歌の流れと人の身は:添田知道

添田知道師の名著「演歌師の生活」の結びに掲載された近代流行歌の流れを書いた名文。日本の唄について本質的な問題にふれているのでそのまま掲載させていただきました。多くのことを考えさせられます。


添田知道(左)と演歌師・長尾吟月氏/浅草木馬館で1953年11月18日)


「歌の流れと人の身は」添田知道
 <流行>とは”佐渡佐渡へと草木もなびく”のように<なびき性>から生ずる現象である。歌もひとがうたうからわれもうたうという。ただのなびき性による流行もあるが、その歌の、節の、どういう点でか人間の心にふれるものがあってうたいたくなる、その伝染力の大小が、流行度を示すことになる。
 流行歌を時花唄と書かれたこともある。時の花。ぱっと咲く。が、はやるものはすたる。すたれたても、ほそぼそとうたいつがれるものもある。<なつメロ>という名もあったが、それがうたわれたときの時代背景が記録されていることで、別な貴重性便利性も出来てきて、そこがおもしろい。
 明治は明治の色、そして動き。大正は大正の、色と動き。それは今でもいろいろ文献があるから、それをみるとよくわかると思う。
 明治は江戸期伝来の音調をひいているが、そこには中国の音脈の流れこみもあり、それに洋楽の脈が入り込んできた。この三味一体的な、大衆的消化があったのは、素朴なものであれ、時代を生きた人間のしるしがのこっている、といえる。
 大正はさらに洋楽旋法が大衆のなかに入ってきた。これも時の花。
 流行歌の媒体をなしたものに、明治民権運動の産物で、街頭でうたった<自由演歌>の形式があって、その活動が大正期までさかんだったが、当時蓄音機といわれた、いまのレコード産業が追々の発達をしてくるに従い、また昭和初期からはラジオの発達によって、歌の流布媒体が機械化し、かつては一つの歌の流行が、都市にはじまって全国に及ぶには一年も二年もかかった口伝時代にかえて、歌唱の全国同時性が生じた。それが歌の機能と性格まで変えてきた。規格化を来した。それは人間規格化に通じもした。口伝時代には、音感度の差はあれ、一つのメロディーにも<自分の歌>をうたっていて、そこにその人の<人間>がにじみ出ておもしろかったのだが、(おかしさもあったにしろ)、その個性が均らされてきたということができる。
 ”ひとと一緒であるという安心”は”もたれかかり”と同じになるのだが、ひとがうたうからわれもうたう、バスに乗りおくれるな、この一連の心理が”右へならへ”に従っていれば安全とするに通じる、いみじき人間の弱さであった、この盲点がうまく利用されたということ。本来、流行とは結果現象なのだが、マスコミの企業家に従って<作る流行>が生じた。製作流行歌の時代がきた。これが昭和である。レコードによる<歌謡曲時代>がそれで、<道頓堀行進曲><波浮の港>などにはじまって<君恋し><祇園小唄><唐人お吉>から、<影を慕ひて>の恋慕調、<酒は涙かため息>かの、絶望型の古賀メロディーとなる。<島の娘>が勝太郎のセクシャル声調で爆発的な流行をみると、<東京音頭>から<さくら音頭>につづく音頭時代になる。が、<赤城の子守唄>の哀感から<国境の町>以後満州ものが多くなって、<生命線節>などと、シナ事変のきざしが濃くなってきた。
 しかしその中で<二人は若い>の青春讃歌や<忘れちゃいやよ>の甘ったれ、<とんがらかっちゃいやよ>のいさめなど、軽快調やねばり型の歌が流行したのは、時代の暗くなるなかでの大衆の心のまどいがそれに託されていたとみられる。
 ”どこまでつづくぬかるみぞ”でいよいよ戦中の支離滅裂がきたことはいうまでもなかろう。それにしても”出てこいニミッツマッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし”が我が身にかえってくることであったろうとは。
