馬喰町ART+EAT 桃山晴衣『人間いっぱい うたいっぱい』出版記念特別展示会&イヴェント

桃山晴衣遺稿集『にんげんいっぱい・うたいっぱい』
出版記念展/開催期間:4月19日(火)〜30日(土)

会場/馬喰町ART&EAT
https://www.art-eat.com/
〒101-0031 東京都千代田区東神田1-2-11 アガタ竹澤ビル202. TEL:03-6413-8049

■ 出版記念特別展示会では、著作タイトル『にんげんいっぱい うたいっぱい』が示すように、桃山晴衣の多彩な人々との交流と、三味線による、うた・語りの飽くなき探求の軌跡が、写真パネル、遺品、映像、音源等で紹介される他、特別イヴェントとして、彼女と関わりのあった人たちの貴重なトークやパーフォーマンスが開催されます。

東京大空襲を子供のときに体験し、敗戦後の日本社会の急激な様変わりを目の当たりにしてきた桃山晴衣は、とりわけ六十年代からの高度経済成長に伴い、自然から乖離してゆく近代生活によって感性の所在をなくしていく日本人に向けて伝統文化の大切さを、絶えず自問自答しながら、音楽活動を通して訴えてきた。その彼女の理想とした日本の伝統文化が因習的で創造性のないものではないことは、本書の遺稿『にんげんいっぱい うたいっぱい』が物語っている。
 <個の充足と隣人を受け入れるやわらかさ>。
 彼女は古曲長唄、端唄、小唄、復元曲、明治大正演歌、梁塵秘抄、今様浄瑠璃と、縦割りの邦楽界を飛び出し、多岐にわたる日本音楽を身につけ、その独創的な実践を通して、日本人の豊かな感性を伝えてゆくと同時に、ピーター・ブルックデレク・ベイリーピナ・バウシュなど世界のアーティストとも創造的な交流をはたしてきた。
桃山晴衣『にんげんいっぱい うたいっぱい』の土取利行あとがきより)
 

スペシャル・ライヴ・イヴェント】
◉4月22日(金)開場18:00 start 19:00(終演予定21:30)
スペシャルライヴ参加費 予約:3500円(1drink ) 当日:4000円

【一部】トーク桃山晴衣と於晴会」
遠藤利男(日本エッセイストクラブ理事長)× 木村聖哉(作家)
【二部】パーフォーマンス『梁塵秘抄建礼門院(大原御幸)』
出演:安田登(謡)&土取利行(三味線、ウード、エスラジ・歌)


   
◉4月23日(土)開場16:00 start 17:00(終演予定20時頃)
スペシャルライヴ参加費 予約:3500円(1drink ) 当日:4000円

【一部】トーク添田唖蝉坊・知道の演歌と桃山晴衣
中村敦(神奈川近代文学館)×土取利行(音楽家
【二部】コンサート『添田唖蝉坊・知道を演歌する』土取利行(歌・三味線)+岡大介(カンカラ三線・歌)


