対し、彼は家庭の事情も手伝ってバリに残っていたのである。ネトラはその夜、アートセンターでのケチャに連れて行ってくれ、ガムランを学びたいという私の願いを聞くと、かつてサルドノやタッパと一緒に活動していたタガス村のガムラングループを推薦し、その村長のワヤンスドラに会えば、我々全員を知っているので大丈夫だろうと紹介状を書き添えて、翌朝私を送ってくれた。

<バリ島タガス村でのガムラン練習>
その翌日から私のガムラン修行が始まるのだが、このタガス村こそサルドノが『ディラの魔女』を上演し、映画製作をした伝統ある村だったのだ。そして70年代にタパが共に活動していたレンドラは押しもおされぬインドネシアのカリスマ的大詩人、演出家として活躍し欧米にきたときは何度か出会い、1990年ベンケル劇団を引き連れ初来日した際には日本で再会し、その後我が立光学舎にもプライベートで来舎していた。我家にはタパが出演したレンドラ演出の「オイディプス」に使った仮面があるが、これは手紙と共にレンドラから送られてきたものである。2009年、73歳でレンドラは逝去した、反骨と不屈の現代詩人、パーフォーマーだった。

<立光学舎に送られて来たレンドラの「オイディプス」の仮面>
プトゥ・ウィジャヤもまたN.YやTOKYOの公演で出会い、立光学舎を訪ねてきた。今も映画に芝居、脚本家、演出家と彼も多彩な活動を続けている。
 こうしてみるとタパと活動していた、70年代を疾走したインドネシアのアーティストたちの存在がいかに大きかったかが判るし、サルドノの活動が孤立無援なものでなく、こうした社会と時代背景から生まれて来た共通の意識やエネルギーに支えられてきたのがよくわかる。
 バリ島は何もかもが衝撃的だった。ここではこのことには触れるスペースがないので割愛するが、その後私はジャワ島の古都スラカルタを二度訪れている。きっかけは、やりタパの友人で当時、国立スラカルタ芸術学院(STSI)の研修員としてソルボンヌ大学に留学していたラハユ・スパンガを紹介されたことにある。『マハーバーラタ』の音楽製作の段階でリハーサルやオーディションに来てもらったし、桃山晴衣がパリに来た際に一緒に演奏をしたりして親交を深めているうち、スラカルタに帰国してからは芸術学院の学長になっていて、1991年に桃山と一緒に芸術監督として関わった大垣市のイベント「代々の雅」でスパンガ率いるスラカルタ宮廷舞踊団を国分寺遺跡で開催するため、その準備で古都スラカルタを訪れたのである。

<土取・桃山監修で上演されたジャワ宮廷舞踊:ロンゴウェ>
また1998年にはジャカルタで開かれたARTサミットで私のパーカッショングループ「スパイラルアーム」がSTSIのスパンガ、アル・スワルディ等と共演することになったため、その練習をかねて再びスラカルタを訪れたのだが、最初の訪問の時、スパンガはボルブドゥール遺跡などを案内してくれ、この時サルドノもスラカルタに滞在していたため、古代に関心があるという私の話を聞き、ジャワ原人の遺跡に連れて行ってくれ、「ピテカントロプス」という作品を創ったという彼と意気投合し、いつか一緒に公演ができればと思うようになったのであった。

<1991年スラカルタでサルドノW・クスモと>
 それにしてもタパとの縁からインドネシア・アートの第一線で活躍する同時代人とこれほどまでに親しくつきあえたことは、何とも幸運であったというほかない。
 さて、このような巡りめぐってのインドネシア・アーティストの出会いを経て、ようやくサルドノW・クスモとのコラボレーションが実現することになった。東京文化会館という私とはほとんど縁のなかったクラシック音楽の殿堂の自主企画公演というのも意外であるが、音楽ホールでダンサーとのコラボというのもまた珍しいことだろう。
 今はジャカルタに拠点を置き活動を続けているサルドノは近年、秘めていた自らの絵画の才を舞踊に結びつけ、ロサンゼルスCalArt Theaterでの照明、音響、マルチメディアとの実験的コラボ作品『雨の色彩の森』で新境地を切り拓き、この自由絵画ともいうべきいくつもの絵画作品を展示すると同時に、その作品と幾人ものダンサーの即興舞踊の試みも行っている。

