桃山晴衣の音の足跡(35)『梁塵秘抄』の世界 其の四

「中世の激動期に完成された『梁塵秘抄』」
梁塵秘抄が」誕生したのはいつ頃で、その背景はどのようなものだったのか。桃山の著書「梁塵秘抄・うたの旅」を参考に概説してみよう。桃山は「後白河院の祈念と企て」と題する章で、まず「何かに憑かれたとしかいいようのない」全二十巻もの「梁塵秘抄」を編纂した後白河院についての疑問を投げかけている。「梁塵秘抄」は素晴らしい、大事業であることは間違いないとしながらも、彼女は音楽家としての視点でみると、そこには何か釈然としないズレを感じるものがあるという。それは「口伝集」の各所に、後白河院がこれでもかこれでもかと頂点意識、自らが頂点であるという意識をあからさまにしていることである。桃山はこうした院の意識がいつどこで芽生え、確固なものになっていったのかに興味を覚え歴史を紐解いていく。
 「梁塵秘抄」の大体がなったのは、嘉応元年三月(1169年)と「口伝」にあるが、編纂者、後白河院の背景を知るには、十二世紀の開幕期からの流れを追った方がよいだろう。まず世紀開幕の康和三年(1101年)は堀川天皇の治世だったが、政権は父の白河法皇が握っていた。これは白河法皇が皇太子に皇位を譲り堀川天皇が誕生はしたものの、白河自らが上皇(出家したものは法皇となる)となって皇家の長者となり「院政」を慣例化したことを意味する。皇室の「院政」は当時の藤原氏の主流勢力への対抗措置でもあり、白河法皇と次の鳥羽法皇二代よってこの強い流れが続く。よって十二世紀は白河院政とともに開幕したともいわれている。にもかかわらず、政権をめぐって、上皇天皇、皇室と藤原氏主流、武家であった源氏と平家、そして公家や貴族、寺社勢力などが各所で暗闘を繰り返す日々であった。そんな暗闘がピークに達したのが、保元の乱(保元元年1156年)である。

<保元・平治の乱「保元合戦図屏風」>
そしてこの動乱に達するまでには複雑な皇位継承問題が生じている。まず院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛するあまり、本来なら皇位を継ぐはずの崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生である体仁親王を即位させ近衛天皇とした。この譲位は崇徳にとって遺恨として残ったが、鳥羽上皇の第四皇子として大治2年(1127年)に生まれた雅仁親王(後白河)は、こうした皇位継承とは無縁で今様に没頭するなど遊興に暮れる日々を送っていた。こうしたわだかまりを残したまま久寿2年(1155年)に近衛天皇崩御。本来ならば雅仁親王は得子の養子となっていた自分の第一皇子である守仁に皇位を継承さすべきはずだったが、まだ年少だったため自分が29歳で立太子しないまま即位した。そしてその翌年、鳥羽法皇崩御すると保元の乱が起こり、後白河の後見であった信西が主導権を握り難を乗り越えていく。この時の後白河は形式だけの天皇で、保元3年(1158年)、後白河は守仁に譲位し、二条天皇が成立。これは美福門院(得子)と信西の協議によるものだった。
 このような複雑な権力争いの中、後白河院自らも大きな勃発の要因となった保元の乱で、「クーデターを起こさざるをえぬ立場へ追い込まれた兄・崇徳が、無惨な凋落の運命を辿るのをまざまざと見」、「鳥羽院の長子・新院と呼ばれていた崇徳上皇であってさえも、その座から転落させられてしまう事がある」。桃山は、「このあたりから自らの存在を誇示、頂点とする意識を強くしていったのでは」と考えている。そして一旦は落ち着いたかにみえた保元の乱後、三年も経たぬうちに、平治元年(1159年)に摂関、天皇家武家、寺社勢力入り乱れての平治の乱が勃発。この乱で後白河の乳母の夫であり父親のような存在であった信西が非業の死を遂げるという衝撃的な体験をする。後白河院はこの二つの乱を通して天皇に即位し、たった四年で院政になって一人立ちを余儀なくされた。その後は清盛が天下を取り仁安二年(1167年)に太政大臣となり、平家の栄華を極めていくことになるのだが、桃山の着眼はこのあたりから美濃の青墓へと移っていく。

