邦楽番外地・明治大正演歌プロジェクトへ向けて

「明治から大正への流行調を大別すれば、三味線調時代、朗詠時代、唱歌調時代、壮士節時代、浪花節節影響時代、小唄時代。・・・そしてそれ等の波動を表面に見せながら、然もその背後に流るる情調は依然伝来の三味線調である。ここに国民性を見逃すことの出来ぬ理由がある」と、添田唖蝉坊は流行歌の「流行調」の変遷について述べている。(流行歌・明治大正史)
 非常に要約された文ではあるが、ここに見逃せない「三味線調」という詞がある。つまり文明開化の大きな波が押し寄せ、洋楽主義へと方向転換を御上が迫る日本ではあったが、西洋近代の合理主義的音楽教育は当時のハイカラを除いて以外には、ほとんどどこ吹く風の庶民であった。都市化してゆく江戸や浪花の街を除けば、高度成長期までどこにでも見られた田畠や山々の広がる地方があり、そこには電気による音楽メディアも戦後までほとんどなかった。角付け芸、旅芸人、乞児、雑芸者、そして地元の唄者たちが喉を自慢し、掛け合う風景があたりまえにあった。情景ということばがまさにピッタリの、唄で情緒を伝え合う景色が広がっていた。そしてこうした唄や芸能の背後にあった調べの多くが江戸や上方で流行った唄や節を遊芸人が伝え、各地で異なる節や色を保つようになっていったものである。また演歌はこうした江戸や上方の音曲にとどまらず以前から地方の生活に根付いていた俚謡や作業唄、祭礼歌なども取り入れ、生きた唄のアンソロジーと化していったが、そもそもの演歌の始まりはこのブログでも既に紹介したように、明治20年頃、自由民権の思想を広めるために壮士たちが街角に立って唱いだした演説の歌で、それを短く演歌と称した。つまり壮士達が唄で国家に物申す民衆の代弁者たらんとしたのである。時それ明治・大正・昭和と続くまさに世界戦争の時代、富国強兵をかかげて邁進する日本政府、男子は兵に取られ、女子や子供たちは内地労働を強いられる責苦の日々、そこで立ち上がったのが彼らだったのだ。

 次に揚げるのは以前にも紹介した中村還一氏の添田唖蝉坊についての文章の抜粋である。
「演歌40年の歴史(明治20年〜大正末年)の中で演歌がそれ自身の使命感をもち、民衆の心の中にあれほど食い入った時期はほかにないだろう。壮士演歌のころは、民権壮士の慷慨悲憤が痛快がられたろうけれど、それは民衆の生活感情と触れ合うこともなく、演歌が民衆とともに歩んだとみることもできない。いかにも反骨ありげに見えながら、それは売り物の感じである。日露開戦の前夜になると、その売り物の反骨を政府に利用される。軟弱外交をやっつけろ、という突き上げ運動は政府の仕組んだ芝居で、内に世論の高まりを待ちながら準備に時をかせいだわけであるが、そのころの演歌はそのお先棒を見事にかつがせられている。反骨はあってもそれを方向付ける思想が何もなかった。だから強硬な開戦論をうたうことで反骨のジェスチャーをみせるほかなかったのである。それが「ラッパ節」を契機に演歌を貫く一つの思想、いわば反骨のバックボーンができる。演歌精神の確立である。その演歌精神のおかげでこの時代の民衆が、民衆自身の歌をもっていたという事実は、日本の社会史に大きく記録されていいのではあるまいか」(大衆文学研究)
 ここには重要な演歌の本質が記されている。まず演歌の始まりが反骨に満ち、政府に楯突いたこと。強烈な政治的メッセージを全面に出して権力者に物申す歌は、過去の歴史においてほとんどなかったといえよう。例えば江戸時代に幕府に物申す歌が都々逸や俗謡にみられないこともないが、そこには直接的な抗議のことばを控え、カモフラージュが施されている。さもなければ唱うものは直ちにお縄頂戴の目にあったからだ。だが明治の壮士達はより直裁に、高らかに抗議の歌声を御上に向けて発した。弾圧に耐え、あの手この手と工夫をこらし、やがて読売という、歌をうたいその歌詞を売ってメッセージを広める手段をとる。しかし一見直接強力な一撃を政府に与えたかのような彼らのうた、演歌も先述の如くその売り物の反骨を政府に利用されてしまうのである。このことを察知したのが堺利彦などの社会主義者の影響を受けた唖蝉坊。そこで彼は壮士たちが大声で慷慨悲憤をぶちまけていたそれまでの演歌ではなく、市井の民衆の心に沁み入る風刺、諧謔に満ちた歌を多く作り出し、民衆がそれを口ずさむことで唄が権力者、為政者への強力な抗議メッセージとなっていった。ここで唖蝉坊は日本で初めてのプロテストソングメーカーとなったといえるのである。

