桃山晴衣の音の足跡(32)「梁塵秘抄」の世界/其の一

 『遊びをせんとや生まれけん〈梁塵秘抄の世界〉』(VIH28036)は、歴史の奥深く沈んだ民衆の歌を現代に甦らせようとの大胆な試み。桃山晴衣は創造力の一切を賭け当時の音曲を復元し、その上で現代人の感覚と交錯させることに成功した。作曲、三味線、唄の三役をこなし、胡弓、笙、楽琵琶など他のミュージシャンの協力も得て、中世の素朴な庶民の哀感を切々と歌い上げる。この時代、外に目を向ければ中世の世俗歌謡を集めた『カルミナ・ブラーナ』がある。
オルフの創作盤とクレマンシックの復元再構成盤とがあり、曲の感じでは晴衣は後者に近い。「日本に一人のオルフも生まれなかったのか、私が作曲者だったら「梁塵」に旋律と拍子を与えたい」と塚本邦夫氏の言。私は早坂文雄清瀬保二、伊福部昭氏を日本のオルフと思ってきた。桃山晴衣をその系譜に加えよう。
齋藤慎爾「偏愛的名曲辞典(文学と音楽の婚姻)」(三一書房)より
                     <桃山晴衣のCD「遊びをせんとや 生まれけん」>                         
 桃山晴衣が「梁塵秘抄」のアルバムを発表したのは、1981年。当時、ニューミュージックマガジン編集長だった中村とうよう氏のプロデュースによる二枚目のアルバムだった。この話が持ち上がったのはジャンジャンで行っていたコンサートの観客から「梁塵秘抄のうたを聴く事はできないでしょうか」というアンケートが寄せられ、中村とうよう氏から二枚目はこれでいこうということになったとされている。しかし桃山はそれに先がけること15年、彼女が創作したいと考えていたうたや語り物の選択肢の一つとして「梁塵秘抄」にも注目し、すでに岩波本を手元に置いていた。また中村とうよう氏の声がかかる前に、桃山が交流していた仏文学者の桑原武夫杉本秀太郎などの仲間で、「その生の半ばにして自殺してしまった京都の詩人、「バイキング」の同人だった大槻鉄男氏が、「これをつくれたら偉い」となかばからかい気味の挑発をした態度で、「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」と書いてくれたタバコの箱の中紙の、古びてちぎれそうになったものを大切に持っていた」こともあり、「梁塵秘抄」への扉を徐々に開きつつあったのだが、その本格的な取り組みが一気に始まったのは、やはりレコーディングの話が持ち上がってからである。

<大槻鉄男桃山晴衣に渡したタバコの箱の裏紙に書いた「遊びをせんとや」>
 このレコーディングにいたるまでの60~70年代は、これまで書いてきたように桃山晴衣にとっては、自らのうたや三味線の技をたゆまず習練する時期であったと同時に、いわゆるプロとしての音楽家になるべきかどうかという自問自答を繰り返していた時期であった。プロということについて真剣に悩み続け、日本音楽、とりわけ「うた」に関しては生涯自分の確固たる理想を求め続けて止まなかった彼女は、この時期、前にも触れた安田武岡本文弥添田知道、柿沢真泉、円城寺清臣、英十三、秋山清、徳川善親などをご意見番とする「於晴会」で演奏し、先人たちからアドヴァイスを受けてきた。ほとんどが明治生まれの人生経験を積んだ気骨人、しかも明治、大正、昭和という激動の時代に邦楽の名人たちを聴きなじんできた人も少なくなかった。このような耳の肥えたご意見番を前に、まだ20代の桃山は当時のレパートリーであった小唄や端唄、そして三味線復元曲などを披露するのだから、これは相当勇気のいることだっただろうと思う。しかし彼女はひるむことなく会を持ちつづけ、「人生の師」として個々の人々から多くを学んだ。これらの明治人に代わって70年代に入ると水沢周氏を中心に昭和の同時代人たちが「於晴会」のメンバーとなり、桃山晴衣はプロなのかどうかという議論を展開するようになっていく。団塊の世代と呼ばれる若者が高度成長社会へと猛進する国家に対して学園紛争や市民運動を繰り広げ、都会では和製ロックやジャズやフォークが氾濫し、「田吾作さんが江戸っ子になった」と演歌にあるようにこの時期、地方から東京への人の移動が急増し、東京からは江戸文化が見る見るうちに消え去ろうとしていた。その江戸文化の一つが三味線音楽であろう。子供のときは長唄を鞠つき歌にして遊んだという桃山は、祖母の宮薗千林や叔父を吉住慈恭にもつ父、鹿島大治氏から自然と三味線や歌を身につけ、中学を卒業すると進学せず父からフランス語とうた・三味線を本格的に習い、十代の終わりには東京や名古屋ですでに小唄や長唄を教える弟子を持ち、21歳で大治氏を後見とする桃山流家元となり、百人以上の弟子を教えるまでにいたる。