ピーター・ブルック『驚愕の谷』への旅(一)

「演劇は私たちを驚かせる為にあり、また二つの相反する要素<一般的なものと驚異的なもの>を配合しなければならない。最初の探求であった『マン・フー』において私たちは、しばし狂人の位置に追いやられてきた神経障害患者の脳、自身の病気に起因したり、予測できない習慣を持った人間に直面した。それはしばし悲しく、時に愉快でもあり、いつも揺れ動いた。彼らは我らであり、我らは彼らでもある。ここで私たちは再び脳への探求をしようと思うが、今回、観衆は、音楽、色彩、味覚、イメージ、記憶において ある瞬間からもう一つの天国、地獄へと彼らを動かす強度な経験を持つ個々と、直面するだろう。
偉大なペルシャ詩人アッタールの「鳥の言葉」には、30羽の鳥が、一つ一つ段々と厳しくなっていく七つの谷を越えて彼らの探求の旅を完成させなければならないという話しが記されている。今回は人間の脳の山や谷へと入ってゆき、私たちは六番目の谷である、驚愕の谷へとわけいる。私たちの足はずっと地についているが、一歩ごとに未知へと進む。」   ピーター・ブルック
 

<ピーター・ブルック『驚愕の谷』パリ、ブッフ・ドュ・ノール劇場>
  郡上の立光学舎の山々に薄く根雪が残る2014年2月26日、名古屋国際空港からパリに飛んだ。2012年5月にピーターの長男サイモン・ブルックが監督を務めるブルックのドキュメント映画『タイトロープ』の撮影で渡仏して二年近くが経っていた。この間にピーターは日本公演のあったオペラ『魔笛』と前作をミュージカル仕立てにした『スーツ』を製作し、後者上演の際に来日した共同演出のマリー=エレーヌ・エティエンヌと東京で食事をしている時に、『驚愕の谷』についての話しがあり、同時にパリのピーターから音楽の依頼電話があった。
 ここ数年、私は桃山晴衣が亡くなってから、彼女が二十数年にわたってご意見番をしてもらっていた添田唖蝉坊の長男で演歌師でもあった添田知道師から直接習っていた唖蝉坊・知道演歌を残された三味線で歌い継ぐ活動を続けていた最中で、これを中断するのも少々迷ったが、とにかく40年近く一緒に仕事をさせていただいたブルックの仕事、しかも今年89歳という高齢での創作ともあってこちらを優先せざるをえなかった。
 『驚愕の谷』とはペルシャ神秘主義詩人アッタールの『鳥の言葉』に記された7つの谷の一つの名称で、ブルックはこの物語詩をジャンクロード・カリエールの脚本をもとに、1979年のアヴィニオン・フェスティヴァルで上演した。このとき既に私は劇団の音楽家として参加していて、この音楽作りがもとで次作の『マハーバーラタ』の音楽監督・演奏を全面的にまかされるようになった。というのも、実はこのアヴィニオンフェスでは『マハーバーラタ』を上演すべく劇団は準備を重ねていたのだが、ブルック、カリエールが脚本を構築するうちに予定していた物語の一部ではなく、壮大な叙事詩の全編を演劇化するという方向に変え、この時点で以前から何度か実験を繰り返していた『鳥の会議』(原題は「鳥の言葉」)の劇化に踏み切ったのだ。ここではそのプロセスは省くが、今回の劇はこの『鳥の言葉』の詩をいくつか折り込みながら展開する人間の脳の神秘を描く、ブルックいうところの演劇的探求である。