 民衆の心を唄で掴むために、彼は以上に述べた如く「三味線調」に代表される、日本人が馴染んで来たあらゆる調べや節を用い、多くの替歌を作曲術の一つとした。そしてその歌詞も庶民が既知のなじみ深い芝居や語り物を歌にしたり、流行語を混ぜたりとあの手この手と工夫をこらし、その中に鋭い批判に満ちた歌詞を挿入する。唖蝉坊自体美声できれいな声であったと云われるが、民衆の心に沁み入る唄でなければならないというのが唖蝉坊演歌の本質。それゆえ、唖蝉坊演歌を唄いなぞることで、明治大正、それ以前の日本人のうたのカタチを知ることもできるのである。
 流行歌とは何か。桃山晴衣はまさに「三味線調」とされる日本音楽の本筋ともいえる三味線の弾き歌いを生涯続けてきた。この三味線調をさらにみていけば、桃山が追い求めて来た日本音楽の二つの流れ、うた物、語り物の世界がある。演歌はこうした、講談調、浪花節調といった語りうたのようなものもあり、民衆の情に働きかける工夫もみられる。「桃山晴衣の音の足跡」によって彼女の音の足跡が段々と明らかになっていただけたと思うが、子供のときから父上、鹿島大治氏の後見で長唄、小唄、端唄、復元古曲などをレパートリーに桃山流を立ち上げ、そのまま家元に収まることもせず、さらに語り物・浄瑠璃を極めるために四世・宮薗千寿師の内弟子となって奥義修得し、それでもそこにとどまることを良しとしなかった彼女であるが、このような江戸や上方の邦楽とよばれていたような三味線音曲の高度な技を身につけた彼女をさらに民衆の流行歌というものに目を向けさせたのが、中世の流行歌「梁塵秘抄」と添田唖蝉坊と子息の添田知道に代表される明治大正演歌の世界である。「梁塵秘抄」に関してはこのブログでも多く述べてきたし、彼女がライフワークとして自ら作曲し唄ってきたので説明を略すが、古曲宮薗節を極めた桃山晴衣がなぜ演歌なのかというのは一般の人には理解しがたいであろう。そこにはまず出会いがあった。添田唖蝉坊の子息で演歌二代と云われる添田知道師との出会いである。この明治の演歌の巨星と昭和生まれの桃山晴衣が出会ったのはやはり明治生まれの岡本文弥師を通してである。とりわけ一般大衆とはほとんど無縁の邦楽界になじんできた桃山晴衣にとって、演歌師達が衆とともに歩んで来た生き方、音楽のありようは非常に示唆的で、実際にその歴史を生きた添田知道師から学ぶことは多かった。桃山は四世宮薗千寿師のもとを離れて独立独歩の活動を続けていく際、徳川善親、円城寺清臣、秋山清岡本文弥、英十三、添田知道といった明治人のご意見番に囲まれ、多くを学んできた。とりわけ彼女が邦楽界から飛び出て独自の活動を始めだした60年代から70年代は、団塊の世代と呼ばれる者たちがこぞってロックやジャズに夢中になり、伝統から大きく乖離していった時代である。桃山はまさにこれらの動きに逆行するかの様に、「古典と継承」というタイトルのもと日本音楽の伝統の有り様を模索し、次々と古典と同時に新作の発表も行っていった。そしてこうした活動の中で大衆、民衆の唄や語り芸がどうあるべきかを真剣に考える時期が続いた。そこで辿り着いたのが「梁塵秘抄」の世界、これは中世民衆の流行歌(はやりうた)で、その歌詞の多様さと日本語の豊かさに惹かれると同時に、これを後白河天皇に伝授した遊女(あそび)といわれる女性が伝承者であるということに感銘した。歩き巫女とも呼ばれるこうした中世の遊女(あそび)たち、民衆の個々のうたを汲み取ってさらにそれを、大衆のうたへと発展させていった女人芸能者達、形こそ違え、彼女がここにみたのは自らの声と足で唄を大衆に伝えた明治大正の演歌師達の姿である。そして添田知道師からは、江戸時代から明治に入って変遷していった日本のうたの形を伝授され、数々の唖蝉坊・知道節を学び、数年は演歌だけのコンサートも開いていたが、「梁塵秘抄」とは異なりやはりこれは男のうたであるという実感を持つにいたり、演歌はワークショップなどで特に男性に教える姿勢をとってきた。添田知道師は桃山晴衣の唄う演歌が非常に好きだった。そして晩年は彼女を荒畑寒村氏の会に誘って、当時の社会主義者達や演歌を知る人たちを前に演歌や小唄を披露させた。その桃山晴衣の演歌に大勢の明治人が感嘆した。

