今夏「うた塾2012」と立光学舎ワークショップの変遷


<在りし日の桃山晴衣と立光学舎で>
80年代は日本はバブル景気に浮かれていた。私と云えばそんなこととも露知らずブルック劇団の音楽監督として「マハーバーラタ」の音楽制作準備でインドを始めアジア各地を、音楽・芸能渉猟のために駆け巡っていた。時折、日本に帰ってはいたものの長逗留はしなかったのでバブルの実感もなかった。そんな中、1985年にアヴィニオンで超大作「マハーバーラタ」が初演となり、その後フランス語から英語にバージョンを変えて世界ツアーが3年続き、最終公演が銀座セゾン劇場となった。銀座にブルック劇を上演できるセゾン劇場ができること自体がバブルを象徴するような出来事だったのだろうが、それを前後に日本にも長く滞在する様になり、お台場で踊り狂う女性達の姿をTVでみながらこういうことだったのかと知らされる。そんな浮世とは別にセゾン劇場は「マハーバーラタ」の前にブルックのオペラ「カルメンの悲劇」でこけら落としをすることになり、まだ建設中の劇場を私はブルックと訪問した。そこではオペラということでこの劇場がいかに音響的にすぐれているかという建築家からの提示があったが、ブルックはデータには関心を示さず、工事中の人たちを集めて、私と一緒に来ていた桃山晴衣にその舞台となるスペースで何かうたを唄って欲しいという。そして、演劇とは無関係の労働者達が彼女の歌に聞き入るさまを見て、彼は音響に問題はないとした。「劇場が美しくても生命力の爆発が起こらないこともある。逆にでたらめに選んだホールが素晴らしい集会場になることがある。だからこの不思議が解明できなければ、劇場建築が一つの科学ととして体裁を整える望みは無い」と『なにもない空間』に書かれている彼の言葉が思い起こされる。また「カルメンの悲劇」を上演するにあたって、ブルックは初来日になるので劇場側は彼と日本の能役者の対談を試みようとしたが、これはにべもなく断られた。そのかわりブルックからは、日本の演劇に関心を持つ人たち、とくに若者たちと「ワークショップ」を持ちたいとの申し出があった。が、当時の劇場スタッフ、関係者はこの「ワークショップ」が何を意味するものかも分からなかった。いまでこそダンスや演劇、音楽、あらゆるジャンルでワークショップという言葉が用いられているものの、ブルックがワークショップと云った時、何をするのか分からなかったため会場探しからはじめ、結局今やトレンディーな場となった恵比寿のビール工場の建物が使われることになった。

<ピーター・ブルックとインドでワークショップ>
こうして演劇やブルックに関心を寄せる人たちが大勢集まり、初めてブルック自身が行うワークショップを体験したのだが、このワークショップの様子はさておき、私はブルック劇団に参加した76年以来、様々な場所でこうしたブルックとのワークショップを行ってきている。そしてこの経験をいかして87年、一旦パリの住居を引き上げ郡上八幡に桃山と二人の拠点となる立光学舎を建立してからは、そこでの活動の一つとして春と秋に定期的にワークショップを持つことになった。その立光学舎でのワークショップの代一回目は「マハーバーラタ」の東京公演が終わって間もない時期の開催もあって、「マハーバーラタ」を見て感動してきたという参加者が多かった。ワークショップという言葉を用いて現在では様々な活動が展開されているが、初期のワークショップではブルック劇団で私自身が多くの指導にもあたっていたこともあり、声や身体を使っての様々なエキササイズを学舎周辺の山や川も利用して行っていたし、様々なドラムリズムでのムーブメントや武術なども長く採用し、中国武術家の松田隆智氏にもよくおいでいただき指導をお願いしていた。


