桃山晴衣の音の足跡(31)辰年に「夜叉姫」


 昨年書き続けてきた「桃山晴衣の音の足跡」が、宮薗修業時代のところから休筆状態になってしまっていたが、その続編を今年の干支、龍年にちなんだ話とからめてスタートしてゆきたい。龍は世界各地の古代神話に登場するが、日本でも出雲の八俣の大蛇神話に語られ、銅鏡をはじめとする弥生時代の青銅器にイコンとして刻まれていたりと、その歴史は古い(もちろん縄文土器の文様に蛇のイコンを刻み込んだものも多くある)。龍とよばれるものは、中国に端を発するとされる鱗のある長い胴に尖った爪を持つ四つ足を有し、顔には髭、そして頭に角をつけた想像上の獣と、インドでナーガとよばれるコブラのような大蛇のいずれかに分けられるが、日本では龍と蛇との境が曖昧な場合が多い。しかしいずれも水と深く結びついた生き物であることは間違いない。干支では龍と蛇は分けられているが、これは十二支が中国に発するものだからでもあろう。
 桃山晴衣が晩年に創作した今様浄瑠璃三部作の一つ「夜叉姫」は、龍とも関係した話である。この龍が中国系かインド系かは図像として残っていないので定かではないが、水と深く繋がった歴史的悲話を背景とする。

ボストン美術館蔵:平治絵巻より/朝長の自害を悲しむ大炊長者延寿と夜叉姫>
 夜叉姫とは実在の人物である。「平治物語」に登場する源義朝とその側室、延寿の間に生まれた娘で、あの「梁塵秘抄」を乙前と同様に後白河法皇に伝授した今様歌の名手が大炊長者(おおいのちょうじゃ)とも呼ばれている延寿という女性だ。平治元年(1159年)、この大炊長者延寿を頼り、平家に追われた源義朝とその息子・義平、朝長ら一行が美濃青墓に落ち延びてくる。そしてこの年の末から翌年にかけ、源氏は衰退の途を辿る。「次男・朝長、十二月二十八日、十六歳を一期に、青墓にて自害。父、義朝、翌年一月三日申の刻、三十八歳を一期に、鎌田兵衛正清の舅である長田忠致(おさだただむね)の謀略により野間にて殺害される。長男、義平、亡父の仇打ちにと出向くも果たせず、一月二十一日二十歳、京都・六条河原で処刑。三男・頼朝、西美濃で捕わり、掘り起こされた兄、朝長の首級とともに京へ、十四歳。さらにこの間、源氏の重臣佐渡式部大夫重成は義朝の身代わりとなり、赤坂・子安の森で自害、十二月二十八日。義朝の乳兄弟・鎌田兵衛正清も義朝と同じく野間にて、平家に取り入ろうと企む舅と義理弟により討たれる。正清の妻も父をうらみ自害、二十八歳」と、このように立て続けにおこる戦乱の悲劇に巻き込まれていく中で、「源氏の血を受け継ぐ故の行く末を悟り、その逃げ場の無い重圧に耐えかねて自らの命を絶った」のが義朝と大炊長者延寿の娘・夜叉姫であった。

<青墓の大炊一族の五輪塔、夜叉姫のものも?><青墓円興寺にある源義朝一族の位牌>
 桃山の今様浄瑠璃「夜叉姫」の四段目「延寿独白」ではこの夜叉姫のことを延寿が語る下りがある。
 「夜叉姫は、頼朝殿が連れ去られてより日ねもす嘆き悲しみ、湯水も喉を通らぬ有様でございました。何とか夜叉の悲しみをやわらげんと、母の大炊ともども、夜はこの胸に抱き添い寝するなどしてさまざまになぐさめ、論し参らせる毎日でございました。夜叉は、志浅からず思われし、亡き夫源義朝殿の忘れ形見、それに今様うたいの長、大炊長者を継ぐべき大事の姫、音に聴こえし我が一族の今様は、代々母から娘へと授け来しもの。夜叉が継がねば今様も消える。大炊長者の掟を、秘伝を夜叉姫に伝えなければなりません」
 この下りには実際の歌姫が消え、後白河法皇の筆記だけが「梁塵秘抄」を唯一伝えることになってしまった無念を、今の日本から伝えられてきた「うた」が次々となくなってゆく様を憂う自らの心境を語っているようでもある。

