日米首脳のホワイトハウス二人芝居と「バトルフィールド』

「ジョン・F・ケネディー・センターでの「バトルフィールド」舞台」

彼(土取利行)は役者たちを物語へと導き、場面転換を彩る。この音楽家はまさに達人で、彼の豊かなリズムは音楽の域を超え、私たちを精神的な旅へと誘う。(ワシントン、ジョン・F・ケネディーセンターのピーターブルック「バトルフィールド」公演の評より

 

 2017年3月、9年前の春、ピーター・ブルック「バトルフィールド」アメリカ公演でワシントンのジョン・F・ケネディーセンターの舞台にたった。

 今日2026年3月20日、日本のT首相がワシントンのホワイトハウスでトランプと日米会談なるののを行なっているのをTVで見て、複雑な気持ちになった。

 イラン戦争によってホルムズ海峡が封鎖され、経済危機が深刻となっているが、アメリカと同盟国のEU各国は揃ってホルムズ海峡での軍事参加はしないと宣言。オマーンが仲介に入りアメリカとイランで核問題の交渉をしている最中に、イスラエル、米国によってテヘランが空爆され、最高指導者ハメネイ師とその家族が暗殺されるという、国家転覆を目論んだ侵略が行われた。これは完全に他国侵略の罪を問う国際法に違反する行為として世界からも大きな非難を浴びている。ところがEUとアメリカの同盟国となっている日本のT首相は、この戦争についてトランプに法的根拠も問わず、親日国であり続けたイランの自国防衛のためのホルムズ海峡での攻撃だけを批判するという、全く世界の意に反したホワイトハウス劇場での二人芝居に徹した場面を見てしまった。

 ピーター・ブルックの「バトルフィールド」は彼の超大作、9時間に及んだ「マハーバーラタ」の戦場の場面を役者4人と私の太鼓だけで作り上げ、語りを主軸にした演劇で、90分の短編劇であるが、18日間の戦争で国も人も全てを失い生き残った王の言葉、「勝利は敗北である」で始まる。

「ジョン・F・ケネディー・センター・フォー・パーフォーミングーミング・アート」

 

 劇場のジョン・F・ケネディーセンターは、あのニクソン大統領をアメリカで初めて断行、辞任に追いやった70年代のウォーターゲート事件https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォーターゲート事件の現場、ウォーターゲートビルからすぐのところにあり、ホテルからポトマック川の沿道を歩いて毎日劇場に通い、またホワイトハウスやス国会議事堂、スミソニアン博物館などが並ぶ公園通りには毎日のように歩いて行った。

「ウォーターゲートビル」

 昨日の日米二人芝居をみて、ジョン・F・ケネディーセンターのことを思い出して調べてみると、昨年、このセンターをケネディーセンターからからトランプセンターに名を変えるというまた権力欲まみれのこの男が現れていた。全く知らなかったが「2025年12月以降、米ワシントンのケネディセンターは、トランプ氏の意向を受けた新理事会により「トランプ・ケネディ・センター」への名称変更とロゴ変更が実施されました。トランプ氏が理事長に就任し、2026年2月からは約2年間の改修工事のため閉鎖が発表されています。」とあった。ケネディー家はもちろん許し難い行為だと訴えているし、芸術家たちもこの劇場への出演を拒否している。

 ここワシントンの劇場問題でもトランプは汚名に包まれるだろう。

 最後にこのケネディーセンターで上演された時の「バトルフィールド」のweb表が今も残っていたので参考に。

Peter Brook [Battle field] at wagshinton  Jhon F Kennedy Center  Critic 2017.3.31

https://dctheatrescene.com/2017/03/31/peter-brooks-vision-battlefield-stage-kennedy-center-review/

ミルフォード・グレイヴス音楽レクチャー「ドラム・スピリットとエネルギー」構成:土取利行

ユリイカ(1993年9月号)に掲載された、ミルフォード・グレイヴスの郡上市大和町でのレクチャー。この前日には土取利行とのパーカッションデュオ「宇宙律動」が同地で開催されました。

 

不運の4月

日本・イランの往復飛行、ヴィザトラブル、乗車時間よりトランジット待ち時間の方が長い頻度の乗り換え、エコノミー症候群、10時間のバス往復、「間展」本番での各会場不備、期待していたゾロアスタードームは結局女性音楽家の参加を拒否して実行できず。心身ともに疲れたままサマルカンドへ、風邪を移され濁声のまま帰国。やっとの思いで郡上について病院に行ったが、風邪かコロナかつかめず救急車で岐阜の病院に。肺炎の症状が出ていて血清と酸素吸入で一週間、一ヶ月の入院が必要と言われたが、奇跡的に4日で血清・酸素の管は外せ、エリック・マリア=クチュリエとのコンサートが控えていたため、リハビリを続け薬をもらい二週間で退院させてもらった。名古屋、京都、高松、海岸寺でのサヌカイトとチェロのコンサートは満身創痍から抜け出せないままの不思議な感覚で無事終えることができ、京都でのコンサートホールが「間」展の磯崎新さんの設計というのも奇遇だった。今後の旅はドクターストップ、「間」展続行は難しくなった。4月は演奏会で体を駆使したため5月はコンサートもせず、郡上で調子を取り戻すよう指示があり、今日庭に落ち着けるベンチを設け、新緑の山川を見ながら、エリック・マリアとの奇跡のコンサートCD化に向けて編集作業を進めながら過ごそうと思う。(石のテーブルの上にあるランプは、名古屋のVANKI、小島夫妻からのプレゼント)