<青墓・円興寺>
 後白河上皇はこの清盛が太政大臣になった仁安二年に、美濃池田庄(青墓)に荘園を寄進しているのだが、青墓の長者は池田大炊・大炊長者ともよばれ池田郡を領域としており、これは西国勢力の確保に重きを置く平家に対して、東国の要請である美濃・青墓との緊密化をはかったものであろうかと、桃山は考えている。そして興味深い事に、この仁安二年には、後白河院に「梁塵秘抄を」教えた青墓の今様の名手乙前が二月に死亡したという説があり、これに従えば荘園寄進は彼女の没後三ヶ月後ということになるらしい。そしてその二年後の嘉応元年(1169年)、三月中頃に「梁塵秘抄」はいったん成立し、歌詞編がここで全記録を終える。乙前との邂逅から十数年、それは師事した年数でもあったという。後白河院が出家して法皇になったのはこの年の六月十七日だった。ところで、乙前の死亡年代は先述のものとは別に、承安四年(1174年)の二月十九日説があり、口伝集にはこの後白河法皇の今様の師への手厚い供養、一周忌の法要が記されており、身分の賎しい女への心こもる美談として受け取られている。そしてこの年の九月初めから十五日間にわたって、後白河法皇は公喞三十名を左右にわけ、「今様合わせ」を競い合わせるという前代未聞の行事をもっている。
 その後、治承元年(1177年)に鹿ヶ谷の謀議。/治承三年(1179年)、清盛による鳥羽殿への後白河院幽閉、十一月には院政停止。/養和元年(1181年)、後白河院政復活、高倉上皇没、清盛没。養和の大飢饉。/寿永二年(1183年)、美濃池田の西端、宮地に熊野神社創建。木曾義仲によって法住寺焼打。/文治元年(1185年)、壇ノ浦で平家滅亡。/建久元年(1190年)、源頼朝、初の上洛の途次、青墓に逗留、京都で後白河院と会見。/建久三年(1192年)、後白河院崩御(六十六歳)。
こうして後白河院の事績を辿ると、「戦乱・内乱に加え、京市中の多くを焼き尽くした安元の大火、辻風、養和の大飢饉、天暦の大地震などの天変地異。三度もの幽閉。法住寺の焼打。六条殿の焼亡。命からがらの逃亡など、凄絶な生涯」であったことがわかる。にもかかわらず、彼はこの激動期に天皇・院の意志に基づき発布する法令である「新制」を十一回も発布し政治的な対応をしていると同時に、今様、「梁塵秘抄口伝集巻第十」に記されいる事柄の実行。美濃・青墓との関わり、清盛や頼朝との駆け引きなども進めるなど、一筋縄ではとらえきれない大天狗であったことは間違いないだろう。
 そこで、冒頭に桃山晴衣が「梁塵秘抄・口伝集」を読んで釈然としない、違和感のようなものが残ると云ったことになる。彼女は「梁塵秘抄・うたの旅」を書き進めるうちに、「梁塵秘抄」の<うた>から受ける感動と、後白河院にとっての今様を、分けて考えれば良いのだと思うようになったという。では、後白河院にとっての今様とは何だったのか。彼は雅仁親王時代の十代から今用が好きだった。そして保元の乱の翌年、かねてより憧れていた今様の名手、乙前を信西入道の手引きで召しいださせ、その歌唱力に感銘。後白河はその日の夜すぐに師弟の約束をし、以後乙前一筋に精髄を極めてゆく。ここから院は乙前の正統を裏付けるために、延寿など青墓の歌い手を集めて数年にわたる「歌談義」を重ねる。こうして、青墓は今様を代表する地となり、青墓の乙前を上に敷く後白河が「青墓流」を継ぐ正当な伝承者となる。そしてこの頃から後白河院政が始まり清盛の威光を背景に法住寺殿を建て、熊野詣を精力的に行うなど、一人で立つ身になってゆくのだ。「梁塵秘抄」との関連で云えば、熊野詣でにこのときから「今様」を唄うことを組み込むようになり、ここから後白河の霊験が表れてくる。そして彼は「今様即仏道」へといたり、これでもかこれでもかと今様の「徳」について「口伝集」で語っている。こうして霊験の項は以下の言葉で結ばれる。

<今様歌い、目井が歌うと清経の病が治り、通季の癪の病も直ったという歌>
「おほかた、詩を作り、和歌を詠み、手を書く輩は、書きとめつれば、末の世までも朽つることなし。こえわざの悲しきことは、我が身隠れぬるのちとどまることのなきなり。その故に、亡からむ跡に人見よとて、いまだ世になき、今様の口伝を作りおくところなり。嘉応元年三月中旬のころ、これらを記し終わりぬ。やうやう撰びしかば、はじめけんほどはおぼえず。」
 桃山は<うた>へのひたむきな純度と、一方で「まして我らはとこそおぼゆれ」という終始一貫してみられる最上位に立つ者の「エゴイズム」といったものに大きな乖離が生じ、再びだまされたような気にさせられるという。また最後には継ぐ弟子がないと思っていたら熊野詣での道中で、権現のはからいによって源資時という後継者を得、さらに藤原師長も得、彼らは私の流と違わず、この二人以外の歌い方には疑いを持つべきと書き残す。この正統な伝授を行った二人は公喞であり、家格も高く元々の声楽の達者であった。後白河院は下々の者、近臣たちとも歌い集い、親近感をもたせながら、今様合わせを通して今様の格を高め、寺社参りで今様の霊験を高め、そして秘伝を作りその正統を伝授するという、どこか家元制の組織をみるようだとは、長く邦楽世界の家元を見てきた桃山の言である。
桃山はこうした現象をみれば、二人の弟子への批評の項は、今様でつながり身近に親しくはしているが、公喞・殿上人との一線を画すための記述であるようにもうけとれるとし、書き記す事自体が権力の道具につかわれるものであったことも忘れてはならないとしている。
梁塵秘抄」に記された庶民の今様歌の素晴らしさ。それを唄い伝えてきた遊(あそび)たち。そしてその伝授者となった後白河院。桃山の今様、「梁塵秘抄」を巡る視点はさらに、女と庶民の世界へと広がってゆくが、あとは彼女の著書「梁塵秘抄・うたの旅」を手にしてじっくり読んで欲しい。