桃山晴衣の音の足跡(22)幻の古曲、宮薗節(一)

 桃山晴衣の音楽には、古曲宮薗節の伝統が秘められている。かつて永井荷風が『雨瀟瀟』で、「浄瑠璃も諸流の中で最もしめやかな薗八節に越すものはない。薗八節の凄艶にして古雅な曲調には夢の中に浮世絵美女の私語(ささやき)を聞くような趣がある」と讃した薗八節こそがこの宮薗節であり、今は幻の古曲とよばれるにいたっている浄瑠璃の一流である。

桃山晴衣の貴重な記録:宮薗節/夕霧より:宮薗節は普通浄瑠璃方と三味線方の二人ないし複奏で演じられるが、桃山は一人で三味線と浄瑠璃の弾き語りをしている。彼女によれば、曲中のセリフと三味線の間合いが技巧的にも難しく、かなりの修練が必要となる。これは1977年「於晴会」での演奏で、この後桃山は独自の音楽を展開していくため、宮薗節をコンサートで演奏する機会はほとんどなかった。>
 桃山は、祖母、叔母、父すべてがこの宮薗節と深いつながりがあったため、三味線を手にした幼少の頃から、その曲調になじんでいた。そして自らの技を磨くために、運命的とも云える出会いを通して四世宮薗千寿の唯一の内弟子となりこの秘曲の奥義を修得していったのだが、ここでは桃山と宮薗節の関わりについて述べる前に、まずこの音楽についての簡単な説明から始めておこう。


 宮薗節は元来薗八節とよばれており、亨保年間に宮古路薗八が創始して広まった豊後系浄瑠璃の一流。しかしこの開祖宮古路薗八という人物に関してはほとんど記録が残っておらず、京都の出身で宮古路豊後の門人だったという以外、謎につつまれたままである。残存する記録によれば、元文寛保年間に二世を襲名した門人の薗八が、宝暦の初めに宮古路の宮と薗八の薗を合わせて宮薗の名を冠し、宝暦末年には宮薗鸞鳳軒と改名したとある。当時の上方、つまり京阪地方は義太夫節、一中節、豊後節など先進の浄瑠璃諸派が腕を競い合っており、新しい浄瑠璃が世間の注目を惹くのが困難だったことも一因か、二世薗八、すなわち鸞鳳軒(らんぽうけん)は江戸へと場を求めていった。明和八年三月、中村座宮古路薗八を名乗る一派が出演したとの記録があるが、これは以前、鸞鳳軒が江戸で二世宮古路薗八を名乗ったものといわれていたが、今では江戸に下って来た初代薗八のもう一人の門弟、春富士正伝が薗八を名乗ったものだといわれており、二人の二世薗八の実体もいまだ正確にはつかみきれていない。

