桃山晴衣の音の足跡(37) 梁塵秘抄(番外編)美濃青墓再訪問

3月18日、彼岸の入りのこの日、先々月から開始した立光学舎「いろりわの会」のプログラムとして計画していた美濃青墓に「梁塵秘抄」の史跡を訪ねた。実はこの日、大垣市の青墓だけでなく関市の新長谷寺で年に一度だけの貴重な念持仏御開帳があるとのことで、この日に合わせて予定を組んでいたのだが、この御開帳が中止になったと知り、青墓だけに的を絞ることになった。この新長谷寺の念持仏というのは、桃山が最も関心を寄せていた「梁塵秘抄」の伝承者でもあった青墓の長者・延寿と深く繋がりのあるもので、もともとは源義朝公が京都に所持していた阿弥陀如来の立像。これが平治の乱で源氏衰亡の危機に追い込まれた時、平家の郎党に奪われてはなるまいと青墓に移され、その後延寿によって関の新長谷寺(吉田観音)に隠されていた。桃山は生前、年に一度の御開帳に訪れては延寿を偲んでおり、当時は長谷寺のおくりさんが「延寿さま、延寿さま」とまるでついこの間までいた人のように呼んでおられたと云っている。このおくりさんも亡くなられ、今はこうした歴史に関心のない住職に代わり、扉を閉ざしたままの状態で、貴重な歴史の光も閉ざされようとしているのである。

<青墓円興寺庭園>
 ところで青墓で私たちを案内してくれたのは、桃山の「梁塵秘抄」の長年の知恵袋ともいえる、当地在住の郷土史家、堤正樹さんである。堤さんは自らの故郷である青墓が歴史的に非常に重要なところであることを郷土史家ならではの熱意をもって追求してきた人で、もうかなりのご高齢になられたにもかかわらず、青墓、「梁塵秘抄」のことになると、一斉に頭の回路が動き始める。この日、堤さんにはあらかじめ新長谷寺の「念持仏」が見られなくなったことを告げていたので、それならばとそれに代わる重要な「念持仏」を用意してくれていた。私たちは桃山の書による「遊びをせんとや」が
刻印された石碑の建つ「梁塵秘抄」ゆかりの場、円興寺で待ち合わせ、まずは寺内で住職さんと会話を交わすうち、やはり青墓に住むH女史が包みを持って現れる。実はこの包みの中に、見ることの出来なかった新長谷寺の念持仏に代わる大切なもう一つの念持仏があると堤さん。包みからとりだされたのは15センチくらいの厨子で、その中に燭台の蝋燭のように小さな仏像が三つ立ち並んでいた。