桃山晴衣の音の足跡(6) 語りと現代文学

74年から75年にかけ、三回にわたって催した「古典と継承」で、桃山晴衣は多様な試みをしている。第一回はゲストに平曲の井野川幸次検校を招き、三味線で地唄「高雄山」を演奏していただき、自らの演奏で三味線復元曲、江戸小唄、そして新たに作詞・作曲した小唄を発表。二回目の会では、先に紹介した落語家の桂小文枝をゲストに「雪女」を。そして三回目の会では「桃山晴衣・女をうたう」と題して、桃山の宮薗節「桂川恋の柵」とゲスト岡本文弥の新内「桂川恋散柳」という同じテーマの浄瑠璃を異なる流派の演奏で紹介し、同時に現代文学『婉という女』を従来の邦楽の語りとは異なる方法で発表するという、実に画期的な会を立て続けに開いている。とりわけ「婉という女」は、初挑戦となる現代文学の語りとあって、発表までに二年近くの歳月がかかったらしい。そもそものきっかけは60年代に長老組によって出来た桃山晴衣をとりまく「於晴会」が70年代に入って40代前後の参加者をメンバーに若返りし、桃山自身が自分の音楽の方向性、邦楽および伝統音楽がどうあるべきかと真剣に考えだしていた時期とも重なり、何度も熱い議論を繰り返す中から「古典と継承」シリーズが誕生し、「婉という女」が誕生したという。

<大原富枝著:婉という女>        <桃山晴衣筆:婉という女台本>

 『婉という女』は1965年2月の「群像」に発表され、毎日出版文化賞野間文芸賞を受賞した大原富枝、不朽の名作である。江戸時代中期の土佐藩で、政治的に失脚した野中兼山一族と共に四才の娘、婉も山中に幽因され、父、兄弟、姉が次々と死んでゆくのを目の当たりにしながら、人として、女として生きてゆくことを奪い取られたまま、四十年間外出を禁じられ、世間から閉ざされてしまう。そして幽因中、唯一書面での話が許され、恋心を感じていた男と、赦免を受けて世に出た後に出会うも、彼もまた父と同じ「政治を通してしか愛せない」男であった。政治に翻弄され、何もかも失い孤絶の果てに追いやられた一人の女にとって、この閉ざされた社会の中で生きていくというのはどういうことだったのか。大原富枝はこの婉の生き様を歴史資料と照らし合わせながら、女のいのちの奥深さをあぶりだし、描いた。
 桃山はこの重厚な現代文学を於晴会の仲間であった水沢周から「語り物」にするよう勧められ、それにあたって、当時NHKのテレビドラマのプロデューサーをしていた遠藤利男が脚本を担当し、聞き手にストレートにことばが伝わるような現代語でのテキスト作りにとりかかった。遠藤は桃山のこれまでにない世界が立ち現れるのを期待しつつ、「私は詞章を書きながら、そのままで「オペラ」「ミュージカル」にでもできることも狙っていた」らしく、自分の頭のどこかで、「ベルクやクルト・ワイルやバーンスタインの音が響いていた」という。しかし桃山は遠藤氏のこの狙いを完全にキックアウトし、彼方に追いやってしまった。こうして彼女は詞章に節回しをほとんどつけない素語りの部分と、十三曲からなる唄の組み合わせで構成した一時間十五分におよぶ作品をジャンジャンでの「古典と継承」の会で処女作として発表したのである。

 いつも一時間近くの宮薗節の浄瑠璃を台本を見ないままスラスラとうたうし、郡上の地歌舞伎の役者達との芝居で作った長い歌でもすぐに覚える桃山を不思議に思って、私はなんでそんなに長い詞が簡単に覚えられるのか聞いてみたことがあるが、節のある詞はうたとしてすぐ覚えられるとのことだった。が、逆に節のない詞は覚えるのがとても困難だという。浄瑠璃で鍛えられた桃山ならではのことばであった。そしてここでいう節とは、桃山のことばに従えば「間をたもち、言葉そのもののイントネーションに即して、母音をのばすその変化(ユリ、マワス、落スなどの小ブシ)の妙味によって成り立つ」もので、いわゆる西洋音楽にいうメロディーではない。こうしたことから現代語で構成された「婉という女」は桃山にとって節のない語りでもあり、節のある歌の部分と分けて物語を展開するこれまでにない作品となったのである。
 それにしても一時間以上におよぶこの「婉という女」、しかも初演奏というプレッシャーもあり相当体力を要すると思うが、この日の公演ではそれと同時に長編で体力、気力のいる宮薗節「桂川恋の柵」を演奏するというなにか自分の精神力の限界を試しているような感さえある。
 桃山はこの後も「古典と継承」の成果を踏まえて、すぐに新しい分野への挑戦をはじめだしたがその年の九月初めに黄疸症状が出て倒れた。次の仕事が決まっていたため友人の薦めでガンセンターへ検査に出かけたが誤診を繰り返され一ヶ月もかかって慢性の膵臓炎との診断を下された。彼女はその原因が「婉という女」の創造に、長期間睡眠もとらず、夏休みもとらずに神経を使いすぎた過労にあったといっている。
「細い針の先でひっかきまわすような痛みがくると、みるみるうちに頬がこけ、一日に一キロも体重のへるときがあり、半年で十二キロやせた。髪は抜け落ち、皆無だった虫歯が十四本にもなった。一ヶ月遅れで発病した同じ症状の友人は一年後に亡くなり、それが恐怖となった。もしかして、自分は目に見えない<死線>を越えて、死の方へ向かって歩いているのではないだろうか。やっと、やっと自分の生を燃焼させる環境を苦労して手に入れたばかりなのに、それではあまりにも可哀想だ。私はまだ死にたくなかった」
 入浴しただけで三ヶ月も起き上がれなくなる極限状態の中、それでも彼女は気力を振り絞ってさらなる「於晴会」の結成、そしてそこから「梁塵秘抄」の世界へと旅立つのであるが、「梁塵秘抄」の中でも歌唱法と作曲において独創性に満ちた「遊びをせんとや生まれけん」は、このような病臥にあったとき外で無邪気に遊ぶ子供たちの声を聞き、その無垢清浄な声のきらめきが桃山のうたごころを鼓舞して誕生した名曲である。
 なお「婉という女」で作曲した歌は、その後、中村とうようのプロデュースによる桃山晴衣の初アルバム『弾き詠み草』の中に二曲、「夕暮れ」「秋の陽の」として収められ、「婉という女」で展開した現代語の語りと音楽の融合は、坂本龍一シンセサイザーを組み入れた長編曲「虚空の舟歌」として発表されている。これら三曲はいずれも遠藤利男の作詞によるものである。また「婉という女」はフジTVの「わが旅、わが心」という1979年に放映された番組でとりあげられ、桃山が高知の婉にゆかりのある場所をレポーターとして訪ねている。

