桃山晴衣の音の足跡(21) 父との決別

 桃山晴衣の『恋ひ恋ひて・うた三絃』は、彼女が私と出あうまでの半生記を書いたもので、その自叙伝は父、鹿島大治氏の影が大きく横たわっている。明治36年東京生まれの鹿島大治氏は父に鹿島清三郎、“写真大尽”とよばれた鹿島清兵衛の実弟を。清三郎は六年間にわたって英仏で写真技術を研究し、兄と玄鹿館と称する写真館を開業した他、木炭車の開発に従事し、その燃料ともなるニセアカシア樹の研究も手掛けるなど科学にも長けた人だった。
 
<鹿島大治氏の叔父鹿島清兵衛(左)と父鹿島清三郎(右)>
この父の影響もあってか大治氏は東大農学部林学科を出ている。が、本人は画業を本職とし油彩画を岡田三郎助師に学んで印象派に影響を受けた油絵を描き、旺玄会、中美展審査員なども歴任している。しかし多芸多才で百科全書的な知識を持った氏の才能が最も発揮されたのは邦楽の演奏や研究方面ではないだろうか。長唄を叔父吉住慈恭、宮薗節を叔母三代目宮薗千之(福島とく子)、母宮薗千林、山彦貞子(本名鹿島満寿)より習う環境にあったうえ、氏は三味線古譜の解読や古態都々逸を復元したり、自作自調の小曲などの発表にも余念がなかった。そして大治氏の邦楽への夢はさらに一人娘の桃山晴衣に託されていったのである。桃山が誕生して間もなく、東京は戦火に覆われ、彼女は幼い頃から疎開先を転々とした。終戦後は皆貧しく復興を夢見て暮らした時代だったが、桃山の家には「よく皆が集まって、父が三味線を弾いて、学校の先生がヴァイオリンを弾いて、尺八を吹く人もいたりして合奏したりしていた」し、「戦前前のジルバやフォックストロット、チャールストン、タンゴのレコードがあって皆できいた」りと、幼い頃からそんな中で三味線をいじっていたという。ところが父は彼女の才をすでに認めたかのように、一度はじめた三味線をやめさせず、自らの夢をこの幼い才女につぎこみはじめた。「あの人(父)は、私の中で生きちゃったと思っている。でも父は昔の芸術家タイプで経済観念のまったくない人だったから、わが家はいつもすごい貧乏だった」。

鹿島大治氏の母、古曲の名手鹿島満寿(宮薗千林、山彦貞子)>
 桃山はこうして、幼い頃から現実の生活を冷静に見る目ももつようになった。芸術家の家庭の女房は大変で、母親がそういうことに苦手だったという。そこで彼女は中学の頃から父親の女房役をかって料理をはじめ何から何までやってきた。そして中学を卒業して進学するかどうか悩んだあげく、中卒では理想の就職につくこともままならぬとあって、結局は好きだった三味線やうたをもう少し勉強したいと、大治氏による家庭での英才教育を選ぶことになったのである。大治氏は大学でフランス語を教えていたこともあり、カリキュラムには三味線やうただけでなく、フランス語や、さらにはギリシャ語までが含まれていた。そして桃山の才能は19才ですでに出稽古をつけるまでになり、斜いた一家の家計を支えるようになっていた。この親子の評判は名古屋や岐阜の邦楽界で高まり、桃山は当時でも珍しい小唄番組のレギュラーとしてデビュー、そして21才の時、鹿島大治氏を後見に桃山流家元となり、大々的な創立記念コンサートを開いた。この創立記念コンサートについては先にも紹介したが、英十三氏や尾崎久弥氏の他、日本芸能史(話芸)研究の大家、関山和夫氏もこの会に参加され「桃山流の創立」と題する記事を新聞に発表している。

