「スキー歌」と唖蝉坊ラッパ節

 2022年の9月に新潟の上越市に住む大西旬氏から啞蟬坊のラッパ節についての問い合わせがあった。啞蟬坊の演歌、とりわけラッパ節は、北海道や九州の炭鉱夫や労働者の間でうたわれたり、各地の民謡に変化したり、さらには海を超えてブラジル移民の間でも隆盛を極めていたりと、レコードもラジオをも市民の手には持てなかった明治から大正時代に、これほどまでに庶民の間に拡散していった歌の力にはただただ驚かされるばかりであった。そのラッパ節が新潟でも替え歌として歌われてきており、私がラッパ節を歌っていることを知った大西氏から旋律や節について教えてほしいということで、その歌の詳細を送っていただいた。

 新潟のラッパ節は「スキー歌」という題名で、明治45年に高田日報という新聞社が広く一般から替え歌としての歌詞を募集して作ってもいた。同新聞には高田日報の記者であった磯野霊山の詞が掲載されており、替え歌として歌われた経緯などについても書かれていた。

「スキー歌・ラッパ節」磯野霊山(詞)添田唖蝉坊(曲)土取利行(歌・演奏)

 実は高田日報社があった新潟県上越市は日本のスキー発祥の地で、「スキー歌」の歌詞の作者・磯野霊山は、小川芋銭とも親しかった優れた日本画家でもあった。彼は佐賀出身で、東京美術学校卒業後、明治41(1908)年から大正11(1918)年までを『高田日報』の記者として上越市高田で暮らしていた。明治44(1911)年2月5日、高田第十三師団へ着任したオーストリアの帝国軍人のレルヒ少佐がスキーの実地指導を始め、連隊長や町の有志らと2月19日に高田スキークラブを発足、その主任委員として霊山は熱心にスキー練習の推奨にあたる一方で、新聞でもスキーの沿革・技術・効用などを書き、宣伝に余念がなかった。

明治44年、レルヒ少佐からスキーの指導を受ける高田歩兵第58連隊の青年将校たち

 翌45(1912)年1月21日、磯野が下準備に携わり上越市の金谷山で第一回スキー競技会が開かれたが、24日にはレルヒ少佐が高田を去り、北海道の旭川へ行く。しかし磯野はスキーの宣伝・普及に尽力し、同年2月10日には日本最初のスキー雑誌『スキー』第一号に大院君というペンネームで、日本最初のスキー競技会の報告文を発表。そして彼がスキー宣伝のために同15日付で発表したのがこの「スキー唄」だった。雪の溶けんばかりの情熱を持って、磯野霊山ほどスキーの宣伝に貢献した人は後世にもいないだろうと言われている。

レルヒ少佐と上越市のスキー発祥についての詳細はこちらから。

https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/japanese-ski-origination.html

ということで大野旬氏の一報から、私の唖蝉坊ラッパ節にまた一つ「スキー歌」が加わった。