桃山晴衣の音の軌跡(41)「夜叉ケ池拝登」

  7月21日、日曜日、午前2時30分に目が覚めた。熟睡しないまま夜明けを迎えて午前6時に郡上から西濃地方へと出発。毎月定期的に開いている「いろりわの会」特別プログラムとして、桃山晴衣の「梁塵秘抄」と深く関係する「夜叉姫」の伝承地を訪ねるのである。

 私たちが一路目指したのはその夜叉姫の魂が眠るという夜叉ケ池である。郡上から車を走らせること二時間、西濃地方揖斐町から国道303を山沿いに走り、6月に山開きとなった夜叉ケ池登山口に到着。幸い薄曇りの天候で標高1099メートルに位置する夜叉ケ池への山登りには都合が良い。福井県南越前町岐阜県揖斐川町との境に位置するこの夜叉ヶ池まで果たして到達出来るかどうか、朝二時半に目が覚めての疲労がたたり少々不安をかかえたまま、参加者と一緒にいざ出発。この季節は熊の出る恐れがあるとのことで両腕に桃山がコンサートで用いていた小さな鈴を腕輪にしてその代わりとしたのはよかったが、登山口の出発地点から急な坂道を下降した途端に左腕に巻いていた小さな鈴の塊がはじけるようにバラバラになって地に落ちてしまった。何か不吉な予感がしたが、右手の鈴だけを着けて進むことにする。しかし、皆が上り下りの急峻な坂を進んで行くのを前に見ながら、どうも足が進まず、おまけに心臓の動機が激しくなってき、背負ってきたリュックもスタッフに持ってもらう始末、何度か休み乍ら一キロほどの歩いた所でやっと皆と合流したという次第である。鈴がバラバラになった地点であきらめようとも思っていたが、なんとか後は順調なペースで進むことができほっとした。


 登山口から夜叉ケ池までは約二キロ半の行程であるが、これは平地を歩くのとは全く異なり、まさに山あり谷ありの難行だ。山道は人ひとり通れるほどの幅で人家も人気もない自然林に包まれた山中にはまばゆい緑のシダの葉や色彩の変化に富んだ山紫陽花が目を楽しませてくれ、時折遭遇する大きなブナやトチノキ、そして美しい滝が憩いの場を提供してくれる。池が近づくにつれ、山は急に岩場が多くなり、道もなくなり自然の石段を命綱頼りに恐る恐る登って行くことになる。この辺りから観る山々の景色は電線や鉄塔、人工的な建造物が一切目に入らず、原初の勇姿を呈してくれる。やっとの思いで最上段に登ると左右に山道がさらに続いていくが、夜叉ケ池はこの道の直ぐ下に水を貯めたクレーターのように静かに在る。

<夜叉ケ池>
池は周囲230メートルほどで、周囲を原生林が覆い、神秘性を漂わせている。桃山は池の水がこんこんと湧き出てくると書いていたが、この青く澄んだ水は、数十万年前に起きた地滑りによってできた窪地に雨水や周辺の山からの伏流水が溜まったものと考えられている。池の深さは7〜8メートルで酸性水のために魚は生息しておらず、黒イモリや天然記念物の夜叉ゲンゴロウが池の淵に多くみられた。丁度、着いたのが正午すぎで天気も良いため、福井側から来た人も合わせて登山客は意外と多かった。それにしてもこんな山頂にポツリと池が存在し、わき水ではなく雨水だけで氷河期以来水を涸らしたことがないというのは、やはり不思議であり、下界の人達が雨乞いの対象となる竜神様が棲んでいると信じてきたのも無理はないと納得する。池の淵は浅く透きとおった水の下に土が見えこそするが、わずかその先からは濃緑色の水面が舞台のように波立てず広がり、まわりの原生林がさらに神の降臨する劇場空間を作っていた。