パリでの出会い。クーリヤッタム舞踊家、カピラ・ヴェヌーの成長

久しぶりのブログです。
2015年10月11日、昨夜、公演休みで南インドの古典舞踊「クーリヤッタム」をモンパルナス近くの世界文化館で観た。『Battlefield』観劇にきた客からの情報で旧知の女性舞踊家カピラ・ヴェヌーの独舞だと聴いたので馳せ参じた。30年ほど前、ブルック『マハーバーラタ』公演がセゾン劇場で開催された。この時、世界各地で行われてきた「インド祭」が日本でもあり、セゾンからこれまでにない企画をと、頼まれ土取利行・桃山晴衣監修の下、『タゴール』をテーマにした絵画展、映画祭、コンサート、舞踊、シンポジウムを企画。同時に国際交流基金が『クーリヤッタム』を始めて招聘した。クーリヤッタムは12世紀頃に起源を辿る南インドサンスクリット伝統舞踊で特別な家系の人たちによって伝えられて来たが、近年その継続があやぶまれ、カターカリ舞踊家でクーリヤッタム舞踊家のG・Nヴェヌーが実践家、研究家として精力的にその後継者育成等にも力を注いできた。カピラは南インドの古典女性舞踊家でクーリヤッタム舞踊家でもある母のニルマラ・パニカルと父G・Nヴェヌーの間に生まれた女性で、30年前のインド祭の「クーリヤッタム」公演の際は父母に手を引かれた子供だった。その後、青人になってからは古典舞踊だけでなく現代舞踊や演劇にも興味を持ち、白州でのワークショップに何度か顔をみせたり、日本公演も度々行って来た。もう十年以上も会っていなかったが今回はクーリヤッタムの女性独舞ナンギャル・クトゥーの上演で来仏。ミザーブ(壷太鼓)とウデッキの細やかなリズムとは対照的な静的な動きと顔の仕草だけで物語を伝える技は、30歳を越えた彼女にしての熟成がみられた。公演後カピラに会った。生まれて一年という子供を手に大きな目を輝かせ、パリで会ったのが信じられないと喜んでくれた。父のヴェヌー氏は今回見えなくて残念だったが、彼女の成長した姿をみてうれしかった。私がヴェヌー氏と始めて会ったのは彼がアマヌール・チャキール師と同行してマンダパという小さな劇場でワークショップを持ち、「マハーバーラタ」の準備を進めていた私たちにデモンストレーションをしてくれた30数年前。それ以後もケーララを訪れ親交をもっていた。カピラ一行は翌々日すぐにインドに戻るというハードスケジュールで私たちの『Battlefield』を観てもらえないのが残念だったが、南インドの爽やかな風が吹き抜けたパーフォーマンスの一時だった。なお、先述のマンダパ劇場と今回の世界文化館は共に桃山晴衣がパリでコンサートを開き、私が彼女と始めて出あった場所であり、時でもあった。

■カピラ・ヴェヌーのクーリヤッタム

■公演終了後、子供を抱えてのカピラと再会。

ピーター・ブルック『驚愕の谷』への旅(二)


<驚愕の谷@ブッフ・ドュ・ノール劇場>
 『驚愕の谷』の初演はパリのブッフ・ドュ・ノール劇場。いうまでもなくブルック演劇を語るに欠かせない、彼が40年近くにわたって活動の拠点とし、演劇史に残る多くの作品を創作し上演してきた場所だ。この劇場の歴史は古く、創設は1876年(明治9年)にまで溯る。劇場は開設以来、何度も経営者やディレクターの変遷を繰り返し、1904年〜1914年にはモリエール劇場として多くの作品を上演。その中にシャンソン・リアリテの改革者アリスティード・ブリュアンが自ら「舗装の花」という作品を上演して話題になったとの記録もみえる。当時この界隈で人気を博していた彼だからありえることだが、まさかこの劇場に彼の声が響き渡っていたとは感動的である。

<アリスティード・ブリュアン>
その後もブッフ・ドュ・ノール劇場は演劇や音楽の劇場として様々な変遷を繰り返し1952年に国から建築物老朽化の警告を受け閉館となってしまう。そして22年の風雪に晒されて朽ち果てようとしていたこの劇場は、ロイヤルシェイクスピア劇団を離れ演劇の再考を試みてアフリカに旅立ち帰還して来たピーター・ブルックと以後彼の創造を可能にさせた豪腕プロデューサー、ミシュリン・ロザーヌ女史によって1974年に再開され、最も前衛的かつ新たな実験の場として光り輝くことになっていく。ブルックとミシュリンがこの劇場を訪れた時、中は廃墟同然で雨や風で壁は至る所に穴があき、崩壊した瓦礫が山と化していたが、100年経ても建物の骨格は崩れておらず、むしろ威風をはなったこの劇場を、ブルックはこのまますぐにでも使用したかった。彼らは政府の援助と許可を申請するも、許可と費用の審査には二年を要するとの返事。ミシュリンはこの返事を認めることが出来ず、当時のフェスティバル・ド・トーヌのリーダー格だったミッシェル・ギーの助力も借り、その年にこの劇場でフェスティバル参加作品としてブルックの『アテネのタイモン』を上演して再開を可能にした。

