桃山晴衣の音の足跡(40)  ハムザ・エルディーンとの出会い


<桃山晴衣とハムザ・エルディーン:スタジオ200>
 桃山晴衣が1980年の9月を機に自ら働きかけ、自らの足で出かけ唄い続けた「梁塵秘抄ツアー」はひとまず一年半で区切りをつけた。「いくら書いても書き尽くすことのできない、清々しい想い出と感激的な交流。そこから派生した創造的な出会いを残して・・・。まだ未整理の状態でハッキリと掴めていたわけではなかったが、私はそれらの人々のすべてから、確かな手応えをもらったような気がしていた」と記すこの自主自営コンサートは、これから音楽活動を進めて行く上での大きな指標となったにちがいない。気力体力ともに磨り減らしたであろうこのツアーが終わって、彼女が東京にもどると、ヌビア出身のウード奏者で弾き唄いのハムザ・エルディーンが日本に滞在中であるという連絡が入り、梁塵秘抄のレコーディングでも何曲かウードを使用していることから(この時はギタリストの石川鷹彦氏がウードを演奏していた)会いにいった。桃山は「梁塵秘抄」の作曲をするにあたり、日本古来の音だけでなくシルクロードの音楽に関しても多くを聴き、ハムザのレコードは特に何度も聴いて気に入っていただけに、彼から音楽について色々と話を聞けるのが楽しみだったが、事は急展開で西武のスタジオ200でジョイントコンサートをということになった。アフリカ、スーダンのアスワンハイダムの建設と砂漠の浸食によって故郷を失くしたナイルの上流ヌビア出身の彼は、500万のヌビア人の内一人だけ<専門の音楽家>になり、アフリカの唄をアラビア音楽にのせてウードで弾き唄うという奇跡の楽士である。本来なら「梁塵秘抄ツアー」の疲れを癒さずにはいられなかったところだが、「自分と重なるところの大きい」というこのヌビアの楽士を紹介したいと、1982年の6月から7月にかけて、名古屋、京都、福島をジョイントコンサートで巡り、二曲ほど中村とうよう氏のプロデュースでレコーディングも行った。(このレコーディングは桃山晴衣のLP「鬼の女の子守唄」1986年で発表され、現在は日本伝統文化振興財団から同タイトルのCD盤で発売されている)
 ハムザとのコンサートでは、桃山は「梁塵秘抄」やハムザとの出会いで作ったという「うらうら椿」など新曲ばかりを選んでうたった。そして同時に彼女は「共演とはいっても私は彼の音楽のすべてを紹介したいということと、彼と接することによって音楽の背景を探りたいという気持ちが強く、国を異にする二人の音楽家のセッション」とは趣を異にしていたと云う。それでも桃山晴衣にとって始めての体験となったアラブ、アンダルシアの名曲中の名曲「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」は、ウードと三味線、ヌビアの男性と日本の女性がこれまでどこにも聴かれなかった異なる絃と異なる声を交差させ築き上げた名作となっている。(YOU TUBEではスタジオ200のライブ録音を流しているが、アラブ圏の音楽ファンからの賛辞が多くよせられている)

桃山晴衣&ハムザ・エルディーン「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」ライブ録音@スタジオ200>
 とはいえ、この「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」、実は「何度も投げ出したくなった」と桃山は云っている。「ウードは長さ15センチ、幅1センチほどのへらへらしたピック用のもので弾くので、柔らかい音が出る。うねりながらねばってうたうのに、その音が実によく合う。ところが三味線でうたうと素っ気ないことこの上ない。うねってうたおうとすると弾く方がとてとてになってしまう。そういうわけでとても難しいというと、伴奏と同じことをしているだけだとバカにしたような顔をされる(ように思えるのだ)。私は手首から先をへらへらと柔らかく動かして弾く練習をして、何とかサマになる様にこぎつけた」と、桃山はその苦労を後日談で語っている。
 桃山晴衣はこのハムザとのジョイントから改めて言語と楽器というものを深く考える様になった。そして自分がなぜ三味線にこだわるのかと聴かれると、「日本語と三味線はピッタリだから」と答えていたのだが、その答えの深意を彼との共演でさらに知らされたと云う。さらに桃山はこうも云っている。「三味線はアタック音が強い。メリハリと切れのよさを大切にし、一音ずつをとことん味わおうとする日本の音楽は、余韻から間にいたるまで、徹底してそちらに重点がおかれるために、規則的に刻まれるリズム等を無視してしまって自由自在、演奏のたびに違う、即興性をはらんでいる。日本の音楽は流れる水のように変化して行く。物語性を帯びているというか、構造的には場面、場面で展開されていくように構成されているようだ」と。またこのコンサートでは、観客でみえたフランス人が「彼のタール(ヌビアの太鼓)だけを本物と認めぞっこんだった」のに対し、彼女は「ウードでうたわれるオリジナルに親近感を持つ。アフリカのうたをアラビア語音楽にのせ、イタリアっぽい変化がある。それは故郷を失った人の音楽にふさわしい。・・・そしてそれは、日本とは、自分とは何かを拾い集めている私とどこか重なる」との感想を述べており、そこに常に前進して止まなかった彼女の気概を感じる。(今は桃山晴衣、ハムザ・エルディーン、そして二人の唄と演奏をプロデュースして記録してくれた中村とうよう氏もすでに昇天されてしまった)