<サルドノ:雨の色彩の森>
絵画の多くは数メートルもある布や紙に、おそらくは容器に入れたアクリル顔料を舞踊と同じ内的エネルギーによって各所に流し、その自然な顔料の流れによって絵画を形成してゆくもの。『雨の色彩の森』では白い布を敷いた斜の舞台で踊りながら、掌を黒い輪郭線でなぞり、いくつかの身体の局部の輪郭線を残した上に、いくつもの色彩の顔料を流してゆき、その長い画布を天井まで吊るし上げたとき、まだ乾かぬ顔料が雨のようにゆっくりといくつもの色彩模様を自動的に残してゆくのである。天井を見上げるほどのこの巨大な作品を見ていて、私はふと数年前に演奏したフランスの壁画洞窟を思い出した。この色彩の軌跡は洞窟内の鍾乳石の群れを彷彿とさせ、そして彼が描き残した掌の輪郭があの旧石器時代の人が岩に描き残したネガティブハンドに映って見えたからだ。実際、サルドノはカリマンタンニューギニアの先住民の地を訪れ、古代の儀式を司る踊りや音楽を体験し、かつて自分が新たに振付けしたケチャの掌の動きをネガティブハンドと重ね合わせて考えるようになったともきく。現代アートコンテンポラリーアート、またはダンスというものが自分の足元に目を向けず、表層的な西欧の近代アート思想や表現の借り物であることがあまりにも多い日本の若いアーティストにこそ彼のアートの真髄を今回感じ取ってほしいと願う。
 本公演タイトル『土取利行meetsサルドノW・クスモ / NIRVANA 泥洹(ないおん)』の「NIRVANA 泥洹(ないおん)」は、かつて桃山晴衣の父、鹿島大治氏が1961年に後見となり桃山流を立ち上げた際に作曲した舞踊曲で、当時は箏や琴、笙などで演奏され舞踊が伴っていた。のちにこの曲を桃山は三味線曲として他の楽器や歌を加えながら演奏を続けており、今回は桃山晴衣亡き後、彼女の遺した三味線を私が手にこの曲を弾き、そこから様々な楽器を駆使しながら、サルドノの舞踊に呼応していくよう準備をすすめている。サルドノは自らの絵画を新しい形で展開する予定で日本公演では三名の女性ダンサーが加わり、仮面も用いる。サルドノの絵画と私の三味線。共にかつてはお互い想像もしなかった世界にすすむようになった二人の出会いが、東京、京都の舞台でどう結実するか、いまから楽しみだ。
 以下は公演案内。
■『土取利行meetsサルドノW・クスモ / NIRVANA 泥洹(ないおん)』
東京文化会館 小ホール
2013年9月7日(土)開演18:00時
詳細はこちらから

京都芸術劇場 春秋座
2012年9月13日(金)開演19:00時
詳細はこちらから

桃山晴衣の音の軌跡(41)「夜叉ケ池拝登」

  7月21日、日曜日、午前2時30分に目が覚めた。熟睡しないまま夜明けを迎えて午前6時に郡上から西濃地方へと出発。毎月定期的に開いている「いろりわの会」特別プログラムとして、桃山晴衣の「梁塵秘抄」と深く関係する「夜叉姫」の伝承地を訪ねるのである。

 私たちが一路目指したのはその夜叉姫の魂が眠るという夜叉ケ池である。郡上から車を走らせること二時間、西濃地方揖斐町から国道303を山沿いに走り、6月に山開きとなった夜叉ケ池登山口に到着。幸い薄曇りの天候で標高1099メートルに位置する夜叉ケ池への山登りには都合が良い。福井県南越前町岐阜県揖斐川町との境に位置するこの夜叉ヶ池まで果たして到達出来るかどうか、朝二時半に目が覚めての疲労がたたり少々不安をかかえたまま、参加者と一緒にいざ出発。この季節は熊の出る恐れがあるとのことで両腕に桃山がコンサートで用いていた小さな鈴を腕輪にしてその代わりとしたのはよかったが、登山口の出発地点から急な坂道を下降した途端に左腕に巻いていた小さな鈴の塊がはじけるようにバラバラになって地に落ちてしまった。何か不吉な予感がしたが、右手の鈴だけを着けて進むことにする。しかし、皆が上り下りの急峻な坂を進んで行くのを前に見ながら、どうも足が進まず、おまけに心臓の動機が激しくなってき、背負ってきたリュックもスタッフに持ってもらう始末、何度か休み乍ら一キロほどの歩いた所でやっと皆と合流したという次第である。鈴がバラバラになった地点であきらめようとも思っていたが、なんとか後は順調なペースで進むことができほっとした。


 登山口から夜叉ケ池までは約二キロ半の行程であるが、これは平地を歩くのとは全く異なり、まさに山あり谷ありの難行だ。山道は人ひとり通れるほどの幅で人家も人気もない自然林に包まれた山中にはまばゆい緑のシダの葉や色彩の変化に富んだ山紫陽花が目を楽しませてくれ、時折遭遇する大きなブナやトチノキ、そして美しい滝が憩いの場を提供してくれる。池が近づくにつれ、山は急に岩場が多くなり、道もなくなり自然の石段を命綱頼りに恐る恐る登って行くことになる。この辺りから観る山々の景色は電線や鉄塔、人工的な建造物が一切目に入らず、原初の勇姿を呈してくれる。やっとの思いで最上段に登ると左右に山道がさらに続いていくが、夜叉ケ池はこの道の直ぐ下に水を貯めたクレーターのように静かに在る。