アテネのタイモン@ブッフ・ドュ・ノール劇場1974年>
 私がこの劇場を訪れたのは、この翌年の1975年。チベット死者の書を基にしたヨシ笈田演出の実験劇『般若心経』の公演会場がブッフ・ドュ・ノール劇場だったからだ。笈田氏はこの時すでにブルックがアフリカ縦断の旅に出たときのメンバーでもあり、75年のフェスティバル・ド・トーヌに日本で製作した自らの作品を持って参加した。そして、私はその音楽を担当したことから、ブッフ・ドュ・ノール劇場で、ピーター・ブルックとも初めて出会うことになったのであるが、この時の私の動向については他の場所でも記しているので省略する。こうした縁があって私はさらに翌年からブルック劇団と即興劇の旅へ、そしてその翌年の77年にはブッフ・ドュ・ノール劇場でのブルック演出『ユビュ王』の音楽を担当することになり、以後劇団の音楽家として『鳥たちの会議』『マハーバーラタ』『テンペスト』『ハムレットの悲劇』『ティエルノ・ボカール』『11&12』などをこの劇場で上演してき、振り返ってみれば今回の『驚愕の谷』で40年近くこの劇場と付合うことになっていたというわけである。

<「テンペスト@ブッフ・ドュ・ノール劇場>
 数多くのピーター・ブルックの伝説的作品を生み出して来たブッフ・ドュ・ノール劇場であるが、現在この劇場は実質的にブルック、ミシュリンの手から離れ彼らの下で働いてきたオリビエ・マンテイと現代音楽畑で働いて来たオリビエ・プーベルの二人をディレクターとして継続されている。このバトンタッチが行われたのは2010年私が音楽を担当したブルック作品『ティエルノ・ボカール』上演期間だったと思う。ミシュリンの体調がすぐれず、これ以上プロデューサーとしての仕事ができなくなったというのが大きな理由だろう。この時点でブルックは前述の二人にプロデュースをまかせ、ブッフ・ドュ・ノール劇場の今後が問われることになった。「ブルック引退」の記事が新聞でも取り上げられたので、演出活動もやめてしまうのかと思っていたら、その後も『11&12』『ベケットのフラッグメント』オペラ『魔笛』再編版『スーツ』を立て続けに演出し、今度の『驚愕の谷』が89歳の新作となったのである。

<赤の森、ブッフ・ドュ・ノール劇場での「ティエルノ・ボカール舞台>
 ブルックが劇場のディレクターとして君臨していた2010年まではほとんど他の公演にこの劇場を貸すこともなく、彼の理想を実現するためにこの劇場がリハーサルから公演まで一貫して用いられて来たが、今は劇場経営もあり、音楽と演劇を主にした他のプログラム公演が組まれていて、以前のようにブルック自身が自由に使えることが難しくなってきた。そのため、『驚愕の谷』のリハーサルは半期間を他の小劇場のスペースを借りて行い、残りの期間をブッフ・ドュ・ノール劇場で行うことになった。本作品は「赤い森」と形容もされたブッフ・ドュ・ノール劇場が初演となったが、壁の多くが赤く塗られたのは『ハムレットの悲劇』あたりからであろう。この劇場の装飾や塗装の一つ一つにはブルックが演出してきた作品の痕跡が残されており、久々に舞台に立った今、これらの跡に数々の出演作品の思い出を重ね合わせて見ている自分がいた。

<「驚愕の谷」舞台に置かれた土取利行の楽器>

ピーター・ブルック『驚愕の谷』への旅(一)

「演劇は私たちを驚かせる為にあり、また二つの相反する要素<一般的なものと驚異的なもの>を配合しなければならない。最初の探求であった『マン・フー』において私たちは、しばし狂人の位置に追いやられてきた神経障害患者の脳、自身の病気に起因したり、予測できない習慣を持った人間に直面した。それはしばし悲しく、時に愉快でもあり、いつも揺れ動いた。彼らは我らであり、我らは彼らでもある。ここで私たちは再び脳への探求をしようと思うが、今回、観衆は、音楽、色彩、味覚、イメージ、記憶において ある瞬間からもう一つの天国、地獄へと彼らを動かす強度な経験を持つ個々と、直面するだろう。
偉大なペルシャ詩人アッタールの「鳥の言葉」には、30羽の鳥が、一つ一つ段々と厳しくなっていく七つの谷を越えて彼らの探求の旅を完成させなければならないという話しが記されている。今回は人間の脳の山や谷へと入ってゆき、私たちは六番目の谷である、驚愕の谷へとわけいる。私たちの足はずっと地についているが、一歩ごとに未知へと進む。」   ピーター・ブルック
 

