郡上八幡音楽祭2017に寄せて

郡上八幡音楽祭2017『西アフリカ・マリの歌と弦楽の響演』によせて


 今年で四回目を迎える、年に一度の郡上八幡音楽祭。立光学舎スタッフの井上博斗が実行委員長となって、町の有志、ボランティアたちの協力を得て、資金集めから舞台製作まで、仔細にわたって自分たちの手で作り上げていくアートフェスティバルで、私はそのプログラムの監修ならびに演奏者として関わってきた。
 これまで招聘した音楽家、1回目は韓国の打楽器集団ノルムマチ、2回目はフリージャズの大家エヴァン・パーカーとウィリアム・パーカー、3回目はトルコのスーフィーミュージシャン、クツィ・エルグネル・アンサンブル。これらの音楽家はかつて共に演奏し、今も世界音楽を共有できるアーティストたちだ。
 今年は西アフリカのマリ共和国から未だ知られざる音楽家をと、首都バマコで演奏と歌を聴き、非常に感銘を受けたマリの一弦楽器ソクの弾き歌い奏者ズマナ・テレタを筆頭に考えていた。同時に彼と一緒に演奏できる音楽家の相談をブルック劇団で仕事を共にしてきた親友の美術作家アブドゥー・ウォログァムにも持ちかけていた。
 今年初めて井上自らがマリに赴き、音楽家の交渉にあたった。アブドゥー宅に世話になり、彼の工房に音楽家たちに集まってもらったり、かつてのアフリカンポップスのスター、アリ・ファルカ・トーレバンドのリーダーを努めてきたカラバス奏者で歌手のハンマ・サンカレのスタジオでバンドの面々たちに会っていた。そこにズマナ・テレタも見えた。しかし、彼はすでに肺を患っており、声も出るか出ないかの状態だったという。来日は無理だと言われていたが、どうしても行きたいという思いで、スタジオに見えたがやはり演奏できなかった。そこで彼の招聘を諦め、他の音楽家探しに奔走。結果、ハンマ・サンカレ他数名の音楽家を決めて帰国した矢先、ズマナの訃報が知らされた。マリからまた一つ真の歌声が消えた。

<ズマナ・テレタ>
 アフリカは若い頃から未知の魅力的な大陸だった。とりわけ大阪で暮らしていた十代の頃、70年万博で初めて見たウガンダだったか、褐色の肌の人たちが演奏するドラムに心踊らされた。その頃、街で黒人の姿を見ることは皆無に等しかった。エスニックなどという言葉もなく、アフリカ各国の情報もほとんど得るのが難しい時代だった。アフリカの文化は未開、秘境などの代名詞で括られるのが常だった。

