「炎夏」の「演歌」/ 郡上・立光学舎での「うた塾」とコンサート

 今夏8月10(金)11(土)12(日)の三日間、立光学舎においてワークショップ「うた塾」を開催した。「うた塾」はかつて桃山晴衣が、立光学舎や東京のシアターXなどで、日本のうたを教えるために設けたワークショップで、最初は役者を目指す若者に基礎的な身体運動、発声等を教えようとしたのだが、あまりに声の出し方がおかしくなってしまっているのと、きちんと日本語を喋ること自体ができなくなってしまっているのに驚かされ、その後うたうことを通して、本来の自然な日本人の発声や日本語を学んでもらおうと取り組んで来たという経過がある。

<うた塾参加者と唖蝉坊の「ラッパ節」を唄う> 
 桃山はよく「私には唄えるうたがない」と、現在巷に日替わりメニューのように次々と消費されていく流行歌について語っていた。60年代、70年代、80年代とロックやフォーク、Jポップとよばれるいわゆる米国産流行歌をコカコーラやハンバーグとともに供給され、当時の若者がまさに時代の潮流に乗り遅れまいと我も我もとギターやエレキ、はてはシンセサイザーと電気楽器に囲まれて現在にいたる中、桃山はそれまで東京界隈に鳴り響いていた三味線とうた声が次々と生活の中から消えて行くのを目の当たりにし、このままでは日本のうたは壊滅してしまうと、邦楽界から独り飛び出し、同時代の若者たちに様々な働きかけをしていった。この頃の桃山晴衣の活動についてはこのブログの「桃山晴衣の音の足跡」で述べているので参照していただくとして、これを機に彼女はこれまでの古典や邦楽を基に、現代の若者にも響き合える独自の唄を作って唄い語る様になり、「婉という女」のような長編現代語かたりや「梁塵秘抄」のような短い唄をオリジナル作品とし、世に問うていった。そして桃山が最も意識していたのが、生活、しかも庶民の生活から生まれでる流行歌(はやりうた)の存在だった。そして近代流行歌の源流ともいえる明治大正演歌を、それまでご意見番としてお付き合いいただいていた添田知道師から直接学ぼうと晩年の知道師宅で半内弟子生活を続けた。添田知道師はいうまでもなく演歌の元祖といわれる添田唖蝉坊の長男で、自らもラメチャンタラ・ギッチョンちョンでパインッパイのパイで知られる「東京節」や「復興節」など数々の演歌を作詞・作曲し、演歌師としても全国を廻っていたが、知道師は演歌研究家の野沢あぐむ氏が「一人で四役役割を果たした」というように、作者、演者、継承者、史家の役割を一人でやってのけてしまった才人である。作者としては「演歌師の生活」「てきやの生活」「日本春歌考」「演歌の明治大正史」「ノンキ節ものがたり」「冬扇簿」「春歌拾遺考」そして明治に始まった日本の教育問題を実際のルポルタージュを基にして書いた長編小説「教育者」等々、すべては経験知にもとづいたユニークな作品を残している。演者とは、自らも演歌師として活動してきたということ。継承者とは父・唖蝉坊の演歌を作詞・作曲家として発展継承させたということ。そして史家とは、先の「演歌の明治大正史」という演歌つまり近代日本の流行歌の歴史を詳しく記したことと、さらに重要なのは1967年に監修者として全曲を吟味しまとめた「うたと音でつづる明治・大正」のLPの制作をしたことである。こうした知道師の文才によって唖蝉坊の演歌の仕事はさらに理解が深められ、一般はもとより知識人にも理解されるようになったことはとても重要なことである。ということで、桃山が知道師から演歌を学んだということは、単にうたを学んだだけでなく、このような近代流行歌の歴史を具体的に学んだということでもあった。そして彼女にとって大きな体験となったのは知道師の紹介で荒畑寒村の「寒村会」に行くようになり、寒村氏や堺利彦の娘、近藤真柄さんたちと会をともにし、そこで演歌をうたったことだった。ここで桃山は演歌とともに歩んで来た明治人の前でうたい、演歌の本質をつかみ取っていった。知道師は桃山と出会ったときから、彼女を「カイブツ」と呼んでいたが、まさに古曲宮薗節の内弟子を終えた彼女が演歌師の門を叩くというのは考えられないことで、邦楽にもうるさかった知道師にとっては本格的なうたを収めた桃山晴衣のうたう演歌に大きな期待と興味を寄せていたにちがいない。そして唄だけではなく彼女の文才にも目をつけていた知道師は自分の著作を次々と桃山に渡している。中でも500部限定版の「唖蝉坊漂流記」は、知道師が所有していた本で001番の印と知道師の誤字訂正の赤文字が書かれている貴重な本である。桃山はこうして実際の当事者から演歌の本質を学んだことで、自分の音楽家としての姿勢をより真剣に考えるようになったものと私は思っている。
 桃山晴衣は実際の声を聞くことのできた明治大正の流行歌、演歌を学び、唄うと同時に、「梁塵秘抄」との出会いで中世の流行歌にさらなる興味を寄せ、当時の女性、遊女(あそび)が唄っていたというこの今様歌を、現代に響き合える歌にしてゆく作業を続けていった。そしてこの二つの流行歌の背後にあるものが、庶民の唄い続けて来た俚謡や生活の一コマ一コマで唄われて来た作業歌、子守唄、わらべ唄であることから、これらの歌を実際に自分で調査し、唄うということも手掛け、特にわらべうたは亡くなるまで、子供がわらべうたを唄えるようにと、母子に教え続けていた。
 今回の「うた塾」は、このような桃山の仕事を再確認していくうちに、このままにしておいてはならないという思いから再起したもので、これまでは春か秋に開催していたのだが、今回は郡上踊りへの参加も意図して8月となった。土取利行のワークショップはパーカッション、演劇、ダンス関係者がこぞって参加するのが常だったが、「うた塾」では徹底して桃山が追求してきた唄を中心にとりあげ、私自らが唄って教えるという初めての試みでもあり、参加者が揃うかどうかもわからなかった。しかも、誰もがこの言葉を聴くと首をかしげたがる「演歌」を中心にしてワークショップなのだから。また併せて立光学舎で私自身が「演歌」を唄って公演するというプログラムも加えた。