<ピーター・ブルック『驚愕の谷』パリ、ブッフ・ドュ・ノール劇場>
  郡上の立光学舎の山々に薄く根雪が残る2014年2月26日、名古屋国際空港からパリに飛んだ。2012年5月にピーターの長男サイモン・ブルックが監督を務めるブルックのドキュメント映画『タイトロープ』の撮影で渡仏して二年近くが経っていた。この間にピーターは日本公演のあったオペラ『魔笛』と前作をミュージカル仕立てにした『スーツ』を製作し、後者上演の際に来日した共同演出のマリー=エレーヌ・エティエンヌと東京で食事をしている時に、『驚愕の谷』についての話しがあり、同時にパリのピーターから音楽の依頼電話があった。
 ここ数年、私は桃山晴衣が亡くなってから、彼女が二十数年にわたってご意見番をしてもらっていた添田唖蝉坊の長男で演歌師でもあった添田知道師から直接習っていた唖蝉坊・知道演歌を残された三味線で歌い継ぐ活動を続けていた最中で、これを中断するのも少々迷ったが、とにかく40年近く一緒に仕事をさせていただいたブルックの仕事、しかも今年89歳という高齢での創作ともあってこちらを優先せざるをえなかった。
 『驚愕の谷』とはペルシャ神秘主義詩人アッタールの『鳥の言葉』に記された7つの谷の一つの名称で、ブルックはこの物語詩をジャンクロード・カリエールの脚本をもとに、1979年のアヴィニオン・フェスティヴァルで上演した。このとき既に私は劇団の音楽家として参加していて、この音楽作りがもとで次作の『マハーバーラタ』の音楽監督・演奏を全面的にまかされるようになった。というのも、実はこのアヴィニオンフェスでは『マハーバーラタ』を上演すべく劇団は準備を重ねていたのだが、ブルック、カリエールが脚本を構築するうちに予定していた物語の一部ではなく、壮大な叙事詩の全編を演劇化するという方向に変え、この時点で以前から何度か実験を繰り返していた『鳥の会議』(原題は「鳥の言葉」)の劇化に踏み切ったのだ。ここではそのプロセスは省くが、今回の劇はこの『鳥の言葉』の詩をいくつか折り込みながら展開する人間の脳の神秘を描く、ブルックいうところの演劇的探求である。

<アヴィニオンでの「マハーバーラタ」公演で、ブルックとカリエール>

 この人間の脳を主題にした作品は1993年の『マン・フー』に端を発するもので、神経学者のオリバー・サックスとの出会いが影響している。『マン・フー』はサックスの『妻を帽子と間違えた男』の演劇化でこの著作に登場する精神障害をもった患者を4人の役者が医者に患者にと入れ代わり立ち代わり演ずるもの、音楽を私と『マハーバーラタ』の音楽を共にしたイラン人のケマンチェ奏者マモード・タブリジ・ザデーが担当していた。(私は1988年に『マハーバーラタ』公演が東京で終わり一段落した時点で、桃山晴衣と活動拠点の郡上八幡で新たな活動を始めたため、後をマモードが担当するようになった)。しかし、そのマモードが予期していなかった重病になり『マン・フー』上演途中で亡くなってしまったのだ。日本公演のときには、彼の実演ではなく録音音源が使われていた。マモードはケマンチェという繊細なイランの伝統擦弦楽器の奏者であると同時に、いくつかの楽器も演奏できる柔軟性を有した音楽家でブルック劇に欠かせない音楽家となっていただけに、彼の死は大きかった。私が再びブルックから依頼を受けたのはマモードなき後、『ハムレットの悲劇』を創作するにあたっての時期だった。その後、『ティエルノ・ボカール』やその英語版『11&12』と以後、今に至るまで『魔笛』『スーツ』などの西洋音楽を主にした作品以外は関わってきた。というわけで、今回の参加はマモードへのオマージュの意味も含まれている。
 また『マハーバーラタ』以来、ジャンクロードやピーターと脚本作りに加わってきたマリー=エレーンの存在が、ピーターが高齢になったこともあり年々大きくなってきている。実は『マン・フー』はマリー=エレーンが入院していた時に出会った患者や医師との経験が発端で生まれたとブルックが語っているが、この『マン・フー』についで、ブルックとマリー=エレーヌはロシアの神経心理学者A.R.ルリアの著書『偉大な記憶力の物語』(岩波文庫)を基に、『私は現象』を1998年に舞台化している。そして今回、これら前二作の集大成ともいうべき『驚愕の谷』生まれたのであるが、この作品はタイトルが示すようにペルシャ神秘詩人アッタールの『鳥の言葉』に記された隠喩を劇中に散りばめた、神経心理学的探求劇とでも題したらいいのだろうか。脚本は以前のA.Rルリヤの『偉大な記憶力の物語』を主に、幾人かの共感覚者の記録をもとに構成されている。そして今回の作品が前二作と異なるのはルリアの著書に登場する超記憶能力者で共感覚者のシィーという人物を中心に置くことで物語性が強調されたことである。