<立光学舎でのワークショップ>
また桃山晴衣はパーフォーマンスだけでは駄目ということで、掃除や台所での食事なども厳しく教えたし、料理は立光学舎の庭の野草を用いて実に多彩な食事を皆でいただいた。私が日本に滞在できる年は基本的に初夏と秋の二回にわたって続け、参加者はプロの俳優やダンサー、音楽家、学者はじめ、一般のサラリーマンなども一緒になって参加していた。桃山はさらに若い役者のために両国のシアターXで3年ほど一ヶ月間集中して台詞や体の動きなどを中心に若い役者達に教えてき、そこで彼らがあまりに台詞はもとより唄が唄えないことに愕然とし、後に「うた塾」と称したワークショップを東京と郡上の立光学舎の両方で開催する様にもなった。私のブルックとの仕事が長くなり日本に帰れなくなった時も彼女は単独でこの「うた塾」を開き続け、その延長として各地でお母さん達を集めてのわらべ歌のワークショップも熱心に進めてきた。彼女は本当に日本のうたがこのままでは絶滅してしまうという危機感を強く抱いていた。その思いを未来の子供達へ託すかのようにわらべ歌の指導に亡くなるまで奔走していたのである。なぜなら、わらべ歌ですら教える先生達が西洋音楽の発想と発声で教えていることに危惧していたからでもある。

<うた塾で指導する桃山晴衣
 その桃山晴衣が逝去して四年目が巡ってくる。そして時が立つにつれ彼女の献身的ともいえる「うた塾」のことが、いま私の課題ともなって立ち上がってきた。というのも、彼女の遺した様々な書物、音源の中につて続けていかなければならない多くのものがあることに気づいたからである。その一つが添田唖蝉坊の御子息、添田知道師を30年間ご意見番としていた桃山晴衣が研究し、唄っていた明治大正演歌の世界である。彼女は「うた塾」でこの演歌を様々な形で用いていたが、わたしは彼女の仕事でもあったため深くその世界には入り込まなかった。しかし今、古曲宮薗節を修めた彼女がなぜこのような民衆歌に長く取り組んで来たかがわかってきた。このことは今年から彼女の三味線を手に演歌巡礼コンサートを開催するため、先のブログで述べているので参照して欲しい。
 今年の初夏、御年87歳になるピーター・ブルックがワークショップのドキュメント番組を撮るので来て欲しいということで、久しぶりにパリで彼と共に十日間ほど仕事をしてきた。久しぶりの充実したワークショップを行ったことで、日本でも途絶えていた桃山晴衣の「うた塾」を彼女に代わって私がやろうという意欲が湧いてきた。
 「うた塾」は以下の日程で開催。三日間にわたり、自然の中で、そして参加者との交流の中で自分の命である「声」を確かめてほしい。私はブルック劇団で様々な声の実験をしてきたし、インドやアフリカで自身が学んできた唄なども教えて来たし、劇中でもよく唄ってきた。今回はとりわけ桃山晴衣が「うた塾」で教えてきた「明治大正演歌」「梁塵秘抄」「俚謡」「わらべ歌」などを中心に唄い合えたらと思っているし、添田唖蝉坊・知道の演歌の歴史にも触れたいと思っている。また一日は既に始まっている本場の「郡上踊り」に馳せ参じる予定、もちろん郡上踊りの唄もワークショップでは唄います。そしてワークショップの三日目の午後は、ゲストに若き演歌師のホープ岡大介君とネーネーズ知名定男さんなどと活躍していたベースの山脇正治氏も参加しての「明治大正演歌の会」が学舎で開催され、ここで私は三味線を手に唖蝉坊演歌を唄います。盛夏。充実の三日間をどうぞ郡上でお過ごし下さい。なおワークショップには人数制限がありますので参加ご希望の方はお早めにご連絡をお願いいたします。
「清流・郡上八幡、立光学舎の夏期ワークショップ」
土取利行の「うた塾」2012<桃山晴衣の伝え残した日本の流行歌・明治大正演歌、郡上の俚謡、中世の梁塵秘抄、わらべうた、子守唄>
開催日:8月10(金)11(土)12(日)  会場:立光学舎

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