<夜叉姫の魂が眠る夜叉ケ池>
 こうして夜叉姫は永暦元年二月十一日、厳寒の夜半、長者の宿を抜け出し、杭瀬川(現在の揖斐川)に向かい入水、いとけなき十一歳の少女の死であった。この杭瀬川に身を投げ死んだ夜叉姫の亡骸は岸に流れ着いたが、魂は川を遡り、夜叉ケ池で成仏したという話「夜叉ケ池伝説」として青墓・池田周辺には伝わっている。
 ここからが龍の話になるのだが、桃山は最後の執筆となった「梁塵秘抄 うたの旅」の中でこの「平治物語」に準じた「夜叉姫」の話と「夜叉龍神」のお祀りが、安八郡神戸町(あんぱちぐんごうどちょう)の石原伝兵衛家に伝わっていると記している。
「それによると、延暦弘仁の頃、大干ばつに遭った時、長者が田を見回っていると小さな蛇に出会い、『雨を降らせてくれたなら、三人の娘のうちの一人をお前にやろう』と一人ごちる。すると、実際に大雨が降り、若武者が娘を貰い受けに来る。そこで、自分から『わたしが参りましょう』と名乗り出た夜叉姫が、夜叉ケ池へ龍神の妻となって行くという話になっている。いまでも石原伝兵衛家はこのお祭りを司祭して、夜叉ケ池へ、平安の衣装で登り、紅、白粉、櫛、かんざしなどを流すという儀式を行っている」

<善学院に残る夜叉姫の絵図>
 桃山の追跡はさらに続く。彼女の調べでは、夜叉入水の延暦弘仁の頃は、ちょうど円興寺の創建と重なり「石原伝兵衛家は神戸の山王祭を司祭し、夜叉龍神も司祭しているが、安八長者のお寺は影向山神護寺善学院で、(安八大夫敷地跡との説もあり)、ここには江戸時代に描かれた夜叉姫の絵像が残っている。石原家と善学院と現円興寺とは同じ天台宗。善学院のほうから僧が回されてきているらしい。また神戸の浄圓寺というお寺の山門の天井が、青墓の長者の屋敷の板塀で作られたという話を堤氏(郷土史家)が古老から聞き、いよいよこれは青墓との関係が深いのではないかと思って調べてもらうと、夜叉姫の祖父にあたる人が安八大夫で、つまりこの人が延寿の母である、大炊の長者の夫だということがわかってきた」と。あとの詳細は「梁塵秘抄 うたの旅」を読んでいただくとして、「平治物語」に描かれた男の権力争いの背後で消え去った、梁塵秘抄の歌姫とよばれる延寿の娘、夜叉姫が、今も龍神の姿に代わり、地元の人たちの間で密かに守り伝えられてきていることに、桃山同様感動せざるを得ない。なお泉鏡花の名作「夜叉ケ池」は越前と美濃の境にあり越美ヶ池ともよばれており、この周辺でもいろいろと形を変えた龍神伝説があるということで、泉鏡花のものは出身地、越前側のものを取材して書かれたものではないかと思うと、桃山はいっている。
 梁塵秘抄を後白河に教えた延寿は乙前に比して法皇の書き残した「梁塵秘抄」には多く登場こそしないが、桃山はこの長者延寿に限りない親しみと関心を持ち続けてきた。彼女は「平治物語」から派生した能の秘曲「朝長」、説教節の「小栗判官照手姫」、浄瑠璃の語源である「浄瑠璃姫」物語の前段とみられる幸若舞の「烏帽子折」など、どれも青墓を舞台とする物語芸能であり、これらの物語に登場する長者こそ、その時代設定からみて大炊長者の延寿ではなかったのではないかと考察している。桃山晴衣が追い続けた謎の女性延寿については、また三月頃に改めて書きたいと思う。ということで、「桃山晴衣の音の足跡」はいよいよ彼女のライフワークともいえる「梁塵秘抄」へと進めようと思っている。またまた偶然か、今日は源義朝の命日であった。

桃山晴衣:今様浄瑠璃・夜叉姫>