 マリを初めて訪れたのは1978年。‘77年にトーキングドラムを習うためナイジェリアを訪れていたが、そこで生活の中から沸き立つ音楽というものを実感したため、他のアフリカの地でも異なる音楽体験をしたいという思いから、漠然としたアフリカ再訪計画を立てていた時、マリへの渡航が浮上してきた。
 パリに住む友人から今度マリにゆくけど一緒に行かないかという絶好のタイミングで知らせがあった。彼は食物の調査を兼ねて出かけるが、人類学者の友人がドゴン族の調査で一緒にゆくので音楽も聴けるのではないかということで、彼らの予定に合わせて計画をたて、マリ決行となった。
 この人類学者とは西村滋人。彼は1964年に京都大学に入学し、探検部に入り、国内の探検及びフィリピン諸島の民族調査に出かけ、大学では大橋保夫から仏語を学び、氏と京大サハラ調査隊で共に旅をする。また在学中には、各週に開かれていた梅棹忠夫の主宰する京都大学人類学研究会にも出席し、三年には文学部に入り美学美術史を専攻し原始美術を学んでいた。そして卒業後は自ら運転する車で、地中海からサハラ砂漠を縦断しマリにまで辿り着き、研究成果をあげていた。
 私にとって、マリは全く未知の国だった。パリで買ったマリの写真集の中に岸壁にへばりつくように建てられた土壁の住居群が目を引く。ドゴン族の建物と説明があり、西村氏がフィールドワークで通っているという村であった。ドゴン族は多民族国家のマリの中でも少数派で、マリの主流を占めるイスラーム教と無縁に独自のアニミズムを元にした宇宙哲学による宗教文化を長く保持してきた。西村氏はドゴン族のソンゴ村でフィールドワークを続けており、この時は彼の知人で音楽学が専門のT女史もくるというので、音楽調査も旅程に入っていた。
 ということで、マリの空港について一日だけバマコのホテルに止まり、待っていてくれていた西村氏と翌日は乗り合いバスでまず600キロの道のりを走り、ニジェール川沿のモプティという街に着き、そこでバマコから船でくるI氏と待ち合わせ、数日後に一緒に再び乗り合いバスで60キロのバンディアガラへと直行。バンディアガラはドゴン族の村への入り口である。西村氏の滞在しているソンゴ村はここからかなり離れており、5日に一度開かれる青空市の商人や品物を積むトラックに便乗させてもらうしかない。
 私たちはまずバンディアガラに二日ほど滞在した。ここはサハラ砂漠の南端近く、乾燥したサバンナの地だ。日中は40度近くあり、長歩きもできず民家から少し離れた簡素な宿に滞在していると、村の子供達が押し寄せてきては良き遊び相手となり、歌を教えてもらったりした。
 バンディアガラの広場に大型トラックが着き、大勢の人が次々と荷台に荷物を積み上げる。穀物、干し魚の詰まった大きな麻袋や市で売られる商品の山。この荷物の上に人が乗る。座る場所はなく、人と荷物の板挟みのまま体臭と食物の匂いでむせかえっている。市の開かれるドゴンのサンガ村までは40キロ、普通なら一時間も要さない距離だ。しかし雨季の雨上がりの道は道が崩れていたり泥濘にタイヤがはまったりと、結局四時間もの時間が費やされ、途中乗客は歩かされるはめにもなった。サンガについてすぐ簡易宿舎に荷を下ろし、市に出かけた。真昼、直射日光を遮るものが何もない小高い岩丘にクロアリのように人が群がっている。籠やひょうたんの器を並べ、様々な品が売られている。あたりは静けさが漂っているが、ここだけは異常な喧騒が広がっていた。陽が西に傾き出すと市から人が次々と去り、朝来たバスでバンディヤガラに戻る。夜更けにもう一度、市の開かれていた場所に行ってみた。昼間の熱気で岩がまだ暖かい。裸足になってその温かみに触れる。生ぬるい夜風が顔を撫でる。上空を一つ、流れ星が去った。ドゴンは云う。
 「星は唯一神アンマが虚空に向かって投げた土の玉から生じた」と。

 ドゴンのサンガ村は政府公認のガイドと一緒でないと散策できなかった。N氏もこの規則に従い、朝6時にガイドが私たちを迎えに来る。彼は足早に稗畑を抜け、起伏の激しい岩道を上り下りして進んでゆくが、N氏は興味ある対象に出くわすとじっくりと見てはメモを取る。やがて私たちの遅足に愛想をつかしたガイドは、見学後事務所に連絡してくれと言って、先に帰ってしまった。おかげで私たちはゆっくりと好きなコースを見学できることになった。
 巨大な岩場、頂上から一条の水の帯が垂れ、神話の原郷、ドゴンのバナニ住居群が見える。断崖中腹から裾野まで円錐形の藁屋根をかぶった四角い土の家がびっしりと建ち並んでいる。迷路のように入り組んだ住居群の細い道。人影もなく、時折不意をついて鶏の甲高い声が聞こえてくる。眼下には先の見えない広大な地平線。しかしこんな広い大地がありながらドゴンの人たちはなぜこんなにも不便で奇異な岩場に長くしがみついているのか。

 バナニ住居群見学の後、私たちはここに長く住んで研究をしているオランダの民族学者マルセル氏に西村氏が、ドゴン族の音楽を聴く手がかりは何かないかと尋ねるが、ドゴン族は今農繁期に入っており一ヶ月後まで祭りはないので音楽を聞くのも難しいのではという返事。しかし西村氏は諦めない。村長に頼めばなんとかなるかもしれないと、その足で村長宅を訪ねた。
「村の者たちに多少のお礼をしてもらえるなら手配してあげよう」。四日後にサンガの広場で音楽をやってもらえることになり、それまでバンディヤガラに一旦戻って待機。約束の音楽の日、I氏、T女子も揃い、全員で再びサンガまで出かけたが、この時は幸い村の人の乗用車に全員便乗させてもらい無事着いた。
 サンガ村の広場に村長が手配してくれた楽師が集まると、村の人たちもぞろぞろとやってき、子供達は屋根の上や木に登って演奏を待っている。
、太鼓、鐘、角笛、歌の四人からなるグループで、太鼓はボイトラという円筒形の横打ち両面太鼓と、ゴム・ボイという砂時計型締め太鼓。鐘はガンニャという肉厚があり、片手で釣手を持ちもう一方の手に持ったバチで打つ。そしてカモシカの角をくりぬき先頭部に吹き口をもうけたトランペットのようなカントロという楽器。これらの楽器の伴奏で歌が歌われるが、農耕儀礼の歌で、独唱者と器楽奏者の合唱による掛け合いによるものがほとんど。旋律、リズムとも単純で、反復形が多い。
 翌日はドゴンの結婚式の歌を聴かせてもらった。実際は男女一緒に歌うのだがこの日は男6人で歌われた。楽器は瓢箪の器、これを地面に伏せ、殻の表面を素手で打つ。ドゴンにはこうした日常の場面場面で歌や音楽が用いられるが、このような音楽による魂の働きかけは、やがて死者に向けられるとき、葬儀の時に最大となり、何日にもわたって行われる。
 私たちはまたその翌日、60年に一度、村を変えて催されるシギの祭りや葬儀など、特別な機会にしか見られないドゴンの仮面舞踊を見ることができた。午後、泊まっていた宿舎近くの広場にミニバスが着き、ヨーロッパの観光客がぞろぞろ降りて来る。これから祭儀ではなく、観光客用の仮面踊りが始まるというのだ。とりあえず私たちもタダで拝見できるというので、その場に出かけて見た。仮面は多様でユニーク。中でも人目をひくのが、シルグェと呼ばれる一族の仮面。透かし彫りの三メートル近い柱を頭上につけた仮面で、一族の家、死者を覆う布、機械の縦糸を象徴するという。踊りは概して軽く跳ね上がるものが多く、音楽も三つの太鼓による比較的単純なものだった。