 

「スキー歌」と唖蝉坊ラッパ節

 2022年の9月に新潟の上越市に住む大西旬氏から啞蟬坊のラッパ節についての問い合わせがあった。啞蟬坊の演歌、とりわけラッパ節は、北海道や九州の炭鉱夫や労働者の間でうたわれたり、各地の民謡に変化したり、さらには海を超えてブラジル移民の間でも隆盛を極めていたりと、レコードもラジオをも市民の手には持てなかった明治から大正時代に、これほどまでに庶民の間に拡散していった歌の力にはただただ驚かされるばかりであった。そのラッパ節が新潟でも替え歌として歌われてきており、私がラッパ節を歌っていることを知った大西氏から旋律や節について教えてほしいということで、その歌の詳細を送っていただいた。

 新潟のラッパ節は「スキー歌」という題名で、明治45年に高田日報という新聞社が広く一般から替え歌としての歌詞を募集して作ってもいた。同新聞には高田日報の記者であった磯野霊山の詞が掲載されており、替え歌として歌われた経緯などについても書かれていた。

「スキー歌・ラッパ節」磯野霊山(詞)添田唖蝉坊(曲)土取利行(歌・演奏)

www.youtube.com

 

 実は高田日報社があった新潟県上越市は日本のスキー発祥の地で、「スキー歌」の歌詞の作者・磯野霊山は、小川芋銭とも親しかった優れた日本画家でもあった。彼は佐賀出身で、東京美術学校卒業後、明治41(1908)年から大正11(1918)年までを『高田日報』の記者として上越市高田で暮らしていた。明治44(1911)年2月5日、高田第十三師団へ着任したオーストリアの帝国軍人のレルヒ少佐がスキーの実地指導を始め、連隊長や町の有志らと2月19日に高田スキークラブを発足、その主任委員として霊山は熱心にスキー練習の推奨にあたる一方で、新聞でもスキーの沿革・技術・効用などを書き、宣伝に余念がなかった。

明治44年、レルヒ少佐からスキーの指導を受ける高田歩兵第58連隊の青年将校たち

 翌45(1912)年1月21日、磯野が下準備に携わり上越市の金谷山で第一回スキー競技会が開かれたが、24日にはレルヒ少佐が高田を去り、北海道の旭川へ行く。しかし磯野はスキーの宣伝・普及に尽力し、同年2月10日には日本最初のスキー雑誌『スキー』第一号に大院君というペンネームで、日本最初のスキー競技会の報告文を発表。そして彼がスキー宣伝のために同15日付で発表したのがこの「スキー唄」だった。雪の溶けんばかりの情熱を持って、磯野霊山ほどスキーの宣伝に貢献した人は後世にもいないだろうと言われている。

レルヒ少佐と上越市のスキー発祥についての詳細はこちらから。

https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/japanese-ski-origination.html

ということで大野旬氏の一報から、私の唖蝉坊ラッパ節にまた一つ「スキー歌」が加わった。

 

 

渋谷界隈の変貌と思い出

 

 先日の「浜辺のサヌカイト」上映とトークの会場「晴れたら空に豆まいて」は渋谷に隣接した代官山にある。バブル前の渋谷、そして代官山界隈はフリージャズに没頭していた私にとって非常に思い出深いところだった。渋谷駅から徒歩数分の小さなビルの2階にメアリージェーンというほとんどフリージャズをかけていたジャズ喫茶があり、当時白金台東京新聞の配達員で恵比寿から渋谷方面を任されていた私は、配達が終わると毎日のようにそこに通っていた。そしてこのメアリージェーンから数キロ離れた線路沿いにマクロビオティックの開祖桜沢如一氏の伝導所とも言える正食レストラン「天味」があった。玄米菜食の店で、ここで料理の指導をしていたのが桜沢先生の最側近で活動していた小川みち先生。小川先生はベイシストのゲイリー・ピーコックがニューヨーク時代に悪化していた体を取り戻すために京都で暮らし、東京に来ると小川先生から指導を受けていた。またミルフォード・グレイヴスも完全菜食主義者で私と間章が招聘した初来日の1977年から日本に来るたびに小川先生の料理に舌鼓を打っていた。先生の話ではジョン・レノンもしばしばおとづれていたという小さな食堂だったが、バブルが始まりマクロビという言葉が踊り出し健康と美容のための自然食ブームが来ると店は移転してモダンになり、何年か後にはなくなってしまった。天味には食の哲学があり、小川先生の料理教室にも通っていた私が、やがて近くのメアリージェーンで近藤等則や高木元輝と演奏を始め出した頃には、玄米弁当をお土産に演奏を聴きにきてくれてもいた。この頃フランスから帰ってきた間章からEEUという即興演奏集団結成の呼びかけがあり、メンバーの近藤等則や高木元輝と近くにあった鶯谷の彼のアパートに通っては話し合っていた。小川先生はマクロビブームの流れから離れ、全国に一人で生食の教えを伝導していたが、その頃の先生の住まいは代官山の小さなアパートで、訪ねていくと玄米と胡麻塩、鉄火味噌などの基本料理で迎えてくれた。欲のない生活を貫き通した真の食養人だった、ここから近くにあった間章の家も質素なアパートで部屋は足の踏み場もないほど天井までぎっしりと本が積み重ねられていた。今でも覚えているのはその上の方に空海全集が積んであったことだ。彼はシュタイナーの思想にこそ言及するようになっていたが、故郷の良寛のことや仏教のことはあまり口にしなくて、フランスの近代思想やヨーロッパの思想を中心に独自のジャズ評論を繰り広げっていた。