 「『演歌をうたう』というと、意味をなぞりながら、あるいはその意義で聴かれることが多いので、とてもやりにくい。が、ここではうたいだすと手拍子の打ち方に熱気さえはらんで、瞬く間に昂揚してゆくのが、いつもとは違っていた。考えてみれば私は唖蝉坊とともに演歌して歩いた人たちの中でうたったことになる。席へ戻ると『あんたのうた、いいよー』『うまいねー』とまわりにいた人たちが口々に声をかけてくれた」と桃山は自著「恋ひ恋ひて・うた・三弦」に記しているが、それまでなぜ演歌などをやるのかという声が多々寄せられていたこともあり、この会で彼女は大衆ということの意味や演歌の意味をさらに確認できたようだ。それでも彼女は、その頃の自分は演奏家として音楽しておらず、どういう歌をどううたったらいいのかを模索している最中であったといい、宮薗節や小唄の桃山でも、演歌師の桃山でもない、三絃弾き唄い奏者としての桃山晴衣の道を歩んでいったのである。
 さらに桃山晴衣が唖蝉坊演歌と「梁塵秘抄」に共通して魅かれたのが、うたう声の質である。「梁塵秘抄」を伝えた遊女達に関しては「更級日記」に天に澄み渡る声で唄ったと書かれているし、絶叫する壮士達をイメージしがちな演歌も添田唖蝉坊によって人の心に沁みる歌でなければならないとされ、その唖蝉坊自身が繊細な美声であったと添田知道師からも聴かされており、この澄んだ声や、繊細な美声ということが彼女を二つの民衆歌に引き入れた一つの要因でもある。大衆の歌というとガサツで声を張り上げ、やたらとコブシをまわして唄うというイメージが先行してしまいがちだが、桃山晴衣はこうした大衆のイメージを払拭するかのように自らの音楽世界を築き上げていったのである。そしてそこには唖蝉坊のいう江戸時代の衆が切磋琢磨して築き上げて来た繊細な「三味線調」があり、語り、うたがあったのである。
 さて長々と書いてきたのも、パーカッショニストとして日本では紹介される私だが、いまなぜうたを、三味線をと不思議がる人も多いと思う。もちろん私はうたやその他の楽器に比べて打楽器演奏を多く続けているし、数少ない日本での演奏もそれらの演奏の機会が少なくなかった。しかし私がずっと活動を続けて来たピーター・ブルックの国際劇団ではこれまで実に多くの異なる楽器を演奏してきているし、役者達に様々な歌唱法や歌も教え、自らも劇中で何度も歌を歌って来ている。だからこうした活動を知らない人には今回の三味線、うた、さらに演歌と三拍子そろったこの変化にはちょっと奇異に移っているかも知れないが、私にとってはごく自然なことなのである。これまで私は本当に多くの優れた音楽家演奏家と出会い、演奏をしてきた。ミルフォード・グレイヴス、スティーブ・レイシー、デレク・ベイリーといった三人の即興の巨人たちとの交流は実際の演奏を通して即興の何たるかを教えられたし、ピーター・ブルックの国際劇団での仕事は各国からの音楽家演奏家との多くの出会いによって、これまでの音楽感を大きく変えられたし、アジアやアフリカを巡るにあたっては日本というもの、伝統というものを再考させられることが多々あった。そんな過程で起ったのが桃山晴衣という異能の音楽家との運命とも奇跡ともいえる出会いだった。それまで疎遠だった日本の邦楽と呼ばれる音楽が、彼女との出会いで一気に近しくなったと同時に、ロックやジャズの渦に巻き込まれていた私は、そこから異なる音楽の道を彼女と開いて行くことができた。30年近くにわたる彼女との郡上での活動、古代音楽調査研究、そして小唄、端唄、長唄浄瑠璃、わらべうた、俚謡にいたるまでの豊富で奥深い彼女の音曲世界は、私が日本でやらなければならない課題を多く示していたし、それを完遂できないまま彼女が急逝してしまったことは無念というより、日本の次世代の若者にとっても大きな喪失だと思っている。