桃山晴衣の音の足跡(34)『梁塵秘抄』の世界 其の三

ここで『梁塵秘抄』について簡単な説明をしておこう。                               『梁塵秘抄』は平安末期に大衆の間に最も広く流行した歌謡、「今様」が、後白河法皇によって集大成された歌謡集である。明治44年和田英松博士の尽力でその一部が発見され、翌大正元年佐々木信綱の手により単行本として世に出た。本来は歌詞編十巻、口伝集十巻、計二十巻の大歌謡集成であったらしいが、現存するのは口伝集巻第一の断簡と同巻第十で、歌詞集は第一巻の断簡と巻第二があるのみ。このように見つかったものは少ないのだが、それでも歌詞篇は巻一に二十首、巻二に五百六十余首残っており、これらの歌詞から当時の民衆の生活や感情などが生き生きとして伝えられ、大方を魅了する。また口伝集は、歌唱法の秘伝や楽譜などが記されていたと思われるが巻第二から巻第九までが発見されておらず残念である。現存する口伝集巻第一には、古来よりの歌謡の種類と今様についての項がわずか二頁ほど書かれているだけだが、巻第十には後白河院の今様修行の様子、集成に際しての伝系づけ、伝授法、うたの理想などが書かれていて興味深い。 ところで「梁塵秘抄」の「秘抄」というのは、秘伝書という意であろうが、「梁塵」という言葉はあまりなじみがない。この「梁」は日本家屋にも見られる棟木、うつばりのことで、「塵」はチリのこと。これだけでは何のことかわからないが、後白河はこれを以下のように説明している。「梁塵秘抄と名づくる事。虞公韓娥(ぐこうかんが)といいけり。声よく妙にして、他人の声及ばざりけり。聴く者愛で感じて涙おさえぬばかり也。歌いける声の響きに、梁(うつばり)の塵たちて三日いざりければ、梁の塵の秘抄とはいうなるべしと云々」。これは、聞く者を思わず涙させるほど他に類を見ない美声の虞公と韓娥という名手がうたえば、その声の響きで梁につもった塵が三日も舞立ったままだったという古代中国の故事に添ったもので、後白河はこの「梁塵」の意を理想のうたや声について書いた秘伝書、大切な本の題に用いたということである。

<後白河法皇
 「梁塵秘抄」といえば「今様」と云われるほど、この歌謡集の中には今様歌が網羅されていた。例えば、巻第一の現存部分には「長歌十首」「小柳一首」「今様十首」が残っているが、元々の目次を見てみると「長歌十首」「小柳三十四首」そして「今様二百六十五首」とされており、これが一巻の内に採録された歌の種、本来は十巻あるこの書であるが、これを見ても「梁塵秘抄」すなわち「今様」といっても過言ではないだろう。ここに並んだ歌のうち長歌は、いわゆる既成の和歌を「そよ」と囃してうたったもの、また「小柳」は一首しか残っていなかったのだが、これは長歌とまったく趣を異にした不定形詩による歌で、桃山はこの歌「そよや 小柳によな」に魅かれ初めて作曲して唄ったことは先にのべた。この他に「口伝集」巻第一には「古より今にいたるまで、習い伝えたる謡(うた)あり」、そして「これを神楽、催馬楽、風俗(ふぞく)という」と記しており、当時うたわれていたいくつかの歌の種が紹介されている。「催馬楽」は学者によって諸説のべられているが、口伝集では当時の政のよいことわるいことを、民衆が褒めたりそしったりした歌だとしている。この催馬楽がやがて宮廷にとりこまれ洗練されて「郢曲(えいきょく)」として貴族の家に代々歌唱法が伝えられてきた。そして「神楽」はいうまでもなく「神楽うた」のことで、「風俗」というのは、東遊びのような東国に根を持つ民謡の類だとされている。ところがこうした歌に対して当時十二世紀に歌の新しい旋風が巻き起こりそれが、当時の当世風、今日風という意味をもった「今様」と呼ばれるようになったと口伝にある。この今様は「神歌」「物様(もののよう)」「田歌」など、形式、内容も自由変化に富み、大流行したという。
 この「今様」について、桃山はとりわけ起源譚に強い関心を寄せてきた。その起源譚には用明天皇の御時、難波の宿館に土師の連という者が居て、この者が声妙なるなる歌の上手であったとし、夜、家の中で歌うと屋根の上で付けて歌う者がいるので逃げるのを追ってみると住吉の海に入って消えた。そして、それは歌に感心して現れた火星の化身、火星人だったという、まことSFめいた話であるが、中国の虞公と韓娥ではなく、日本の歌の名手であった土師の連のことが桃山には気がかりとなった。土師の連とは土器作りや葬礼、陵墓に関する仕事に従事した氏族で、これらの仕事に携わる者に歌の達者がいたということらしいことから、彼女はこの土師の連が古墳の造営に関わり、葬送儀礼にも関わったとし、梁塵秘抄と最も繋がりのある美濃、青墓周辺の古墳群を調べ興味深い論を自著「梁塵秘抄・うたの旅」(青土社)で展開している。そして歌いながら全国各地に「今様」の発生譚を追求してゆく途で昇天してしまったことは誠に残念極まりない。