 サンガでの音楽調査を終え、バンディヤガラに再び戻った昼過ぎ、私に大きな災いが降った。下痢が始まったので、朝フルべ族が売りにきたミルクを飲んだのが悪かったのかなと思っていたら、次に眩暈、嘔吐、発熱が続きベッドに倒れてしまった。西村氏は自分の過去の経験から「マラリアかもしれない」と言った。マラリアだったようで、幸い村に病院が一軒あり、宿の主人の世話で車を手配してもらい夜勤勤務の医者が一人いて、何本かの注射と飲み薬の緊急処置。その後ベッドで意識不明のまま三日近く、死の淵をさまよっていた。一晩中、滝のような汗が流れた後、四日目の朝、悪夢が去り、薬の後遺症で体が麻痺するだけで意識は戻ってきた。ベッドの周りに仲間の顔が見えてきた。私はとりあえず元気なうちにパリに戻ろうと、一足先にI氏の付き添いで九時間の道のりをバマコへ向かった。なんとかパリにつき、一週間後にはロンドンでデレク・ベイリーのカンパニーで演奏があった。ドゴンの旅は一ヶ月足らずだったが、忘れがたいものとなった。自身のマラリアはともかく、あの時「体を大切に」と、バンディヤガラで見送ってくれた西村滋人氏。彼はその後もドゴンの地で研究を続け、なんと二年後に強度のマラリアに襲われ、意識朦朧のままパリの病院に運ばれ、逝去された。『永遠のサハラ』という彼の遺稿が、近しかった人たちの努力で死後出版された。マリの子供たちと戯れていた彼の笑顔が今も忘れられない。


『ティエルノ・ボカール』ピーター・ブルックとのマリ

 76年から参加したパリの国際演劇研究センター。この劇団の主宰者で演出家のピーター・ブルックは、パリに拠点を移す前に、各国からの役者を引き連れ、演劇再考のためにアフリカ大陸縦断を試み、その後パリで世界演劇研究所(C.I.R.T)を設け、即興を通してインターナショナルな役者と共に演劇の可能性を探求し始めた。この劇団員の一人に、アフリカ縦断にも参加していたマリ出身のマリク・バガヨゴがいた。即興劇を通して彼の歌うマリのバンバラ語の歌は他の欧米の役者のうたう歌よりも新鮮かつ心に響いた。また彼とは即興で一緒にドラムを叩く機会もあり、マリについても色々聞くことができた。
 またその頃ブルックは民族学者コリンタンブルの『食うものをくれ』(日本語訳)をもとにウガンダの狩猟民イク族が国の政策によって狩猟地を奪われ、食い物を奪われ、信仰をも壊滅させられ、人間の尊厳をことごとく破壊されてゆく様を演劇化していた。ブルックの演劇を見たのは、ビエンナーレフェスティヴァルで私が初めて劇団に参加し、即興劇の音楽を担当した76年、この時同時に上演されたのがこの作品だった。野外でも室内でも土を敷いた何もない舞台に木枠だけの小屋が置かれ、役者は普段着の格好で演技する。私の演劇感はブルックの舞台を見、また共に創造することで大きく変わっていった。
 これを機に、劇団の音楽家としていろんな国の役者や音楽家と作業をすることになっていったが、マリの役者に関していえば、80年代初頭から劇団に参加し、『マハーバーラタ』『テンペスト』などで重要な役を担っていたソティギ・クヤテほど土俗的神秘性を持ったユニークな人もいないだろう。彼はマリとブルキナファソにまたがるグリオ、クヤテ一族に属し、伝統音楽に親しんできたゆえ、劇団内でも色々な歌を一緒に歌い、教わってきた。