<夜叉ケ池>
池は周囲230メートルほどで、周囲を原生林が覆い、神秘性を漂わせている。桃山は池の水がこんこんと湧き出てくると書いていたが、この青く澄んだ水は、数十万年前に起きた地滑りによってできた窪地に雨水や周辺の山からの伏流水が溜まったものと考えられている。池の深さは7〜8メートルで酸性水のために魚は生息しておらず、黒イモリや天然記念物の夜叉ゲンゴロウが池の淵に多くみられた。丁度、着いたのが正午すぎで天気も良いため、福井側から来た人も合わせて登山客は意外と多かった。それにしてもこんな山頂にポツリと池が存在し、わき水ではなく雨水だけで氷河期以来水を涸らしたことがないというのは、やはり不思議であり、下界の人達が雨乞いの対象となる竜神様が棲んでいると信じてきたのも無理はないと納得する。池の淵は浅く透きとおった水の下に土が見えこそするが、わずかその先からは濃緑色の水面が舞台のように波立てず広がり、まわりの原生林がさらに神の降臨する劇場空間を作っていた。

 この夜叉ケ池に隣接する福井、岐阜そして滋賀県に共通するのは雨を霊験新たかなる神とみる雨乞い信仰で、その信仰を支える代表的な伝説が美濃の揖斐川(同異名の杭瀬川、広瀬川)流域に古くから伝わる安八太夫の娘、夜叉姫が雨乞いのために人身御供となって竜神のもとにゆくというものである。安八郡神戸町の石原伝兵衛家に伝わる物語では、「延暦弘仁の頃、大干ばつに遭った時、長者が田を見回っていると小さな蛇に会い、『雨を降らせてくれたなら、三人の娘のうちの一人をお前にやろう』と一人ごちる。すると、実際に大雨が降り、若武者が娘を貰い受けにくる。そこで自分から『わたしが参りましょう』と名乗り出た夜叉姫が、夜叉ケ池へ竜神の妻となっていく」とされている。石原家ではこの話をもとにお祀りを司祭して夜叉ケ池へ平安の衣装で登り、白粉、櫛、かんざしなどを流す儀式を行っている。
 しかし桃山晴衣はこの伝説化された夜叉姫が平治物語に書かれている実在の女性と繋がるものではないかと推察し、そのことがCD『夜叉姫』のブックレットに紹介されているので少々長いがここに記しておく。
 「平治の元年、源義朝とその息子義平、朝長ら一行が大炊長者(おおいちょうじゃ)の延寿を頼り、美濃・青墓へ落ちのびてきたことから、悲劇の幕が切って落とされた。舞台となった長者屋敷で、自らの手にかけて朝長の首を討とうとする父、その腰にすがって止める延寿と夜叉。年末から年始にかけて次々と続く父と義兄弟たち肉親の修羅場を目的にして、同じ源氏の血を引く我身の上を思い、まだ十一歳の夜叉姫は、二月十一日、杭瀬川(古揖斐川)に身を投げて自決するのである。
 ちなみに大炊長者一族は、今様歌の名手を輩出しており、平安末、後白河院がその一生をかけ、当時の流行り歌である今様を集めて編纂した「梁塵秘抄」の口伝衆には、延寿をはじめとする幾人かが登場する。また後白河院梁塵秘抄の今様を教授したことで名高い乙前(おとまえ)もここの出である。
 今様歌は母娘相伝で伝えられるというから、まだあどけない夜叉姫も、次の長者になるべく研鑽にはげみ、天に澄み昇るような美しい声でうたっていたに相違ない。なのに青墓宿は延寿の時代で消滅し、夜叉姫の死と共に今様も終焉を告げた。
 ところで地元、美濃・青墓の周辺には、(一)入水した夜叉姫の、遺骸は岸に上がったけれど魂は揖斐川を遡り、夜叉ケ池で成仏した・・という話が伝わる。夜叉ケ池は長者の所領、池田郡のはずれにあたる千百余メートルの高地に、こんこんと泉の湧く聖地である。
 一方、青墓からそれほど遠くない安八郡の豪族、安八大夫の家では、(二)雨乞い伝説を伴う龍神祭として、夜叉ケ池に紅、お白粉などを沈める行事を今も行っており、越前と美濃の境にあるこの池の周辺の坂内村などに、この伝説が残るようで、(三)泉鏡花の「夜叉ケ池」はこちらを取材して想を得たと思われる。
 三種もの夜叉姫と夜叉ケ池説が現存するのも興味深いが、(二)は雨乞いというより姫の鎮魂といった要素が強く感じられる為、調べてみると案にたがわず、安八太夫と大炊(延寿の母)は婚姻しており、つまり安八太夫は延寿の父、夜叉にとっては祖父に当たる人でもあった。平安の天下のもとに、追われる立場の源氏一族としてはおおっぴらな法要もままならず、時代を数百年も遡る雨乞い伝説に形を変え、夜叉姫を悼んだものであろうか。
 わたしの今様浄瑠璃「夜叉姫」は、地元に伝わる話と、事実を裏付けする数々の源氏の遺物、それに史実をかなり正確にとらえているといわれる「平治物語」を軸に、ドキュメントとして創作されている」
 『夜叉姫』は桃山の遺作で、晩年に古曲宮薗節の手を用いて作詞・作曲した今様浄瑠璃三部作の一つ。他の二作「照手姫」「浄瑠璃姫」と異なり、先の説明にあるような史実に重きをおいて書き下ろした独創的浄瑠璃である。またなによりも、桃山晴衣にとって<夜叉姫>は梁塵秘抄の伝承者である延寿の娘であり、「梁塵秘抄」最後の歌姫であったといことで、とりわけ関心も深く、その史実を知ることにも多くの時間をさいていたのである。