 戦後は<りんごの歌>であけた。ラジオがこれを全国的にうたわせた明るさだった。だが、よくわかるとうたった”リンゴの気持ち”が何であったかは、つかめていなかった。占領軍の支配下にそれがつかみきれぬままにゆがめられていったといえる。”こんな女に誰がした”(歌題は<星の流れに>)は、誰も彼もにどういう点でかぶれる傷口の共感があって流行したのだろう。それが<ブギウギ>のヤケを呼んだ。ジャズは大正期にすでに入ってはいたが、占領下のアメリカ調の流入は激しかった。
 <異国の丘>や<ハバロフスク小唄>の傷痕をいだきながら、ブルース、ルンバ、タンゴと明け暮れた。<水色のワルツ><湯の町エレジー><長崎の鐘>、さすらいtp哀感。たまに<銀座カンカン娘>でハッスルなどといわれたあばれを見せても、それはみゆき族の沈黙の佇みに行き着いただけであった。
飲めば<トンコ節><ヤットン節>のワイザツ。芸者を買えない<芸者ワルツ>。すべて作られた太平ムードの瞬間のまぎらわしである。死んだと思った<お富さん>が出て来るのも、混乱期の現れであったし、だからせめて<有楽町で会いましょう>だった。それが、”解放された”という男女の生態で、何か満たされない思いのままの<有難や節>の自棄発散ともなった。
 十代の反抗。非行少年と名付けられ、はびこった。”わかっちゃいるけどやめられない”と<スーダラ節>はおとなへの皮肉をちょっぴりのぞかせながらもスイスイと踊ってしまった。根なし草の悲しみが歌になる。<王将>も”吹けば飛ぶよな”だからこそうたわれたのである。吹いても飛ばなかったら流行歌にはならない。”上を向いて歩こう”も”涙がこぼれないように”であるから上を向いた。高度成長のキャッチフレーズが大衆の生活実質とはならぬことと符節が合ってあわれである。<お座敷小唄>も富士の高嶺の雪はなるほど美しいが、ちまたの雪はぬかるみとなる。”松の木ばかりが待つじゃない”ので、いくら待ってもいい便りとは、向こうからやってくるものではない、とまではわかっていても、出かけて行っても戸締めをくらたり、そっぽを向かれたのでは、どうしようもない。
 この、どうしようもないこころが、うまくキャッチされて、これらの唄が大量製造されてばらまかれる。何か、どこかで、その満たされぬ心にふれてくるから、みながうたう。だがうたってみるだけのことで、瞬間はまぎれるだろうが、しかとした手応えはないから、所詮は泡である。泡は消える。はやるものはすたるとはこれである。が、かきまわせばまた泡は立つ。泡を立てていなければショウバイが成り立たないので、せいぜいかきまわすはかない。そして<骨まで愛して>と、作って売る方も、買ってうたう法も”骨までぬかれる”ことになる。
 戦後二十年のかきまわしで出来た、数え切れない歌・唄・謡の節はちがえど、テーマは魂の<さすらい>であり、その根なし草の哀感をまぎらわす”瞬間のセクシャル・ムード”につきたといえる。その点大衆は底なしの正直だといえる。だから、商魂社は繁昌するのである。
 この流行歌謡曲の洪水の、半面に、いまは民謡時代、といってよいほど、各地の民謡の北から南のはてのものまでも、ほり出されて、流行歌と同じに、うたいはやされている。これはどういうことなのか。
 外来ムードにうつつをぬかすばかりではない、という現れなのだろうか。民族性の再把握をしようということか。民族のもつ音律というものはたしかにどの国にもあるものだから、日本におけるその再確認という動きなのだろうか。何々温泉、何々センターの舞台でうたい踊るおじさん・おばさんたちの姿から、何を感じとったらいいのか。
 しかしまた、本来郷土の声である民謡が、洋楽旋法の流行歌謡曲調で破壊されているのも事実である、それが少しも疑われていないようでもある。流行歌も社会心理学の対象物である。いや、現在では社会病理学のものとさえなっているのである。  <初稿:月刊「国民百科52」(平凡社)>