邦楽番外地「添田唖蝉坊・知道を演歌する」コンサート 桐生 特別編

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2019年11月10日(日)開場午後1時30 開演午後2時
会場:桐生市有鄰館
前売り 3000円 当日 3500円 
ご予約・お問い合わせ<メール>dragontone@gmail.com
電話 090-8778-1313

 

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2017年に鎌田慧・土取利行『軟骨的抵抗者』〜演歌の祖・添田唖蝉坊を語る〜(金曜日)を上梓した。この対談書の最後で、私はこう言っています。
 「啞蟬坊を語るとき、やはり平民時代の歌にスポットが当てられ、政治的な活動面が強調されがちですが、彼が歌をやめ、無産の人として10年近く遊行・遍路生活を続けていた精神的意味を考え直さなければならないと、僕は思っています」。
 明治5年生まれの啞蟬坊は文明開化の黎明期に18歳で自由民権壮士たちの演歌集団、青年倶楽部の歌に出会い、このグループと活動を始めるも、放歌高吟の歌に疑問を抱き、独自の唱法や詩や曲作りに専念してゆく。やがて政治的目的で結成された青年倶楽部も支援政党自由党の解体とともに自然消滅してゆくが、啞蟬坊は演歌そのものへの興味を持ち続け、自らの歌を作り路傍に立ち続ける。そして彼の存在を広く世に知らしめたのが日清戦争から日露戦争を通しての、日本が軍国主義へと猛進ゆく過酷な時代に作った「ラッパ節」だった。
 この「ラッパ節」は二人の人物との出会いによって作られている。最初は渋井の婆さんと呼ばれていたテキ屋の女性。彼女は啞蟬坊に入門した最初の女性だった。演歌は好きだけど、どうもこれまでの壮士演歌は小難しくてだめだ。どうかもっと砕けたのも作ってくださいという彼女の願いを受け、それもそうだなとコミカルな歌詞を加えて作ったものが、瞬く間に巷に広がったのがこの「ラッパ節」。兵士たちを歌ったものもあり、日露戦争時も「ラッパ節」は全国津々浦々演歌師を通して庶民の心に根を下ろしていく。この時期、新聞という新聞はいずれも戦争賛美一色に染まり、唯一批評をしていた万朝報も時流に抵抗できず、そこで記者として非戦を唱えていた堺利彦幸徳秋水内村鑑三が退社。堺と幸徳は直ちに非戦論を展開すべく平民社を創設し平民新聞発行、そして日本で初めての社会党の結成にまで至った。彼らへの政府の弾圧が続く中、堺利彦社会主義を広めるための雑誌を発刊し、社会党のテーマソングを読者から募集し、その歌が啞蟬坊の耳に入る。その節はどこかで聞いたことのある節だと思ったら、自分の「ラッパ節」ではないか。しかも歌詞が面白い。この時、啞蟬坊はロシアに対して愛国心から誹謗的な歌詞の演歌も歌い続けていたが、その「ラッパ節」の歌詞に興味を覚え、堺利彦を訪ね、社会主義並びに非戦論に目覚め、堺利彦から社会党のための「ラッパ節」を書くことを所望された。
 「名誉名誉とおだてられ 大切なせがれをむざむざと 包の餌食に誰がした 元のせがれにして返せ トコトットト」
 この社会党ラッパ節の誕生で啞蟬坊は、ここから党員、評議員としても活動する一方、本業の演歌師として底辺層の飢えや苦しみ、非戦、虐げられた女性の悲しみを次々と歌って、巷に啞蟬坊ありと、その歌声は底辺庶民の心をも掴むようになって言った。
 ここから大正12年関東大震災まで、彼の演歌活動は続いていったが、東京のいろは長屋、四畳半一間の48軒長屋に息子の知道と一緒に暮らしていた啞蟬坊は、この大地震によって2年ほど東北方地方を行脚し、東京に戻ると、群馬県の桐生に向かい、小高い丘の麓にあった竹次郎稲荷神社内に住み、松葉食を主に半仙生活を始めだす。
 「人生、充たされないほど苦しいことはない。金のない苦しさよりも、魂の充たされないのはさらに苦しい」
 これは竹次郎稲荷の社務所を「天龍居」と名付けそこで書き残した「天龍語録」の一つである。ここでの半仙生活を通して、啞蟬坊は「正相正體」思想を提唱し、人相、手相見、人生相談も行うなど、これまでの演歌師生活とは打って変わって、自身の内面探求に向かうようであった。が、ここでの生活は2年間で打ち切り、じっとしていることに耐えられなかったのか、そのあとは晩年なくなる近くまで三度の四国遍路、九州、中国地方への巡礼の旅を続け、彼の口から歌の出ることはなかった。

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 この啞蟬坊の生涯における大転換期の地、桐生で、次回の「添田唖蝉坊・知道を演歌する」を開催する。啞蟬坊と長男知道の残した演歌は二百数十曲に及び、約十年近くかけてその主だった70数曲を各二枚組三枚のCD「添田唖蝉坊・知道を演歌する」に収めてきた。演歌師啞蟬坊がさっと身を交わして歌をやめ遍路修行を続けたのと同じように、それまで歌も歌っていなかったパーカッショニストの私が急に啞蟬坊演歌に憑かれたように方向転換したのを未だ不思議がる人もいるが、このことは伴侶桃山晴衣添田知道の最後の弟子として知道氏のなくなるまで演歌を習い続けていて、その遺産を受け継いだからである。このことは先に書いた文章を参照していただきたい。
https://tsuchino-oto.hatenablog.com/entry/20130417/1366173859
 今回はいつもの三味線弾き語りでの演歌と語りに加え、二部では数十年前に立光学舎で音楽修行し、今は偶然にも地元桐生に住み神楽太鼓奏者として活躍している石坂亥士の太鼓の伴奏で、あの社会主義時代の啞蟬坊演歌の醍醐味をお伝えする予定である。