<夜叉ケ池の帰りに立ち寄った大垣市青墓円興寺の桃山晴衣揮毫による梁塵秘抄の石碑にて>
 私たちは夜叉ケ池登拝後、大垣へと向かい歴史資料館で郷土史家の堤正樹氏と再会し、夜叉姫や桃山の思い出話を聴いた。この時、堤氏からはまた夜叉姫に関する新しい報告があった。それは『美濃国諸国記』巻三十に記された夜叉姫入水の場所を記した貴重な資料がみつかったということだ。それによると、「牛若丸の姉、夜叉御前といふは大墓の長者が許にありけるが、大野郡谷汲山に至るとて、平治二年二月朔日、池田郡岡島といふ所にて、杭瀬川に身を投げて死し給ふなり、そこを、今に身投げの淵と申し伝へしとなり、・・・・」
 堤氏はここに書かれている現地へと赴き、夜叉姫の身を投げた場所を探したが、残念乍ら民間の伝承は消え去ってその場所を掴むことができなかったらしい。泉鏡花のモデルとなった竜神伝説の姫ではなく、平時物語に書かれた実在の夜叉の軌跡、桃山晴衣はこの謎の解明を半ばにして昇天し、堤氏も高齢に達している。夜叉ケ池とその周辺の場所に秘められた謎は余りにも多く、その軌跡はこのまま闇に葬り去られてしまうのだろうか。

再開!土取利行「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を演歌する」


まずは演奏会予定のお知らせから。
土取利行「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を演歌する」
金沢公演
日時:7月8日(月)開場/午後7:00 開演/午後7:30
会場:「茶房犀せい」予約問い合わせ076-232-3210
前売り:3500円 当日:4000円(ワンドリンク付)
詳細はこちら
富山公演
日時:7月9日(火)開場/ 午後7:00 開演/ 午後7:30
会場:New Port 予約問い合わせ090-8263-0827
前売り3000円 当日3500円(ワンドリンク付)
詳細はこちら

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 明けて7月、今年もはや半年が過ぎ去った。なんとも季節の巡りが早い。昨年暮れから寒中録音で作ったCD「土取利行・添田唖蝉坊・知道を演歌する」が5月にリリース。偶然だったが、これに合わせるように神奈川近代文学館で初めての添田唖蝉坊・知道展が二ヶ月近くにわたって開催され、そこで講演・演奏を依頼され時間オーバーの熱演、桃山晴衣の意志を継いだこの作業を増々重く受け止めるようになった。今年前半は、韓国からの伝統打楽器集団「ノルムマチ」郡上公演や同じく韓国からの孤高のフリーインプロヴァイザー・サクソフォニスト、姜泰煥との公演、また9月に共演する東京文化会館でのインドネシア舞踊界のパイオニア、サルドノ・W・クスモとの公演に向けての準備等々、アジアの芸術家との共同作業に時間をとられていたこともあり、「唖蝉坊・知道を演歌する」公演をしばし中断していたが、我家の下を流れる吉田川の鮎漁解禁よろしく、「邦楽番外地」も7月より解禁、ゆっくり全国を巡っていきたい。