<アヴィニオンでの「マハーバーラタ」公演で、ブルックとカリエール>

 この人間の脳を主題にした作品は1993年の『マン・フー』に端を発するもので、神経学者のオリバー・サックスとの出会いが影響している。『マン・フー』はサックスの『妻を帽子と間違えた男』の演劇化でこの著作に登場する精神障害をもった患者を4人の役者が医者に患者にと入れ代わり立ち代わり演ずるもの、音楽を私と『マハーバーラタ』の音楽を共にしたイラン人のケマンチェ奏者マモード・タブリジ・ザデーが担当していた。(私は1988年に『マハーバーラタ』公演が東京で終わり一段落した時点で、桃山晴衣と活動拠点の郡上八幡で新たな活動を始めたため、後をマモードが担当するようになった)。しかし、そのマモードが予期していなかった重病になり『マン・フー』上演途中で亡くなってしまったのだ。日本公演のときには、彼の実演ではなく録音音源が使われていた。マモードはケマンチェという繊細なイランの伝統擦弦楽器の奏者であると同時に、いくつかの楽器も演奏できる柔軟性を有した音楽家でブルック劇に欠かせない音楽家となっていただけに、彼の死は大きかった。私が再びブルックから依頼を受けたのはマモードなき後、『ハムレットの悲劇』を創作するにあたっての時期だった。その後、『ティエルノ・ボカール』やその英語版『11&12』と以後、今に至るまで『魔笛』『スーツ』などの西洋音楽を主にした作品以外は関わってきた。というわけで、今回の参加はマモードへのオマージュの意味も含まれている。
 また『マハーバーラタ』以来、ジャンクロードやピーターと脚本作りに加わってきたマリー=エレーンの存在が、ピーターが高齢になったこともあり年々大きくなってきている。実は『マン・フー』はマリー=エレーンが入院していた時に出会った患者や医師との経験が発端で生まれたとブルックが語っているが、この『マン・フー』についで、ブルックとマリー=エレーヌはロシアの神経心理学者A.R.ルリアの著書『偉大な記憶力の物語』(岩波文庫)を基に、『私は現象』を1998年に舞台化している。そして今回、これら前二作の集大成ともいうべき『驚愕の谷』生まれたのであるが、この作品はタイトルが示すようにペルシャ神秘詩人アッタールの『鳥の言葉』に記された隠喩を劇中に散りばめた、神経心理学的探求劇とでも題したらいいのだろうか。脚本は以前のA.Rルリヤの『偉大な記憶力の物語』を主に、幾人かの共感覚者の記録をもとに構成されている。そして今回の作品が前二作と異なるのはルリアの著書に登場する超記憶能力者で共感覚者のシィーという人物を中心に置くことで物語性が強調されたことである。

<A.R.ルリア1902~77>
 私は『マン・フー』を日本で見ていたので、オリバー・サックスの作品もいくつかは知っていたが、『私は現象』は外国での上演がほとんどなかったため、作品自体も見ていなかったし、その基になったA.Rルリヤのことも知らなかった。そのため共感覚というのも初めて聴く言葉で、今回のリハで幾人かの共感覚者と実際に会ったのも初めてのことだった。共感覚というのは「一つの感覚器官によって複数の感覚を知覚する現象」で、例えば文字や数字にそれぞれ異なる色彩を見たり、色彩に音を感じたり、音に臭いを感じたりと、一般の人が使い分けをする感覚を脳が同時にする特異な感覚である。この共感覚の研究はヨーロッパなどで古くから話題になってはいたが、一般の関心をあおぐようになったのは近年のこと、特にアメリカやイギリスで研究が盛んになり、オリバー・サックスをはじめ、ブルックが何度か会っている英国のバロン・コーエンなどの著作が一般の読者にもしられるようになったのと、今までは異常者や病人のようにあつかわれていた共感覚者たちが、自らの能力を肯定的に認めるように社会的アピールを始めだし、アメリカの共感覚協会をはじめ世界各地に共感覚者達のコミュニティーが生まれだしている。またカンデンスキーをはじめ、画家や音楽家などアートの世界で活躍する共感覚者は現在でも後をたたない。このようなアーティストとして活動している共感覚者、キャロル・スティーンやジョン・アダムス、そして今では作家としても活躍する超記憶能力者として世界的に知られるようになったダニエル・タメットなど、今回の作品作りにあたっては彼らからも多くのアドバイスを得ている。

<リハーサルでであった共感覚者アーティストのジョン・アダムス(上左)とダニエル・タメット(下右から二番目)
共感覚については日本でもダニエル・タメットやバロン・コーエン、ラマチャンドランなど数々の翻訳本が出版されているし、A.Rルリヤやオリバー・サックスの著作も一般の目にふれるようになってきているので、共感覚の話はそれらの著書に任せるとして、今回の『驚愕の谷』の話しに移ろう。(次回へ続く)