<画材と書籍で埋もれた部屋で三味線を弾く鹿島大治氏>
 関山氏は「冒険の懸念はまぬがれなかった」としながらも「才人鹿島大治の新曲風は、童謡、仏教箏曲、舞踊曲等広範囲であり、日舞から五条珠園、内田るり子、洋舞から奥田敏子、更に新箏曲家梶田昌艶の賛助演奏があって賑やかであった、レパートリーはいずれも珍しいものばかりで一々聴衆を納得させた」とし、続いて創始者大治と家元晴慧の実力が最も強く示されたのが宮薗節の「江戸の絵姿」、家元桃山の美声はまた絶妙で、力量は声だけでなく、三絃においても十分発揮されたとしている(このとき桃山はまだ宮薗千寿師の元には入門していない)。そして関山氏は桃山流への期待をこめてこう結んでいる。
「ともかく、もの凄く意欲的な会が生まれたものだ。小唄はすでにマンネリズムに陥って新しい人々から背を向けられつつある。果たして桃山流は新風をどこまで吹き込め得るか。幸い家元は新時代に生きる特異なセンスの持ち主であり、洋々たる前途にみちみちている。殊に貴重なる事実は薗八節を伝える希有の家であることだ。・・「芸どころ」と云われる中京地方で桃山流が産声をあげたのは、色んな意味でよろこばしい。周囲に扇動されることなく謙虚につつましく、今のままの姿で正しく進んで欲しいものである。日本芸能の発展のために」。
 創立記念の演奏会が終わった翌年、1962年の桃山流機関紙『鹿のこぐさ』の冒頭挨拶で桃山は「最近の私はスランプになったり自分自身の総てに疑問を感じたり、色んなことを考えましたが、ふと五年も前の「常に心がけること」などと書いた日記を見つけて読んでいる内に知らず知らずの間に純粋さ、という様なものが失われていっている気がして恥ずかしく思いました。人間の心持ちを聴衆に伝える・・それが芸ならば私など、人間道に就いても、もっと勉強する心掛けが必要と存じます。年毎にだんだん自信が無くなり、こわく成って参ります」と、挨拶を記している。これは単なる挨拶文ではなく、実際彼女はこの頃から大きな試練に立たされはじめ、「ぎりぎりの淵に何度も立たされる」ことになっていく。

<桃山流創立前後に親子でTVの小唄番組に出演していた頃>
 その原因の一つが後見の父、鹿島大治氏との確執だった。「後見を名乗る父は自分の本業である画業もそこそこに、次々と構想を練っては作曲し、娘との舞台作りを描き続ける」。大治氏が作り出すものは、氏の世界の物であって桃山にはシックリこない。フランスが憧れの、第二の故郷である大治氏は西洋近代を素晴らしいものと受け入れているし、フランス語で作曲理論だの学理を読み、おたまじゃくしで作曲もする。こうした作品は新邦楽を聞いた時に感じたものと似通っており、「身内からの自然な流れがなく、どれを聴いても面白くない」と違和感を感じ、「自分は特別のことをしているんだ」という意識や使命感、創意工夫というものが、もうすでに本質をゆがめてしまうらしい」と、すでに和魂洋才の父とは一線を画し「日本からやるんだ」との意志を曲げなかった桃山は、うたや三味線においては師を超え、自分自身の世界を求めだしてもいた。
 大治氏が「さんざんこねくりまわしたものを、節尻の細かいユリまで正確にうたえ、と強制しても、私はそれを受け入れることができない。強制されているその部分が余計におもえるからです。云われた通りにうたわない、というよりうたえないから険悪な空気になってくる」。大治氏の発声は「長唄のもので、そのうえ男と女の声帯の違いがある。娘を自分が構想した邦楽の理想的な演奏家に仕立てたいのだったら、父はもう師匠の役をはたせなくなっていたのです」そして氏の好む長唄、小唄はあまり好きではなかったと悩み続けた桃山は、「私には軌道修正と新しい転回が必要でした」と当時を回想している。
 十代から父と向き合い、同じ流れの中にいることはできないという切迫した気持ちになった彼女は、桃山流を創立したまではよかったもののこれからどうするのかを父にたずねると、「結婚するまで続けたらいいじゃないか」というまったく見当違いの返事。気落ち、怒りが押し寄せて自分をおさえることすらできなくなり、「結婚したらやめていいような、そんないいかげんを自分にこれまで強要してきたのか」と、どうしようもない気持ちを母にぶちまけ、「家を出る」と宣言。
そして翌日、母親が倒れたのである。
 「切迫した私の悩みをショックにして、からんでもつれていた母親の精神の糸が切れたのです。更年期にヒステリー症の死亡例は多いそうですが、本当に命永らえているのが不思議なほどの症状でした」
 桃山晴衣が自分の音楽を不動のものとすることができた宮薗節の師、四世宮薗千寿の門をくぐることになったのは、このようにどん底に突き落とされ、この母親の病状のいちばん重い最中のことだった。経済的、時間的にも無謀と思われる宮薗節入門だったが、桃山は「日常が厳しくなればなるほど、自分の核になるものをしっかりと据えることが必要だとの自覚をさらに強くし、あえてこの逆境にたちむかっていった。「このままでは潰されてしまう、潰されてしまう」と奥底の声が悲鳴のようになっていたという。