<長福寺の唖蝉坊句碑>
 その公演を前に先日、静岡での姜泰煥との公演を終えた翌日、近くまで出かけたこともあり、神奈川近代文学館の唖蝉坊・知道展の企画者、中村敦さんに連絡して茅ヶ崎、大磯の唖蝉坊・知道所縁の地を案内していただくことになった。添田唖蝉坊添田平吉)は1872年に大磯で生まれ18歳の時に横須賀で自由民権運動の流れをくむ壮士達の唄に接し、演歌師の道を歩むことになる。そして大磯の隣街、茅ヶ崎の菱沼に住んでいた太田タケと結婚するが、この時、唖蝉坊は演歌をやるかたわら知人達にすすめられハンカチ工場を茅ヶ崎で経営する。今回は、中村さんが連絡をとってくださり先の神奈川近代文学館での「添田唖蝉坊・知道展」と同時期に開催していた茅ヶ崎市立図書館での「添田唖蝉坊・知道親子展」の企画主催者、「湘南を記録する会」の楠さんが、このあたりのことを含めて茅ヶ崎・大磯での唖蝉坊の足跡を紹介して下さることになった。
 朝、車で静岡駅を発って2時間少々、茅ヶ崎駅で待ち合わせた中村・楠の両人に新聞記者の方も同行取材で参加。まず案内されたのは駅から歩いて直ぐの所にある唖蝉坊がハンカチ工場を営んでいたという場所。この場所のことを唖蝉坊は『唖蝉坊流生記』にこう書いている。
 「そして茅ヶ崎へ移った。三十五年の夏の終わりであった。駅前の、釜成屋といふ古い饅頭屋の前角が私たちの新しい家であった。隣は肴屋という宿屋で、鉄道院の車掌が何人か、交替の時の宿にしていた。」
 この『唖蝉坊流生記』には彼が晩年演歌師生活を止めて四国・中国地方へ遍路の旅を続けていたことも記されており、とりわけ岡山県玉島の良寛修行寺、円通寺あたりのことは詳しい。昨年私はその円通寺で演歌の会を持ったことから記された場所を歩いてみるとタイムスリップしたようなまだ当時の面影を残す建物や街の雰囲気が残っていたが、ここ茅ヶ崎はさすがに都会、駅前から続く、ハンカチ工場のあったとされる場所はビルディングと車と人の賑わう現代のどこにでも見られる駅前風景で、明治の面影をたどるすべも無い。ただ釜成屋という饅頭店は他の場所に移り今も営業しているそうだ。茅ヶ崎での唖蝉坊の足跡で興味深いのは、知人の鳴り物入りの祝賀もあって始めたハンカチ工場が「致命的な違算」で失敗したことはともかく、ここで彼が友人杉崎鍋之進等との付き合いの中から俳句を始め、その運座の仲間入りをしたことである。唖蝉坊や知道氏に関する碑は全国にいくつかあるが、小平の添田家墓地に立てられた石碑や浅草弁天公園に建つ唖蝉坊・知道の碑、そして先月岩手県宮古市鳥取春陽の唄をうたいにいった際に案内された鳥取春陽の石碑には知道の揮毫による春陽の石碑が建っていた。今回の目的はそもそも、ここ茅ヶ崎に二カ所ある唖蝉坊の俳句を刻んだ石碑を訪ねることだったが、共に市街地からは離れた素人眼には分かりにくいところにあった。一つの石碑は妻タケの故郷菱沼地区内にある長福寺境内にあり、1960年始め頃に建立されたといわれている。石に彫られている句は「河豚食ふて 北を枕に寝たりけり」というもので、この句は浅草の唖蝉坊碑の除幕のときに配られた「染め抜きの手ぬぐい」八句の中から選んだそうだ。長福寺のまわりは民家が密集しており、そこの狭い道路を車でもう一つの句碑のある杉崎家の墓地へ。車で5分もかからない旧街道である大山街道沿いに並ぶ新旧合わせ並ぶ墓石の中に石碑はあり、その後ろに白塗りの木の立て札に大山街道句碑と書かれていた。というのもこの石には唖蝉坊の句と並んで杉崎鳥花の句も彫られているからだ。杉崎鳥花というのは先に触れた茅ヶ崎在住の唖蝉坊の友人で、句を進めた人。本名は杉崎鍋之進といい、赤羽根神明大神官の神官で、かつては此の辺りの膨大な土地を有しており、地名の松林にあるような松に囲まれた長閑な所だったそうだが、今は墓のまわりに新興住宅が押し寄せここもまた明治時代の面影はない。ここの句碑に刻まれた句は杉崎鳥花の「春風や いそがぬ人のそでを吹く」と唖蝉坊の「密会の かなしみを泣く 蛍かな」。碑は1963年に建てられている。共に60年代初期に建てられた句碑であるが、どちらも表立った唖蝉坊の句碑という説明がなく一般の人に知られていないのが残念であるが、今は唖蝉坊の存在そのものも民衆の記憶から遠のいているのだからこれも仕方ないことかもしれない。

<杉崎氏墓地内の唖蝉坊句碑>
 茅ヶ崎はもう一人唖蝉坊と並んで興味深い人物、川上音次郎とも縁が深いところで、こちらの所縁の地も訪ねたかったのだが、今回は唖蝉坊と云うことで、この後隣町の大磯に車を走らせ、唖蝉坊の生家があったとされる場所を訪ねた。
 新橋—横浜間の鉄道が日本で初めて開通したのは唖蝉坊が生まれた明治5年1872年だった。そして彼が14歳の時にその「怪物」という汽車を見て驚き、その翌年に横浜—国府間に大磯駅が開業されており、生誕地の大磯西小磯はその東海道線に隣接した場所だった。楠さんが旧土地台帳と照らし合わせて確認した場所は一面トウモロコシ畑の拡がる畑地で、その隅に無人の壊れた民家が残っていたが、唖蝉坊家とは所縁はないらしい。「流生記」の中で子供の頃に悪戯で火をつけたという山と思われるそれがトウモロコシ畑の彼方に見え、ここだけがわずか明治の頃を彷彿させてくれる。