<A.R.ルリア1902~77>
 私は『マン・フー』を日本で見ていたので、オリバー・サックスの作品もいくつかは知っていたが、『私は現象』は外国での上演がほとんどなかったため、作品自体も見ていなかったし、その基になったA.Rルリヤのことも知らなかった。そのため共感覚というのも初めて聴く言葉で、今回のリハで幾人かの共感覚者と実際に会ったのも初めてのことだった。共感覚というのは「一つの感覚器官によって複数の感覚を知覚する現象」で、例えば文字や数字にそれぞれ異なる色彩を見たり、色彩に音を感じたり、音に臭いを感じたりと、一般の人が使い分けをする感覚を脳が同時にする特異な感覚である。この共感覚の研究はヨーロッパなどで古くから話題になってはいたが、一般の関心をあおぐようになったのは近年のこと、特にアメリカやイギリスで研究が盛んになり、オリバー・サックスをはじめ、ブルックが何度か会っている英国のバロン・コーエンなどの著作が一般の読者にもしられるようになったのと、今までは異常者や病人のようにあつかわれていた共感覚者たちが、自らの能力を肯定的に認めるように社会的アピールを始めだし、アメリカの共感覚協会をはじめ世界各地に共感覚者達のコミュニティーが生まれだしている。またカンデンスキーをはじめ、画家や音楽家などアートの世界で活躍する共感覚者は現在でも後をたたない。このようなアーティストとして活動している共感覚者、キャロル・スティーンやジョン・アダムス、そして今では作家としても活躍する超記憶能力者として世界的に知られるようになったダニエル・タメットなど、今回の作品作りにあたっては彼らからも多くのアドバイスを得ている。

<リハーサルでであった共感覚者アーティストのジョン・アダムス(上左)とダニエル・タメット(下右から二番目)
共感覚については日本でもダニエル・タメットやバロン・コーエン、ラマチャンドランなど数々の翻訳本が出版されているし、A.Rルリヤやオリバー・サックスの著作も一般の目にふれるようになってきているので、共感覚の話はそれらの著書に任せるとして、今回の『驚愕の谷』の話しに移ろう。(次回へ続く)
 

渡仏前、残すところ二回の「添田唖蝉坊・知道を演歌する」会と新CD発表

 昨年東京で上演されたピーター・ブルック演出「スーツ」。実はこの演劇にも参加を依頼されていたが、添田唖蝉坊・知道の演歌のコンサートや研究に追われる大事な時期だったこともあり、この作品への参加は辞退させて頂いていた。89歳になるピーターは健康管理の理由で来日しなかったが、今や彼の片腕となって演出サポートをするマリエレーヌが見え、東京で一緒に食事をしている時、パリからピーターの電話があった。次回の作品は絶対に参加して欲しいという念押しで、一応唖蝉坊演歌のCDも完成させた段階なので、今回は参加を引き受けることにした。この演劇作品については後日紹介するとして、これまで続けて来た桃山晴衣の遺産としての「添田唖蝉坊・知道を演歌する」は、2月末の渡仏を前に開催する二度のライブで、しばし日本公演に終止符を打つことになる。