<土取利行:明治大正演歌コンサート@立光学舎>
 お盆前と「演歌」というプログラムで参加者が来るかどうか、?だったが、コンサート同様、地元の方以上に韓国やフランス、全国各地から異なる職能の人たちが理想的な形で集まってくれた。桃山に以前から習っていたという数人を除いて参加者は「演歌」に触れ、自ら声を出して初めてそれを唄う人も少なくなく、さらに全員で唄った郡上の俚謡では、「うたう」という本来の共同体験も味わえたに違いない。また添田唖蝉坊添田知道という人物についての説明を聴き、彼らが残した演歌の数々を自らうたうことで、「演歌」というもののこれまでのイメージを払拭されたことと思う。三日間のワークショップでは昼、夜の食事を、桃山がいた頃から手伝ってくれていた菅野、仙谷両女子が完璧なまでに作ってくれたため、参加者はこの料理にも満足してくれたし、夜の郡上踊り、吉田川での沐浴(?)にも感動していた。なお前日まで続いていた雨もワークショップ期間中は止まり、まさに「炎夏」の「演歌」塾となったのである。コンサートはワークショップ終日の午後から開催。「うた塾」の前日から立光学舎に宿泊し、ワークショップ中は誰に云われたのか、ずっと正座を続け、何度もしびれをきらしていた岡大介君と、ネーネーズ知名定男さんと家にも見え、かつてスパイラルアームという私の打楽器集団で演奏もしてくれたベース奏者の山脇正治氏が参加し、蝉時雨を背景に私が郡上のうたや演歌を次々に披露。岡君の東京節や復興節ではミニドラムセットで伴奏、一気に会場はヒートアップした。午後三時過ぎからのコンサートはさすがに暑かった。会場にはクーラーも扇風機もなかったが、ときおり外から入り込んでくる微風が心地よく、沖縄かどこか南の島でのコンサートのような錯覚すら生じた。お盆を前にしたこの「演歌」のコンサート、観客と一緒に桃山や知道師、唖蝉坊師の霊も暖かく未熟な私の演歌に耳を傾けてくれていたことと一人願っている。