<大磯・唖蝉坊生家跡地>
 唖蝉坊が生まれた頃は寒村に過ぎなかったこの大磯はやがて政治家や富豪達の別荘が建ち並ぶようになり、今も夏の行楽地として賑わいをみせている。トウモロコシ畑と壊れた一軒家の他、ここにも唖蝉坊の生家だったことを示すものは何も無く、唖蝉坊らしいといえばそれまでだが、せめて説明の看板だけでも建ててほしいと思った。
 茅ヶ崎・大磯は以上のような所縁があるところだが、唖蝉坊や知道は演歌師であり全国を歩き回って来た風来の徒でもあり、各地にこうした所縁のある場所が点在していることだろう。これから再スタートする「邦楽番外地」でもさらなる唖蝉坊・知道との出会いを求めて所縁のある所に足を向けて行きたいと願っている。そのスタートが金沢、富山から始まる。

カン・テーファンとの再会・再演 / 名古屋・静岡


<カン・テーファン> <土取利行>
 五月の郡上八幡での韓国打楽器集団ノルムマチとの熱い演奏が終わって一月あまりが過ぎた。昨日はそのノルムマチから来年ソウルでの再演の呼びかけがあった。そんな余韻の続く中、韓国からのもう一人の音楽家が来日する。ノルムマチとは対照的な、グループではなく一人で、そして楽器は伝統的なそれでなく西洋のアルトサックス、演奏は完全な即興演奏。この孤高のアルトサックス奏者カン・テーファンとのデュオ・コンサートを名古屋と静岡の二カ所で開催する。
 まずは6月25日(火)、名古屋TOKUZO名古屋市千種区今池1-6-8 ブルースタービル2F
開場:18:30 開演:19:30 前売り:3500円 当日:3800円 
予約052-733-3709 詳細はhttp://www.tokuzo.com
続いて6月25日(水)、静岡「青嶋ホール」静岡市葵区西草深町16-3
開場:18:30 開演:19:00 前売り4000円 当日4500円
予約問い合わせ/ IMA静岡054-253-6785 mail/ imaszok@yahoo.co.jp
青嶋ホールへのアクセスhttp://www.s-cnet.ne.jp/~scn01741/access.html

カン・テーファンについては2011年に共演したときにブログに書いたものを掲載しておく。
「アルトサックス奏者カン・テーファンは、韓国の孤高の即興演奏家である。安保で揺れていた60年から70年代、日本の音楽界ではヨーロッパやアメリカの動向に影響を受け、自由を標榜する音楽家達が既成のロックやジャズを超えたフリージャズやパンクロック等に熱中し始めていた。で、韓国はというと、いわゆるスタンダードなジャズやロックさえも演奏することがままならぬ独裁政権が続いており、ましてやフリージャズなどを口にする者等もほとんどいない状況だった。中等高等学校時代からクラシックのクラリネットを吹いていたカン・テーファンは、60年代にソウル芸術大学でジャズと出会い、その後南北戦争の余波が残るアメリカ軍関係のクラブでビッグバンドに参加するなどして活動していた。そしてサックスでのジャズ演奏に切り替え1967年、23歳のときにリーダーバンドを結成する。しかしオーソドックスなジャズ演奏に疑問を持ち出した彼は、70年代後半から自由な音楽を目指し、独自の音楽スタイルを追求して行くようになる。この頃1978年のソウルはジャズミュージシャンでさえ30人程しかいなかったという外来音楽戒厳令の状態だったが、その中でフリージャズという過酷な演奏の道を彼は選択し、その意志は今日までぶれていない。70年代後半といえば私は間章との邂逅で近藤等則等とEEUなるグループを結成し、フリージャズからフリーインプロビゼーションを展開。その後すぐに渡米、渡欧し、欧米の即興演奏の大家たちとの演奏で連戦錬磨を繰り返し、ジャズとはおよそ縁のないと思われるピーター・ブルック劇団での音楽活動にも入って行く。さらに世界の民族音楽への興味からアフリカ、アジアの音楽を吸収し、日本の伝統音楽や古代音楽へと開眼して今にいたっている。しかし私自身、さまざまな音楽の道を彷徨っているようで、実は一貫している音楽姿勢と云うものがある。それはどんな音楽においても、即興演奏ということを重視してきたということである。カン・テーファンと共通するところがあるとすればこの即興演奏へのこだわりというところだろうか。彼はジャズによって洗礼を受けたアルトサックスという西洋音楽金管楽器だけに集中してこの即興演奏に向かうのに対し、私はあらゆるパーカッション、のみならず弦楽器も気鳴楽器も、時に声や歌をも使って即興演奏に向かう」