桃山晴衣の世界は誰も真似ることのできないほどの経験に裏打ちされている。演歌一つ取り上げてみても、実際の創始者といえる添田知道師に徹底的に学んできた。彼女が亡くなり、数年悩み続けていた私だが、彼女が添田知道師から演歌を学んでいる録音テープに耳を傾け、堺利彦荒畑寒村氏などの書物、添田唖蝉坊・知道師の多くの書籍に目を通していくうちに、この演歌の重要性、そして桃山晴衣が演歌をなぜ学んだのかが理解できるようになり、この音楽遺産を誰も継ぐ者がいないのは忍びないと、彼女の三味線を手に奮起したのである。彼女の唄い残した曲を手始めに唖蝉坊の曲を中心に曲目を増やしていき、YOUYUBEに記録したのがすでに30曲あまりになっている。この作業をしていくうちにこの明治大正のうたであった演歌の大切さがさらにわかってきた。それは唖蝉坊が演歌を始めた明治時代は江戸時代から明治の文明開化への転換期であり、西洋文明を急速に取り入れた時代でもある。それに乗じて音楽もまた西洋音楽を教育化する方針が打ち出されるなど、それまでの日本の音楽文化、とりわけ大衆が築き上げて来た「三味線調」の文化が疎外されだした。しかし冒頭で述べたように、民衆の感性は楽器を手に持ち帰る様には即座に変えられるわけがない。それゆえこの変遷期の演歌の中には、それまでの江戸や上方の音曲、地方の俚謡などの痕跡が悉くみられるし、そこから伝統の音と根を探っていくことも出来る。いわば演歌には日本人の奥深い節調が潜んでいる訳である。これを私は自ら唄うことで確かめていきたいと思っているし、民謡や小唄までが家元制度のなかで自由を失ってしまっている日本において、三味線そのものをギターの様に自由な楽器にしなければならないし、俚謡などのうたなども近年の鋳型にはまったような唄い方、演奏の仕方とは異なる道を模索しなければならないと思っている。

そのために最近では地元郡上のうたを、新たな演奏法で唄い始めてもいるが、あくまでもピアノやギターに代表される、西洋音楽のコード中心の音楽や、ロックやポップスのリズムに支配された民俗音楽にはしたくないと思っている。演歌の添田唖蝉坊はアカペラ、楽器無しの歌い手だったし、その後楽器が加わってバイオリン演歌の時代が数年続いたが、ピアノやギターがこれに加えられる様になり、歌謡曲へと様変わりしてゆく。今の歌謡曲やポップスがつまらないのはこうしたコードと機械リズムの支配の中にあるからである。こうした意味においても明治大正演歌は重要なのである。
 というわけで、この夏からゆっくりと私は演歌の道を歩み、邦楽番外地へと巡礼して行く計画である。そのまず小さな一歩を東京の吉祥寺Siound Caffe Dzumiから始める、そして夏には郡上の立光学舎で久々のワークショップとして演歌、梁塵秘抄、郡上のうたと、桃山晴衣の遺産としてのうた塾を三日間にわたって開く。郡上踊りの期間でもあるので、踊りも加わる。そして9月にはこれまでも桃山晴衣や私のコンサートを開催してくれた岡山の日高氏が自らの事務所を立ち上げ、その第一弾として「演歌」のコンサートを岡山西大寺で開催してくれることになった。これはこれまでも一緒に演奏をしてきた若手演歌師の岡大介くんとネーネーズや桃山のバンドでもベースや三線を演奏していた山脇正治氏を加えた、アンサンブルを聴かそうと思っている。またその後、京都、大阪、名古屋等、レクチャーコンサートを展開していく予定で、これらはその都度ホームページでお知らせいたしますのでご覧ください。まずは吉祥寺、今回は新曲も交えてうたを多く唄おうと思っているのでご来場下さい。なおDzumiは極小スペースなのでお早めにご予約いただくことをお勧めいたします。

土取利行・邦楽番外地 添田唖蝉坊・知道を演歌する
吉祥寺・サウンドカフェ・ズミ/武蔵野市御殿山1-2-3キヨノビル7F
2011年6月23日(土)開演:7:00 会費2500円 
http://www.dzumi.jp/
電話予約:0422-72-7822 メール予約:event.dzumi@jcom.home.ne.jp