 そして渋谷は近藤等則と上京して間もない頃、新宿のピットイン・ティールームと並行してプルチネラという、おそらく人形劇団ひとみ座のスペースだったと思うが、ここで時折演奏をしていた。またこの頃は出会っていなっかた桃山晴衣はジャンジャンというライブ空間で「古典と継承」シリーズを開催し、ゲストに井野川検校から演歌の添田知道氏まで多彩な明治の日本音楽伝承者をゲストに、高度成長で失われゆく伝統音楽のあり方を考え続けていた。そして同じく渋谷には寺山修司の主宰していた小劇場天井桟敷があり、ここが貸しホールになっていたのか、竹田賢一氏から頼まれて坂本龍一氏のピアノと私のパーカッションで、彼らが通っていたという新宿歌舞伎町のバー(?)のルビ新子というボーカリストが日本語で歌うブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」の伴奏をした。これが坂本くんとの初めての演奏でその後75年に日本を立つ前に竹田くんのプロデュースでできたのが「ディスアポイントメント・ハテルマ」である。さらに渡米後知己を得たミルフォード・グレイブスを77年に間章と招聘し、翌年78年に招聘したデレク・ベイリーとEEUで演奏した会場がパルコ劇場だった。堤清二氏によって文化に力を注いでいたセゾングループは池袋にスタジオ200というライブスペースを設けており、そこで桃山晴衣との初ジョイントコンサートをひらき、その後セゾンが渋谷のパルコ近くに作ったシードホールでは桃山との「竹久夢二」を秋山清氏のテキストで上演した。そしてバブル最盛期には銀座にセゾン劇場を作りブルックの金字塔「マハーバーラタ」世界ツアーの最終公演を実現させたが、今ではこれらの劇場はほとんどなくなってしまった。このように渋谷、代官山には数々の思い出が点在しているが、今回渋谷駅前から代官山界隈の変貌は、どこか私が70年代を過ごしたニューヨークのダウンタウンイーストヴィレッジの変貌と似ている。ブロードウエイを挟んでイースト、ウエストに分かれていたヴィレッジだが、とりわけ私の住んでいたイーストヴィレッジは当時のフリージャズやパンクロックのメッカともいえ、ロフトジャズと称していくつものスタジオやロフトが点在し、そこで毎日のようにミュージシャンが即興演奏を繰り広げていた。バブル期の後、再びニューヨークを訪れてみるとイーストヴィレッジ界隈はブロードウェイも含めて新しいビルが立ち並び、ブティックやレストラン街となってしまい。フリージャズのロフトはほぼ全滅し、パンクロック殿堂のCBGBも消えてしまった。その後アーティストがブルックリンへと移り住んだ者も少なくないが、そのブルックリンもやがて家賃が高騰しアーティストの居場所ではなくなっている。このNYの片隅の変動の後が現在の渋谷、恵比寿、代官山にひしめく高層ビルのビジネスライクのブティックやレストランの林立の姿とよく似ている。

 代官山「晴れたら空に豆まいて」での「浜辺のサヌカイト」上映会とトークは、この映画の撮影と編集を手掛けてくれた長岡参くんの呼びかけで参上することになったが、このアンダーグラウンドスペースにたどり着くまでに渋谷

界隈の無機質さをまざまざと見せつけられた思いがする。

空海生誕1250年「空海の母の里」特別企画スペシャルコンサート

ペルシャ音楽の夕べ』〜アジア西域・シルクロードの妙なる響き〜

イランからの初来日公演!!

出演

アリアクバー・ダダッシュザデー(ウード、タール・サントゥール

マーシャ・アジミ(セタール・ヴォーカル)

ハミッドレザ・サフィー(ケマンチェ)

 

左よりアリアクバー・ダダシュ・ザデー、マーシャ・アジミ、ハミッドレザ・サフィー

日時:2023年5月26日(金)18:30開演

会場:特別名勝栗林公園商工奨励館北館ホール

*開演前に栗林公園の散策をお楽しみください。

入場料:4000円(栗林公園入場料含む)

▪️予約はこちらのURLをアドレスバーに直接入力すれば予約フォームが表示されます。

検索機能を使うと表示されなくなります。

https://forms.gle/HBYoWMJMHzCK43kPA

 

香川県高松市栗林公園