 今回のデュオではドラムセットを中心にフリーインプロビゼーションに徹したいと思っている。ちなみに名古屋での演奏はもう思い出せないほどはるか昔に遡ってしまっている。静岡もしかりである。またとない機会をお見逃し無く。

「日韓パーカッションアンサンブル」土取利行&ノルムマチ・郡上独占公演

 5月6日連休の最終日、快晴。春の太神楽が終わり、郡上踊りの始まる中間期、おそらく郡上八幡では初めてとなる本格的な韓国の音楽家を招聘しての公演が開催された。題して「日韓パーカッションアンサンブル・土取利行&ノルムマチ」。先のブログで紹介した韓国の打楽器集団ノルムマチと私のコラボレーションによる演奏会である。ノルムマチはチャング、プク、チン、ケンガリという打楽器(四物)にピリとホジョク(リード楽器)を加えた五人のメンバーで、世界公演を繰り広げている韓国で最も忙しいといわれているグループだ。

<土取利行&ノルムマチ郡上公演>
彼らとのそもそもの出会いは、2010年6月にLGアートセンターでピーター・ブルックの「11&12」を上演するためソウルを訪れたことに始まる。私にとっては本当に近くて遠い国だった韓国だったが、知人からソウルに行ったら是非会うようにと薦められていたのがノルムマチだった。ところが私が「11&12」の公演中、連中は相変わらず演奏旅行で留守、会えたのはソウル滞在を一週間ほど延ばした最後の日近くだった。その日も彼らはどこかで公演があり、ソウルに戻って来たのは真夜中に近い時刻、ここでキム・ジュホンやメンバーと会って、少し一緒に演奏もし、機会があれば日本でいつか演奏しようと約束をして別れ、今日にいたったのだが、幸いキム・ジュホンは毎年名古屋にワークショップで訪れており、昨年はその帰りに立光学舎に立ち寄ってくれ、その前年は私が名古屋に彼を訪ねていた。

<ノルムマチ立光学舎到着>
 コンサートの計画が具体的に持ち上がってきたのはこうした交流が続く中、立光学舎のスタッフでイヴェント制作者を目指す井上が、郡上で私とノルムマチのコンサートを企画・製作したいと意欲的になってきたことにある。一言で制作と云ってもその仕事は雑多複雑であり、郡上のようなところでは人間関係、人付き合いがなんにおいても欠かせなくなってくる。彼は郡上の新参者として同世代の新たに此の地域に住んで暮らす者との交流を始めとして一年と数ヶ月を通して地域古参の人達とも交流の網を徐々に張り巡らせていき、とりわけ収容人数500席という会館をほぼ満員にするという努力結果をものにした。八幡町の郡上文化センターでの私の公演は初めてだが、かつて1988年立光学舎設立の際に。郡上八幡フェス「インドが舞って郡上が踊る」といタイトルで、インドからタゴールをテーマにした会を持ち、国宝級舞踊家「ムリナリニ・サラバイ率いるダルパナ舞踊団」とタゴール・ソングの名手シャルミラ・ロイを招聘し、その後の日本の、また郡上での私達の文化活動をタゴールの文化活動を指標に模索したいと願っていた。このフェスを機に桃山晴衣と私はその後十年間近く、タゴールベンガル地方を中心にインド文化を世界に発信したようにここ郡上に残る芸能や伝承文化を中心に、地元の高雄歌舞伎の役者達と創作劇の上演やシンポジウムを展開し、地域の活動を通して今の日本や世界の文化の認識を深めていった。私達が活動を共にし、学んでもきた古老の大半は他界され、桃山晴衣までもが夭折してしまった今、井上達、新参者がここ郡上で寄り集まり、イヴェント制作を通して何を志し、実現してゆくかは未知であり、見守ってゆきたいと思っている。
 ノルムマチとの公演はまだ今でも熱気がさめやらず、郡上のあちこちで感動の声が聞かれるという。この演奏について説明するは愚、発信したYOUTUBEその感動の余韻の僅かでも感じ取っていただければ幸いである。


<土取利行&ノルムマチ郡上公演>

土取利行+韓国打楽器集団ノルムマチ・郡上独占初公演

 ここしばらく「添田唖蝉坊・知道演歌」に集中していたが、5月は久々に本格的なパーカッションの演奏会を開催する。韓国ソウルを拠点に世界各地で巡演を続けている打楽器集団ノルムマチを我が本拠地郡上八幡に迎えての公演である。
 まずは公演のお知らせ。
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日韓パーカッションアンサンブル「土取利行&ノルムマチ」
2013年5月6日(月・休)PM6:00開場 PM7:00開演
会場:郡上市総合文化センター(2F文化ホール)
前売り:3500円 当日4000円
予約・問い合わせ/080-1994-4647