当時の彼女の天才ぶりは既に安田武岡本文弥氏の紹介のところでも述べたが、彼女はこの師匠業に疑問を持ちはじめ、父から離れて祖母に教えられていた宮薗節をさらに本格的に学ぶ機会を得、四世宮薗千寿師のもとで内弟子生活を送ることになる。この内弟子となったのが1965年頃で巷の同世代は、前年はオリンピック、翌年は初来日したビートルズの熱狂で踊らされていた時期であった。こうした喧噪をよそに、彼女は邦楽の中でも最も繊細で静謐さを秘めた宮薗節の世界に入り、その技を本格的に修めていくのであるが、実際にはその優雅な音楽に身を委ねる時間などほとんどなく、師匠の身の回りの世話から自身の練習、そして重病になった二人の両親の面倒をみるための収入を得るために夜スナックで働いたり、数人の弟子に三味線を教えたりと、東京、岐阜を何度も往復する毎日が続いていた。こうした過酷な日々を送りながらも、桃山は子供のときから憧れてきた宮薗節の修行を納得ゆくまで続け、千寿師匠からは「魂ではなし合える子」として強く信頼されたただ一人の内弟子でもあったことから、何度も師匠から名取りの話があったのだが、彼女は名誉ともいえるこの話を断わらざるを得なかった。そして1975年頃、身を裂かれるようなような思いで千寿師のもとを離れ、邦楽界とは無縁の社会に出て、一音楽家桃山晴衣として生きてゆく覚悟をしたのである。65年から75年の10年間、於晴会での演奏会だけは続けてきたものの、外に向けての活動は一切行えなかったため、彼女の行く末を気にする於晴会の面々からは、プロとしてこれからどう歩むべきかという話が起こってきたのである。
 東京は、その10 年間に三味線の音が街から聴こえなくなり、代わってギターを手にした若者たちがロックやフォークに興じるようになってしまっていた。そして彼女がこれから向かい合わなければならなかったのは、予定調和の反応しかない邦楽界とはまったく縁のないこうした青年や一般の人たちだった。彼女は昭和世代の仲間で構成された二期目の於晴会の面々と何度も、様々な問題について話し合った。そして、こうした多くの疑問や問題を解決する手口として、一度今までをまとめてみようということになり「古典と継承」と題すると称し、不特定多数の一般の人たちにむけた自主演奏会を開催した。1974 年から75年にかけて開かれた三回の演し物は、自らの三味線復元曲、小唄、端唄のほか、客演に井野川検校、落語家の桂小文枝(五代目文枝)、岡本文弥などを招き、創作「雪女」「信貴山縁起」「婉という女」など、新旧の語り物を披露するという内容だった。この頃の桃山は憑かれたように作曲、演奏、プロデュースにと駆け回っていたうえ、さらに止まぬ好奇心にかられて添田知道師から直接演歌の指導を受けたり、井野川検校から地唄を習ったり、はてまた地方から消えつつある民謡やわらべうた、子守唄を各地に訪ね歩くなど、懸命だった。彼女はこの頃のことを振返りこう記している。
「日本の工業社会への転換は、目先だけの豊かさと引き換えに、文化の土壌である、自然と人間の生活を根こそぎ失うことでもあった。それは歴史上かつてみなかったほどの変化を私たちにもたらした。どこの土地でも高度成長を境として、生活文化と芸能を失っている。明治近代国家の始まりにまず、自分たちの文化を失い、その上にこの有様である。
 私の活動は”うたう場がほしい”というところから始まった。邦楽の世界には趣味同好の集い的なもの以外に、人と人とがふれあって創りだす”ホントの場所”がなかったから。ところが外へ出てみると、あらゆる場がないことがわかってきた。それどころかすべてが商業主義になってしまったから、一般の間には”ホントウの音楽”も見当たらず、音楽という名の”商品”と化したものしかなくなっている。
 私は、現代の私たちにぴったりくる”心に響き合えるうた”が欲しくなった。それにはまず、”自分のうた”であること。自分を確かにつかまえることだ。私にとって”自分のうたをうたう”にはまず、置き去りにされている文化を、途切れている時間と空間をつなぐことが必要だった」。桃山晴衣は自問自答を繰り返すだけでなく、あらゆる人たちと話し合い、自らの足で各地を訪ね、自分のうたの可能性を求め続けたのである。そしてこの間、生死をさまようような病に陥りながらも、活動に意欲を燃やし続けた。「梁塵秘抄」の誕生は、こうした桃山の計り知れない体験と努力の中から、生まれるべくして生まれた「うた」であった。