<左からソティギ・クヤテ、ピーター・ブルック
 そして2004年に上演されたピーター・ブルックの『ティエルノ・ボカール』。
この作品は、アフリカ、マリの作家アマドゥー・ハンパテ・バーの原作『vie et enseignemont de Tierno Bokar』とハンパテ・バーの自伝『Amkoullel , L'enfant peul』『Oui mon commandant!』を基に脚色したもの。アフリカ文学は日本では馴染みの薄いジャンルだろうが、ハンパテ・バーの作品は過去に『ワングランの不思議』(石田和巳訳リブロポート)が邦訳出版されているし、今回の作品と関連する作家の二巻の自叙伝のうち第一巻の『Amkoullel , L'enfant peul』が『アフリカのいのち』(山口雅敏、富田高嗣訳 新評社)として邦訳出版されている。
 ピーターはハンパテ・バーがパリにいた頃、何度もあってティエルノ・ボカールの話を聞いていた。そしてこのイスラームスーフィー、賢者の話を舞台にかけるために2003年、ティエルノ役をやるソティギ・クヤテとマリの高名な俳優ハビブ・ダンベレと一緒にティエルノの地に赴いた。私は音楽の準備で彼らに同行することになったが、なんとこのティエルノの聖地が25年前に訪れたバンディアガラだったのには驚いた。
 音楽に話しを戻せば、この旅の初めにバマコに少し滞在した時、ソティギの一声でハビブの妻であり高名な女性歌手のファンタニのもとに大勢の音楽家が集まり演奏を披露してくれた。コーラ、ンゴニ、フルート、カマレン・ゴニの奏者達の中に一際目立った一弦の擦弦楽器ソクーを弾いて唄う男がいた。しゃがれ声のブルースシンガーのようなこの男こそ、私が日本に呼びたいと思ったズマナ・テレタだった。しかしその期待は実らず、先述したような悲しい結果に終わってしまったのは非常に残念だ。




 ソティギはまたブルキナファソに私たちが出かけた時も、若い音楽家を集め、演奏をきかせてくれたし、再びマリに戻った時には、親戚の家に音楽家を集めマリンケ族のうたを聞かせてくれた。この時はまた、カマレンゴニの祖形でもあるドンソンゴニを奏でる狩猟民呪術楽師をも招いてくれた。

 こうして『ティエルノ・ボカール』は2004年に上演されたが、このときもう一人マリの役者が参加した。というか彼は役者ではなく、本来美術家としてブルックに最初舞台美術の仕事を頼まれたいたが、この演劇では舞台美術の仕事のほか、役者としてもかりだされ、その後もいくつかのブルック作品に役者として登場している。マリのドゴン族の出自を持つアブドゥー・ウォログァム、首都バマコでは現代美術の学校にも通っていたが、ドゴン族の伝統文化を再認識し、ドゴンの神話をモチーフにした泥絵やタペストリーの製作他、数々の映画衣装を手掛けてもいる才人である。

 今回の郡上八幡音楽祭では野外舞台を用いその舞台をアブドゥーの泥染作品が舞台を飾る。来日の音楽家はアフリカンポップスの帝王アリ・ファルカ・トーレ・バンドのリーダーを務めて来たカラバス奏者、ヴォーカリストのハンマ・サンカレと二弦楽器ジュルケル奏者のヨロ・シセ、そして若手のンゴニ奏者アサバ・ドレメの三人。そして彼らを迎え共演するのは、土取利行と歌手の松田美緒の二人。なおこの音楽祭のために私はマリで手に入れたカマレンゴニの演奏で松田美緒が唄うアンゴラやブラジルのクレオールソングのリハーサルに臨んだ。これら未知の歌を覚えようと録音機をオンにして始めるやいなや、彼女の心に宿っていた歌が即興的に渾コンと湧きだす泉の水の様に切れ目なく緩急自在に流れ出し、終わった時にはこれが始めてのジョイントだとは思えない程素晴らしい演奏になって録音されていた。私たちはこの澱みない清い音の流れに手を加えることなく、そのままCDとして残すことにした。なおこのアルバムはこちらから入手できますのでどうぞお聞きください。

メタカンパニー http://www.metacompany.jp

郡上八幡音楽祭2017 『西アフリカ・マリノ歌と弦楽の響演』9月17日(日)18h開演
会場:愛宕公園野外ステージ   詳細: https://gujomusicfes.wixite.com/gujomusicfes2017