<宮薗鸞鳳軒の「宮薗花扇子」より>
  実は薗八節の系譜というものは、彼ら二人の薗八の歿後も曖昧となり、文政年間になって次のような記録が出てくる。

 宮薗春太夫の門人で、江戸日本橋葭町の陰間茶屋の主人、山城屋清八が文政の頃、大阪におもむき、ある橋の袂で乞食が三味線を弾き、あまり耳にしない唄をうたっていたので聞くと、「宮薗節という浄瑠璃だ」という。大変興味をもった清八はその十段余りを覚え、帰って広めたのが今に伝わるわずか十段余の宮薗節である。と、このような信じがたい逸話が、文久元年(1861年)に、当時山城屋清八に学び宮薗千寿(初世)の名を貰っていた日本橋通り二丁目の茶漬け茶屋、宇治の里清三郎の妻しまが、師の二十七回忌に追善浄瑠璃会を催した際に発刊した『宮薗千草種』の中に書かれている。(宇治の里の「しま」を「くま」としている文献もあるが、古文字の「し」と「く」の読み方をいずれかが間違っているのだろうか、はっきりしないが、ここでは町田嘉章氏の「しま」を採用しておく)。
 この山城屋清八は宮薗千之(初世)を名乗り、江戸における中興の祖といわれた人物。宮薗春太夫の門人とあるが、またまたこの春太夫が何者なのか、どうも宮薗節系譜の謎解きは一筋縄ではゆかないようだ。
 ちなみに斎藤月岑の編著による弘化四年(1847年)に刊行された『声曲類纂』には「薗八の舎弟宮薗春太夫、江戸に於いて一派をなし、春太夫節とて行われたり、これが弟子清八といへるは三味せんの上手なりしが、聲よくして上るりを覚へ、宮薗千枝といふ。天保五年終れり」とあり、ここにいう薗八の舎弟が、先の鸞鳳軒か春富士正伝のどちらの舎弟なのか、分からないのである。
 いずれにせよ紆余曲折を経て、薗八節は清八の初世宮薗千之にいたるのだが、彼の享年も定かではなく、明治に入ってから二代目千之を小川さなが継いだ。小川さなは、叔母が都一浪という一中節の女師匠だったことから、七八歳の頃から一中を学び、十三歳の頃岡安喜佐繁から長唄を習い、山田流の箏曲もおさきという女師匠に学んだという才女で、薗八節は二十歳の頃から、宇治の里の妻女しま(初世宮薗千寿)について習い始めたという(この小川さな、どこか桃山の芸歴と重なってみえ興味深い)。また宇治の里しまにはもう一人、梅田たづという門弟があり、こちらは清元延きよという名取りで、後に宮薗に入門した女性である。
 こうして亨保年間(1716〜1736)に始まった薗八節は、江戸時代の終焉とともに主導権が男性から女性へと移譲されたのであるが、このことによっておそらく薗八は以前にも増して優艶さと、荷風好みのしめやかさを持つようになっていったのではないだろうか。しかし、小川さなと梅田たづの二人の女性に後継が託されたとはいえ、さなの方は積極的な師匠活動はせず、希望者を対象に宮薗節を教えたのはたづ一人という状況になり、明治五年に教部省が行った音曲の流勢調査では、たづが清元と一緒に宮薗を教えているといった風前の灯状態で、明治八年の「諸芸人名簿」からは宮薗と荻江は省かれてしまっていたという。消滅寸前になりかけていたこの宮薗節がどうにか継続できるようになったのは、梅田たづが写真師北庭筑波の世話になり、明治十三年、筑波が宮薗節に興味をもったことから知人の文士大槻如電に宮薗の復興を依頼し、如電が東京府に宮薗再興の手続きを取ったことによる。
      <大槻如電(左)如電の父磐渓(中央)弟文彦(右)> 
 
これにより小川さなも復帰し、梅田たづと両人を技芸員としてたて、事務を如電がしばし見ていたが、学者のなせる作業ではなく、明治十七年、宮薗節の縁故をかんがみて十世都一中に宮薗の管理を以譲した。これにより、一中は当時まだ健在であった宇治の里しまの良人清三郎に家元預かり人を頼み、技芸取り締まりに「さな」と「たづ」を加え、五人の連印で「薗八節規定」を作り、警視庁に届けている。この規定書によると、さなはこの時に二世千之を名乗り、二世千寿のたづには千花という婦人が名取りになるも、明治二十年に千寿と千之に二人づつ名取りが生まれたという程度であった。ちなみに荷風の生まれた明治十二年(1879年)の翌年、筑波や如電が宮薗節のために東京府に奔走していなければ、小川さな、梅田たづの女流宮薗節の系譜もここで終止符を打たれていたかもしれず、荷風の名作『雨瀟瀟』の誕生もなかったかもしれない。なぜならこのあと、宮薗節は荷風の描くような花柳界の名妓の多くが習うようにもなってゆくからである。(次回に続く)
 (宮薗節の歴史は、手引書として昭和三十八年、四世宮薗千寿が岸井良衛に委嘱刊行した『薗八集』に町田嘉章が寄稿したものを参考にさせていただいた)。