<先日行われた名古屋でのライブ>
 昨年は4月の神奈川県立近代文学館における「添田唖蝉坊・知道展」での講演・演奏を始め、全国各地でこの演歌の会を催すと同時に、大冒険ともいえる二枚組CD 「添田唖蝉坊・知道を演歌する」を発表し、初めて歌の世界、しかも演歌の世界という、かつての土取利行を知る人をびっくりさせたが、この演歌が想像以上の反響で、とりわけ若い者達の興味も惹くことが嬉しい。この勢いで一昨年暮れ同様、昨年暮れも新たな「添田唖蝉坊・知道を演歌する」第二弾のレコーディングを計画し、準備を進めていたのだが、同時に演歌の起源を研究しているうちに唖蝉坊以前の壮士節や唖蝉坊演歌の背景になっている歌の方に入っていき、唖蝉坊・知道演歌の第二弾は一先ず置いておいて、こちらのレコーディングを優先して進めることにした。
 その結果、この2月16日に全国発売となるのがCD「明治の壮士演歌と革命歌」である。曲目は文明開化のテーマソングともいわれる「トンヤレ節」に始まり、社会主義者達の革命歌「嗚呼革命は近づけり」まで。明治の45年間に自由を熱望し奔走した壮士や運動者達の歌を通して、日本社会の様相が垣間見えてくるだろう。
コンサートとCDの詳細を以下に。
・・・・・・・・・・・・・・
土取利行「添田唖蝉坊・知道を演歌する」
【姫路公演】
2月2日(土)開場14:30 開演:15:00
会場:MOCCO(コワーキングスペース・モコ)
姫路市綿町76 こうしんビル2F
入場料:前売り3000円 当日3500円
予約問合せ:090−4277−5682/ 090−6060−8204
mail/ banshu.fan@gmail.com
オフィシャルサイトhttp://banshu-fan.jimdo.com

【東京公演】
2月9日(日)開演:15:00
会場:シアターX(カイ)
東京都墨田区両国2−10−14
入場料:全席1000円(シアターX主催レパートリー劇場価格)
予約問合せ:03−5624−1181
mail / info@theaterx.jp
オフィシャルサイトシアターΧ(カイ)|東京両国の演劇芸術を中心とした劇場

CD案内

土取利行「明治の壮士演歌と革命歌」RG-10 立光学舎レーベル
定価2625円(税込み) 全国発売日2月16日
販売元メタカンパニー 東京都新宿区新宿7-27-6 賀川ビル501
tel/03−5273−2821 mail/ info@metacompany.jp
オフィシャルサイト土取利行 明治の壮士演歌と革命歌 [RG-10] : メタ カンパニー

添田唖蝉坊と革命歌および労働歌

 添田唖蝉坊の演歌への姿勢が大きく変わったのは社会主義者堺利彦との出会いからである。明治38年の「ラッパ節」の流行で社会党機関誌「光」にラッパ節の替歌が掲載されていたのを唖蝉坊がみつけ、その歌詞に興味を持ち、堺を訪ねた折、社会党のための「ラッパ節」を依頼されて作ったのが「社会党ラッパ節」。この時、唖蝉坊は堺利彦人間性社会主義思想に惹かれ、以来党員となって歌と演説で活動する。世は日露戦争の暗雲がたれ込め、社会主義者への国家の弾圧が続いていたが、唖蝉坊は立て続けに下層労働者の歌を作り続けて行く。この時期、明治39年(1906)に彼が作った歌はすべて発禁歌となった「社会党ラッパ節」「嗚呼金の世」「ああわからない」「あきらめ節」等。しかしこれらは今の世でも多くの人の心を動かす歌の力がある。
 唖蝉坊の「ラッパ節」がどれほど全国の労働者の間でも知られていたかという例に「足尾銅山ラッパ節」がある。この歌は当時誰もが口ずさめた唖蝉坊の「ラッパ節」の旋律を用いて、鉱山労働運動の先駆者、永岡鶴蔵が詞を作り、「日刊平民新聞」の9,10号に掲載された。