 この夜叉ケ池に隣接する福井、岐阜そして滋賀県に共通するのは雨を霊験新たかなる神とみる雨乞い信仰で、その信仰を支える代表的な伝説が美濃の揖斐川(同異名の杭瀬川、広瀬川)流域に古くから伝わる安八太夫の娘、夜叉姫が雨乞いのために人身御供となって竜神のもとにゆくというものである。安八郡神戸町の石原伝兵衛家に伝わる物語では、「延暦弘仁の頃、大干ばつに遭った時、長者が田を見回っていると小さな蛇に会い、『雨を降らせてくれたなら、三人の娘のうちの一人をお前にやろう』と一人ごちる。すると、実際に大雨が降り、若武者が娘を貰い受けにくる。そこで自分から『わたしが参りましょう』と名乗り出た夜叉姫が、夜叉ケ池へ竜神の妻となっていく」とされている。石原家ではこの話をもとにお祀りを司祭して夜叉ケ池へ平安の衣装で登り、白粉、櫛、かんざしなどを流す儀式を行っている。
 しかし桃山晴衣はこの伝説化された夜叉姫が平治物語に書かれている実在の女性と繋がるものではないかと推察し、そのことがCD『夜叉姫』のブックレットに紹介されているので少々長いがここに記しておく。
 「平治の元年、源義朝とその息子義平、朝長ら一行が大炊長者(おおいちょうじゃ)の延寿を頼り、美濃・青墓へ落ちのびてきたことから、悲劇の幕が切って落とされた。舞台となった長者屋敷で、自らの手にかけて朝長の首を討とうとする父、その腰にすがって止める延寿と夜叉。年末から年始にかけて次々と続く父と義兄弟たち肉親の修羅場を目的にして、同じ源氏の血を引く我身の上を思い、まだ十一歳の夜叉姫は、二月十一日、杭瀬川(古揖斐川)に身を投げて自決するのである。
 ちなみに大炊長者一族は、今様歌の名手を輩出しており、平安末、後白河院がその一生をかけ、当時の流行り歌である今様を集めて編纂した「梁塵秘抄」の口伝衆には、延寿をはじめとする幾人かが登場する。また後白河院梁塵秘抄の今様を教授したことで名高い乙前(おとまえ)もここの出である。
 今様歌は母娘相伝で伝えられるというから、まだあどけない夜叉姫も、次の長者になるべく研鑽にはげみ、天に澄み昇るような美しい声でうたっていたに相違ない。なのに青墓宿は延寿の時代で消滅し、夜叉姫の死と共に今様も終焉を告げた。
 ところで地元、美濃・青墓の周辺には、(一)入水した夜叉姫の、遺骸は岸に上がったけれど魂は揖斐川を遡り、夜叉ケ池で成仏した・・という話が伝わる。夜叉ケ池は長者の所領、池田郡のはずれにあたる千百余メートルの高地に、こんこんと泉の湧く聖地である。
 一方、青墓からそれほど遠くない安八郡の豪族、安八大夫の家では、(二)雨乞い伝説を伴う龍神祭として、夜叉ケ池に紅、お白粉などを沈める行事を今も行っており、越前と美濃の境にあるこの池の周辺の坂内村などに、この伝説が残るようで、(三)泉鏡花の「夜叉ケ池」はこちらを取材して想を得たと思われる。
 三種もの夜叉姫と夜叉ケ池説が現存するのも興味深いが、(二)は雨乞いというより姫の鎮魂といった要素が強く感じられる為、調べてみると案にたがわず、安八太夫と大炊(延寿の母)は婚姻しており、つまり安八太夫は延寿の父、夜叉にとっては祖父に当たる人でもあった。平安の天下のもとに、追われる立場の源氏一族としてはおおっぴらな法要もままならず、時代を数百年も遡る雨乞い伝説に形を変え、夜叉姫を悼んだものであろうか。
 わたしの今様浄瑠璃「夜叉姫」は、地元に伝わる話と、事実を裏付けする数々の源氏の遺物、それに史実をかなり正確にとらえているといわれる「平治物語」を軸に、ドキュメントとして創作されている」
 『夜叉姫』は桃山の遺作で、晩年に古曲宮薗節の手を用いて作詞・作曲した今様浄瑠璃三部作の一つ。他の二作「照手姫」「浄瑠璃姫」と異なり、先の説明にあるような史実に重きをおいて書き下ろした独創的浄瑠璃である。またなによりも、桃山晴衣にとって<夜叉姫>は梁塵秘抄の伝承者である延寿の娘であり、「梁塵秘抄」最後の歌姫であったといことで、とりわけ関心も深く、その史実を知ることにも多くの時間をさいていたのである。

<夜叉ケ池の帰りに立ち寄った大垣市青墓円興寺の桃山晴衣揮毫による梁塵秘抄の石碑にて>
 私たちは夜叉ケ池登拝後、大垣へと向かい歴史資料館で郷土史家の堤正樹氏と再会し、夜叉姫や桃山の思い出話を聴いた。この時、堤氏からはまた夜叉姫に関する新しい報告があった。それは『美濃国諸国記』巻三十に記された夜叉姫入水の場所を記した貴重な資料がみつかったということだ。それによると、「牛若丸の姉、夜叉御前といふは大墓の長者が許にありけるが、大野郡谷汲山に至るとて、平治二年二月朔日、池田郡岡島といふ所にて、杭瀬川に身を投げて死し給ふなり、そこを、今に身投げの淵と申し伝へしとなり、・・・・」
 堤氏はここに書かれている現地へと赴き、夜叉姫の身を投げた場所を探したが、残念乍ら民間の伝承は消え去ってその場所を掴むことができなかったらしい。泉鏡花のモデルとなった竜神伝説の姫ではなく、平時物語に書かれた実在の夜叉の軌跡、桃山晴衣はこの謎の解明を半ばにして昇天し、堤氏も高齢に達している。夜叉ケ池とその周辺の場所に秘められた謎は余りにも多く、その軌跡はこのまま闇に葬り去られてしまうのだろうか。