桃山晴衣の音の足跡(38)「梁塵秘抄の世界」其の六

 「「梁塵秘抄」は、日本芸能にずっとたずさわってきた私が、江戸からこっちにあきたらなくて探し続けていた世界をバッチリと持っていた。これは現代にも古いものをよみがえらせる、なんてものではなく、現代へのメッセージだ。”古典、むつかしいもの”教育の弊害によるこんな常識はクソくらえ。私にわかるものがみんなにわからないはずがないじゃないか。私はこの梁塵秘抄を、やはり堅苦しくむずかしいと思われている三味線一梃手にして、なんでもなく当たり前にうたって歩こう、そう思った。」

梁塵秘抄コンサート最期の地、名古屋で>
 桃山晴衣にとって「梁塵秘抄」と取り組んだ時期は、音楽とは何なのか、唄うということはどういうことなのか、そしてプロとかアマチュアということは一体何を意味するものなのか等々を、これまで以上に考える契機となった音楽人生の一大転換期といえよう。それまですでに桃山流家元を経て、宮薗千寿の元で内弟子となり古曲のうたと三味線の奥義を修得し、そのまま邦楽界で活躍していれば、明治人が口を揃えて賞賛していた彼女だけに邦楽界の押しも押されぬ名人、大家となっていたことは想像に難くない。しかし彼女は”芸事”だけにとらわれる小さな器の人間ではなかったし、今という時代、社会というものを常に直視する人であった。そしてこれまでの邦楽界での歩みを振返りつつ、明治人のご意見番や同時代のご意見番と何度も意見を交わしながら彼女は、邦楽界とは一線を画す独自の道を選ぶ決意をした。決して楽ではない茨の道である。それまで定期的に会を重ねてきた「於晴会」のメンバーからも、一枚目のLP「弾き読み草」を発表したあたりから、不特定多数の人に向けてプロとして活躍することが必要ではないかという意見が多く寄せられ、そのことを考え続けてきたこともあり、「梁塵秘抄」は自分の歌として出来る限り不特定多数の人たちに聴いてもらえる方向で取り組むことにした。しかし「梁塵秘抄」といっても、当時は文学者の研究対象でしかなかった。さらに桃山の舞台はうたと三味線だけという、何の外連味も無い純粋なうたの世界である。「三味線の音が一つピーンとなるだけで心持ちが明るくなり、次々に繰り出される音と声に、躰がどんどん開けていって楽しさで一杯になる自分が在る」反面、「現在、三味線を持っての舞台は殆どの場合かしこまって拝聴され、楽しいなんてとんでもないこと。プロはハタンなく完璧に演奏できなくてはならないのだ。もっと昔の明治・大正にはまだ、お互いの心が沸き立つような場があったようだし、名人のレコードからでもそんな様子がうかがえる。どうしてこんなにつまらないものになってしまったのか、どうして次の新しいいのちが生まれてこないのか」と、こんな疑問を抱きつつ、彼女は自分に出来る事は何かを模索していった。まず私は好きでうたうのだからコミュニケーションできる人数は、そんなに多くなくてよい。音楽というものはそんなに膨大な不特定多数に伝達される伝達されるものでない。と、これまでの「於晴会」では自主公演という形でこれらの人たちと繋がりが継続されてきた。そして不特定多数に向けて唄う場合でも「於晴会」の人たちの繋がりをもった自主公演のかたちをとってきた。「流行歌謡」は社会構造上、都市というものが出現してきて始めてそう呼ばれたのであって、その最も古い資料となる「梁塵秘抄」に、桃山晴衣が魅かれた要素の一つに、自分が東京生まれの都会人間であるということだった。そしてこの時に、彼女は宇宙と一個の自分が確実に唄うことで繋がることをはっきりと意識したようだ。都会人間。「もともと地方のうたにくらべて都会のうたは、歴史的な積み重ねが多く、そこに集まる職種の多様さからも普遍性を持っている」し、「遊女、傀儡、歩き巫女などは社会構造に組み込まれないアウトサイダーであったらしい」そして「プロとかアマチュアなどという言葉は、明治からこっちの生活から遊離してしまった近代社会の枠組みの中での区分けであって、なんとはなしにずっと受け入れることが出来ずにいたけど、やはり私はプロでもアマチュアでもない、とここでハッキリいえるようになった」と、桃山晴衣はこうした思いを強くする。そしてこの「梁塵秘抄」コンサートの旅は、これまでに受けた恩恵を生かし、自分を生かし、プロでもアマチュアでもない「自分の最も良い在り様」を模索しながら、場の設定や設営から両者がコミュニケーションできるような受け手、送り手との関係を重視し、個と個の関係が一つの流れになり、いくつもの流れが集まって大きな流れになっていく中でうたいたいとの理想を描きつつ、旅を開始したのである。


<「梁塵秘抄レコーディング:中村とうよう氏と>
 この「梁塵秘抄コンサートツアー」は、1980年9月25日「於晴会」に始まり、10月には郡上八幡、そして同時に中村とうよう氏のプロデュースで「梁塵秘抄」のレコーディング準備が始まる。続いて翌1981年1月27日から3月3日の最終レコーディング、翌日のトラックダウンを終え、3月20日から桃山晴衣の「梁塵秘抄・コンサートツアー」が本格的に始まった。まずは佐渡、新潟、長岡、長野善光寺、東京新宿、千葉市川、(4月21日にLP「遊びをせんとや生まれけん」が発売される)。京都では、さろむ六六、ZABO、八坂神社、舟岡公園や該音楽堂、長泉寺、嵯峨野釈迦堂、鴨河原、文化芸術会館、そして5月の東京は都市小屋、草月会館、続いて名古屋の今池ユッカ、大須ELL、大久手の愚行舎、岐阜の含笑長屋を経て、6月2日に於晴会の面々が裏方にまわって模様された名古屋の中小企業センターで打ち上げコンサートと銘打つた会が催され、全国から桃山晴衣のツアーを支援をしてくれた方々が一同に集まり、祝宴を共にすることができた。

 半年間にわたっての連日のコンサートツアー、しかも寺院境内や河原など野外やジャズやロックのライブハウスと、おおよそこれまでの会では足を踏み入れる事のなかった場で、桃山晴衣は自分がうたう人間であることを確信していったものと思われる。この「梁塵秘抄」のツアーの前に桃山は、明治大正演歌の祖、添田知道氏から近代の流行歌謡であった演歌の変遷について学んでいる。レコードやテレビ・ラジオが登場する以前、明治の文明開化以来庶民、底辺層の怒りや苦しみを政府、権力者に向かって歌というかたちでもの申してきた「演歌師」たちは、自分の生の声だけで町の辻辻に立っては唄い、それを一般民衆の心に染み渡らせていった。自分の足で歩き、自分の生の声で唄う。これは中世の「梁塵秘抄」を唄い続けてきた、遊女(あそび)や傀儡、歩き巫女と同様である。中世と明治に起こった二つの「流行歌」。「梁塵秘抄」と「演歌」にこそ、桃山晴衣が流行歌の模範とする鍵が秘められていた。そして桃山晴衣は、人と人がダイレクトに歌を通してコミュニケートできる、現代社会では非常に困難なこの方法を生涯守り抜いてきたのである。