<野見宿禰
 ちなみに土師氏は野見宿禰を祖先とする氏族で、野見宿禰については、「日本書紀」垂仁7年7月7日条にその伝承が見られる。それによると、大和の当麻邑に当麻蹶速(たいまのけはや)という人物がおり、天皇は出雲から呼び寄せた野見宿祢(のみのすくね)と相撲を取らせた。その結果、宿禰は蹶速を殺し、天皇から当麻の土地を譲り受けた。こうして天皇に仕えることになった野見宿禰は、垂仁32年7月に皇后日葉酢媛命(きさきひばすひめのみこと)が亡くなったとき、古墳に生き埋めの殉死を禁止していたゆえ、天皇が群臣にその葬儀の相談したところ、野見宿禰が百人の土部を出雲から呼び寄せ、人や馬などの埴輪を造らせ、それを生き人の身代わりとして埋めることを薦め、大いに喜んだ天皇は、その功績を称えて野見宿禰に「土師」の姓を与えたとある。この土師氏が後に古墳の造営と葬送儀礼にかかわるようになり、その末裔の土師連の中に火星人をも魅了する美声の持ち主が誕生したのだろう。

 桃山はおそらくはこの土師氏とも関係あると思われる土器造りの歌を「梁塵秘抄」の「四句神歌」から選んで歌っている。
 「楠葉(くすは)の御牧(みまき)の土器造り 土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき あな美しやな あれを三車(みくるま)の四車(よくるま)の 愛行輦(あいぎょうてぐるま)にうち載せて 受領(ずりょう)の北の方と言はせばや」
 楠葉は大阪枚方の周辺にあった皇室御料地とされる所で、その楠葉の御牧に土器造りが住んでおり、その娘が非常に美しく、あんなに美しい娘なら三国一の花嫁になって、受領の北の方、つまり地方官の大物官史の奥様といわせてみたいものだという、なんとも明るく十二世紀庶民の活気のみなぎった歌である。私はこの歌詞の「受領」、つまりこの地域の国司級の官史である河内の守や近江の守が、先の野見宿禰を始祖とする土師連たちとも深く繋がるのではないかと詮索したくなる。なぜなら土師氏は河内国に古墳墓を増産し、隆盛を誇ったとされ、この歌の地、大阪枚方市にある片埜神社(かたのじんじゃ)は、社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰垂仁天皇から河内の国を賜り、この神社を創祀したといわれ、社家の岡田家は野見宿禰の後裔で家譜には「土師家の鎮守」と書かれているそうなのだ。とすればここに歌われている御牧の土器造りもまた土師蓮となんらかの関係を持った人物だったかも知れず、なんとも奥深い歌に聴こえてくる。桃山はこの美しい土器造りの娘をどうみていたのだろうか。