「欲という字に眼が潰れ 人たる道を踏み躙り 平民の歎の叫び声 知らぬふりする穀潰し」と始まるこの歌は、永岡と南助松によって創立された労働至誠会足尾支部の感化を受けた労働者達を鼓舞し、足尾銅山大暴動ともつながりをもつ。
 永岡鶴蔵は、明治11年頃から各地の金属鉱山を渡り歩き、それらの実情をよく知る人物で、明治35年の夏から36年にかけて社会主義啓蒙のために片山潜らが全国で演説会を開いて回っていた時、35年11月に夕張炭坑を訪れ、当時炭坑夫組合頭を努めていた永岡の家に泊まり至誠会の南助松や坑夫等と話し込む。そして鉱山の事情通である永岡をオルグとして足尾銅山に派遣するよう進めた。この要請を受け、永岡は妻子を残して上京し、片山潜宅を本部とし日本坑夫組合を結成。そして一路足尾銅山へと向かう。36年の1月から永岡は辻占売りとなり、また演歌師のように自ら作った歌をうたい歌詞本を売って歩いたがかんばしくなく、坑夫として働くようになる。90日間で坑夫の境遇を詳しく調査し、毎晩数名の坑夫を家に集めて啓蒙した彼は、二ヶ月足らずでそこに日本労働同志会足尾支部を結成し、労働者の身近な問題をとりあげ闘争をはじめる。やがて会員は1400余名となり、組織の拡大とともに永岡は坑夫をやめ、雑貨商となって共済事業に取り組み、小新聞社会主義関係の新聞雑誌を発行する。

足尾銅山
 こうした中、労働同志会への弾圧は激しさを増し、組織の立て直しを計るべく永岡は夕張から同志南助松をよぶ。この両者への坑夫達の信頼はあつく、明治40年(1907)2月1日には四山当番総代会が開かれ同盟規約を結び待遇改善24か条を決め、6日の至誠会総会で坑夫一同による請願を提出すること、主がこれを受け入れないときは、鉱業法枠内での運動をし、東京鉱山監督署に訴えることなどを決め、賃上げ、間代適正化、切り羽の安全、衛生管理、災害補償、労働者保護などを盛り込んだ請願書を提出する手はずを整えていた。
 しかしその準備をよそに、すでに同年2月4日午前に通洞第三区光一立坑第三見張所と第四見張所において、職員と坑夫の言い争いが始まり、これらの見張所への投石が行われた。やがて彼らは電話線を切断し外部への交通を遮断し、三日間に八カ所の見張所を破戒するに至る。2月6日、鉱業所長は土蔵の床下から引きずり出されて負傷、単なる微傷だったが、警察は至誠会幹部の永岡鶴蔵、南助松等を教唆煽動の理由で逮捕した。

 ところがその逮捕で7日には坑夫達の暴動はエスカレートし、高崎歩兵三個中隊が出動して暴動を抑え、政府は足尾鉱山に戒厳令を布き、鉱夫の強健鎮圧を計った。検挙者460人は導火線の縄でしばられ栃木中を数珠つなぎに行進させられたという。
結果、事件後、銅山側は全従業員をいったん解雇し、身元の明らかなものだけを再雇用し2割の賃金をアップしたが、施設の被害は甚大となった。
 裁判で検察は至誠会の暴動示唆を主張したが認められず、南助松と永岡鶴蔵は無罪の判決となった。
 こうして「予戒令発動を機とした警察の取締りの強化は,同志会員の離脱を招いた。少数の活動家を除き,ほとんどの労働者は永岡のもとに寄りつかなくなった」「 こうした経験を経てからの永岡の一般労働者に対する評価はきわめて醒めたものがある。公判廷で同志会の衰退理由について問われた彼は,財政の赤字をあげた上で,つぎのように述べている。『一体労働者などには実際会の必要なる事を感じて入会する様の者は極めて尠ない。只進〔勧〕めらるれば這入る。全然御祭り騒ぎを遣るのみで先き先きの事などは考がひ〔へ〕ぬ』。この時期,永岡は行商と運動を結びつける形で,当時流行っていたラッパ節などに自作の歌詞をつけて歌いながら,飴などを売り歩いた。その1つ〈足尾銅山労働歌〉にも,彼の労働者仲間に対する気持ちが現れている」(二村一夫「足尾暴動の歴史分析」)。
 この暴動に関しては荒畑寒村も「平民新聞創刊後約一ヶ月にして勃発した足尾銅山の騒擾は、社会党大会の論争とともに、日刊平民の全存在期間における最大の事件」と記し、事件当時平民新聞の取材で現地に赴いていた記者の西川光二郎が足尾の同志等と逮捕されたことから、急遽代役で急行することになったというが、ここでは幸徳秋水平民新聞ではなく二六新報の肩書きを借りて寒村を送り出している。
 「空はくまなく晴れていたが、細尾峠を越える時には積雪脛を没し、雪は藍関を擁して馬すすまずと詠じた故人の心も思いやられる情景である。戒厳令下の足尾町に入ると、軍隊は本山、小滝、通洞に各一個小隊、細尾に五分隊、その他は足尾町に分駐し、宿屋という宿屋は軍隊の司令部、裁判官、警察官、新聞記者であふれている。そしてすでに検挙された坑夫と、護送の巡査と、まだダイナマイトをかかえて坑内に潜む坑夫の逮捕に向かう警官の決死隊と、新聞記者とが雪解けの泥濘をふみかえして狭い街路を右往左往し、さながら戦場のような騒ぎであった」と寒村は当時の現場の様子を描き、警察が速くも彼の正体を察知し尾行を始めたことで宇都宮監獄に送られた夫君に妻達が差し入れに赴くのに同道して足尾を脱出したという。なお至誠会の南助松は「好人物であったが少し大言壮語の癖があり、釈放後は上京して書画の販売をしながら、いつも五万の十万のと夢みたいなことをいっていた。彼の同志であった永岡に至っては、南に比べるとズッと人品が下がり、後にはあまり香しからぬ事件に連座して獄死したそうである。しかし彼らはとにかく鉱山労働運動の先駆者であった。彼らは片山潜に感化されて労働運動に投じたのだが、学問なく、よき指導者なく、労働運動がまだ一般に存在せず、実に労働者階級そのものが未成熟であった当時にあっては、彼らの意識と行動だけがひとり時流に抽んずる訳にはいかなかった。ああ、彼らもまた、時代の一犠牲者というべきではなかろうか」と結んでいる。