詳細はこちらから
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 ノルムマチとは韓国語で遊びを意味するノルムと、終えるを意味するマチとの合わさった言葉で、大意は一緒に遊び終える人ということらしい。
 このノルムマチは、かつて1970年代に一世風靡したサムルノリの名手イ・グァンスによって1993年に結成された。当時のグループは様々なクガク(国楽)のメンバーで構成され、チェサンソゴ舞のマスター、キム・ウンテ、テピョンソ奏者のチャン・サイク、パンソリ・マスターのハン・スンソクそしてこの中に、最年少のキム・ジュホンが入っていた。しかし1995年のデビューコンサートの後、メンバーはそれぞれ各々の活動に従事し、キム・ジュホンが新たにリーダーとなって、他の国楽者とグループを結成した。

サムルノリ・オリジナルメンバー<左より:イ・ガンス、キム・ヨンベ、キム・ドクス、チェ・ジョンシル>
 今回来日するノルムマチの現リーダー、キム・ジュホン(金株弘)は生まれが韓国の最西南端に位置する珍島(チンド)で幼少から巫楽に親しみ、1993年ノルマチ入団後は自らパンソリも修得している唄の達者でもある。ノルマチの基本は四つの楽器からなるサムルノリであるが、ジュホンはこれら一つ一つの楽器をフューチャーした楽曲を作り、口唱歌のような合唱や、踊りなども新たに加えながらノルムマチのレパートリーを開発している。彼らのメインとするサムルノリとは四物(サムル)で遊ぶ(ノリ)を意味し、この四物は彼らの奏する異なる四種の楽器からなる。

<ノルムマチ>
 四物の楽器には、まず円形の薄い径20cmくらいの金属製鉦ケンガリ(小鉦)があり、これはシンバルのような鋭い高音域の打音を発し、一際目立ったアクセントリズムを供給する。もう一つのジンという銅鑼の一種はケンガリと対照的に余韻のある低く深い音を提供し全体のリズムの節々に打たれる。これら二種の金属製楽器に対をなすように二種の皮膜楽器がある。まずはおなじみのチャング(杖鼓)で、全長70~75センチくらいの木製砂時計型胴に両面皮膜を張った横打太鼓である。左右異なる撥で打ち、軽やかで複雑なリズムを打ち出せる楽器の花形ともいえる。この高音域のチャンゴに対し、低音行きのプクという太鼓がある。これはパンソリにも使われ、ジンと同様に間をとりながら拍子をキープする重要な楽器である。このように二つの高低に分かれた金属楽器と皮膜楽器によってリズムの宴を醸し出すのがサムルノリで、これらの音楽の起源は放浪芸能集団・男寺党(ナムサダン)に遡る。
 ナムサダンは李朝時代からこの数十年ほど前まで朝鮮半島各地を巡回して人々を楽しませていた芸能集団、男たちだけで構成されていて、とりわけ李朝時代には厳しい身分差別の試練を受けながら、芸を守り抜いて来たたくましい文化伝導者である。李朝社会は職業と深く結びついた身分制度両班(ヤンバン:支配階級者)と良人(サンノム:常民ないし被支配階級)、そして細かく分けられた奴婢が制定され、奴婢の男寺党は中でも最下層の八賤(私奴婢、僧侶、白丁、巫堂(ムーダン)、広大、喪輿車、妓生、工匠)に属していたとされる。

<男寺党:ナムサダン>
 放浪芸人・男寺党は秋冬の収穫の余興で農村を廻り、春夏には豊漁祭で漁村を巡る。風物(プンムル:農楽)、皿回し、とんぼ返り、綱渡り、仮面劇、人形劇などの遊戯で民衆を喜ばせ、祝福し、祈願した。これらの楽を奏でるのが四物の打楽器とテピョンソ(太平簫)というチャルメラのようなリード楽器。今回のノルムマチもこの楽器編成で組まれている。
 1970〜80年代にかけて韓国はもとより、日本でも多くの人に韓国民衆音楽の強烈な印象を与えたサムルノリのリーダー、1952年生まれのキム・ドクスはまさに近代化が始まりこうした放浪芸が、国楽の芸術音楽とみなされる以前の男寺党に5歳の頃から入団し、7歳の時に全国農楽競演大会で大統領賞を受賞している異才。1970年に韓国国楽芸術学校を卒業し、1978年にサムルノリを結成し、80年代に世界公演に赴き、存在を知らしめた。
 このサムルノリ創設メンバーが、キム・ドクス、キム・ヨンベ、イ・ガンス、チェ・ジョンシルの四人で、ノルムマチの創設者がこの中のイ・ガンスということである。今回競演するキム・ジュホンはイ・ガンスやキム・ドクスの弟子であり、サムルノリの次世代にあたる。いわば私の子供のような世代であるが、彼らが今後伝統と新たな創造をどう拓いてゆくか、大いに期待するところであり、演奏が楽しみである。

<ノルムマチ>