 桃山は「婉という女」を作るにあたって大原富枝さんとお会いし、その後もお宅をときどき訪ねてはいろいろなお話をきかせていただいていた。ちょうど私と桃山がパリでピーター・ブルックの「テンペスト」のリハーサルに入っていた1990年の5月に大原さんからパリに行くことになったのでお会いできませんかという知らせをいただいた。パレ・ロワイヤル近くのホテルに泊まっていた彼女を二人で訪ね、しばし近くのカフェでお話をした。私はお会いするのが初めてで、この数年前に出版されていた「ベンガルの憂愁」という本に岡倉天心とインドの女流詩人プリヤンバダ・デーヴィーのことを書かれていたので、天心と交流の会ったベンガルの詩人、タゴールのことや私が滞在していたベンガル地方のことなどを話し、その後二人で大原さんをパリの街にしばしご案内した。このときの大原さんの実に気さくで無邪気な様子が印象的だった。

<大原富枝さんからサイン入りで桃山に送られて来た著作の一冊:山霊への恋文>

 桃山晴衣の「婉という女」の話しに戻すと、彼女はジャンジャンでの初演の後、体調をくずしたり、「梁塵秘抄」という出会うべくして出あったとしかいう他ないうたの創作に力を注ぐことになったため、「婉という女」の演奏会はあまり開くことができなかった。が、十年ほど後に、最後のコンサートツアーになるだろうと、再びこの長編の語りを持って全国を回ることを決意する。そして数々のコンサートのなかでも石川県立能楽堂で催したそれは自他認めるところの素晴らしいものになったという。

そのコンサートを主催した金沢の村井幸子さんが当時の様子をこう書いている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
熱烈興奮 金沢コンサート      村井幸子

二度、三度、拍手が大きくうねる。座席から動けないでいる人、涙がとまらなくなってしまった大学生、ロビーのレコード即売コーナーにかけつける人・・・・四月二十三日、石川県立能楽堂金沢市)で開かれた桃山晴衣全国縦断コンサート第一夜は、異様な興奮のうちに幕を閉じた。
 それまで、喫茶店を会場に四、五十人サイズの小さなライブコンサートを四回。五回目の「能楽堂」は、金沢にとって五年目にして実現した<本舞台>だった。
 桃山さんの会をやるのは、他の、瞬間的に愉しめる催しとは違って少々やっかいである。なぜやっかいかというと、一部の人を除いてほとんどが、モノに自分で迫らないで、楽をして愉しもうという姿勢に慣れきっているからである。音楽でも商品でも、モノの方からすり寄ってきて愉しませてくれると思っている。それを、振り向かせて、引っぱってくるまでが、しんどい。
 だから今回「私もお手伝いを」とキップを扱ってくれた人たち全員が、桃山晴衣のことを知らない人間に振り向いてもらうために、「自分の言葉」で相手の眠っている感性を醒ますことに努力したはずである。これは桃山晴衣を扱っていると同時に、自分自身の力に挑んだことに、結果的に、なった。
 そして私たちは桃山晴衣という異才の「婉という女」を、その語りに関してはシュン(旬)の時期に味わえた。自分自身に挑んだ人が多かっただけに、桃山さんのパワーも全開したに違いない。コンサートにそなえて準備した大原富枝の原作二十五冊(しか手に入らなかった)は、もうなくなり、書店へ発注する人が続出している。
 コンサート後、「囲む会」をやった喫茶店では、その後も桃山晴衣論や音楽論、はては人生論まで、賑やかに、いきいきと語られている。これは、コンサートの成功と同じくらい重い手ごたえ、収穫である。
 桃山さん、ありがとう。(茶房犀せい・店主)1986年

<婉という女によって生まれた桃山晴衣のファーストアルバム。1979年にビクターより発売され、現在は日本伝統文化振興財団より高音質のSHM-CDで復刻発売中!/桃山晴衣「弾き詠み草」VZCG-717>