 またこの時期には、添田唖蝉坊が唄ったことでよく知られるようになった「革命の歌」がある。この歌は、明治40年2月17日に神田錦町の錦旗館で開催の日本社会党大会で米国から帰国した幸徳秋水が労働者の直接行動、アナルコ・サンジカリズムを唱え、それが青年分子に広がる中で、社会党の従来の歌「富の鎖」より戦闘的な歌をと、「日本平民新聞」が詞を募集し、築比地仲助のものが採用され、これを当時選者の
堺利彦と親しかった添田唖蝉坊が一高寮歌「ああ玉杯に花うけて」の節で唄い流行したもの。なお「平民新聞」この歌の掲載でその号が発禁となり、この歌を唄ったものは検束され留置されたという。なおこの「革命の歌」の取材で西尾次郎平は堺利彦の娘、近藤真柄と添田唖蝉坊の息子添田知道を訪ね、その時の様子をこう記している。
「約束の時間に近藤氏のお宅を訪ねると、しばらくしてから添田氏も来られた。私はいろいろとお世話になった謝辞を述べ、ラッパ節のことなどについて二時間近くも面白い話を承った。いよいよ「革命歌」の録音に入ったが、さすがに演歌の大家だけあってその堂々とした節回しは、あの格調高い歌詞にふさわしく、当時の歌のこころをほうふつとさせる名演唱であった。歌が進んで四番目にかかり「老いたる父も痛ましく、彼らの為に餓死したり」の歌詞を歌い終えると、近藤氏は苦しかった革命運動の戦いの跡を思い出されたのか突然、絶句されてしまい、次の「ああ積年のこの怨み」という歌詞が停まってしまった。右手で涙を押さえておられたのである。この歌の選者であった父上の堺利彦氏のことや、ご自分も弾圧の犠牲者として未決生活を経験された時にこの歌を歌ったりしたことを思い出されたのではなかったろうか。五番だけは添田氏の独唱になったが、また元気にあとを続けられたのであった」。
 この時の録音テープは歴史的な記録として残るだろうと筆者はいっているが、今では行方がしれない。

桃山晴衣と近藤真柄>
 桃山晴衣添田知道師に連れられて荒畑寒村翁や近藤真柄さんの前で演歌や自分の歌を披露していた。こうして一つ一つの歌の背後の歴史を辿ってみると、桃山の歌の軌跡は深淵である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

土取利行・添田唖蝉坊・知道を演歌する
京都黒谷・永運院(京都市左京区黒谷町33)
2013年11月17日(日)開演16:00
前売り3000円 当日3500円  予約問合せ:井上080−1994−4647
■本会では「足尾銅山ラッパ節」を始め、「ああ踏切番」「ああ無情」など唖蝉坊演歌の長歌を主に歌いますのでお楽しみに。