「唖蝉坊」と「堺利彦」/東京吉祥寺Sound Caffe Dzumi

 サウンド・カフェ・ズミでの二度目の明治大正演歌を唄い・語る会。今回の選曲は唖蝉坊のラッパ節から沖縄の与論島に伝播し、さらに変奏されて多くの者に唄われている「十九の春」。

江戸末期から明治初期にかけて中国から伝播された明清楽の「紗窓」を桃山晴衣と私が歌詞を新たに作り唄った「郡上の四季」。

 そしてイントロではそれこそ日本人の多くが口ずさんで来た「船頭小唄」を。といってもこの唄、今でこそ誰もが唄える「うた」となっているが、この唄が発表されたその年か翌年に関東大震災が起こり、この唄は国民の意気を喪失させ、国力低下を招くと発禁になる。が、お国の意志に反し衆の心の中ではこのうたは耐えること無く唄われ続けてきた。そして反骨・唖蝉坊は発禁とされていたこの唄をさらに歌詞を変え、「貧乏小唄」「オンボウ小唄」として発表し、唄った。云うまでもなくさらなる発禁であった。私が今回唄ったのはこの「オンボウ小唄」。今ではこの「オンボウ」という言葉自体が発禁句になっているのかどうか、意味も分からない人がほとんどであろう。「オンボウ」は「隠亡」と書き、人の遺骸を焼く職人の名である。唖蝉坊は「船頭小唄」で唄われている船頭という職業よりもさらに下層とみなされていた当時の最底辺の人々の心をこの「オンボウ小唄」に表したのである。今、市場に出ているレコードやCDではこの種の唄は聴くことが出来ないだろうし、こうした唖蝉坊節の多くが知られずに埋もれ去ろうとしている。こうした曲の一つに「社会党ラッパ節」があり、「新四季の唄」がある。

 今回はこの「新ラッパ節」も披露し、このオリジナルのラッパ節が「十九の春」にまで変化して行く様は先に述べた。一つの根からこうした異なる唄が異なるメッセージを伝えてゆくのも唖蝉坊節の特性といえよう。

 また今回は「十九の春」にからめて桃山晴衣が唯一沖縄調の旋律で作曲・作詞した「うりずん琉球」も最後に披露したが、この沖縄モードに合わせるように、かつて私の「スパイラル・アーム」そして桃山のバンドでもベースや三線を弾いてくれた山脇正治氏が三線片手に訪ねてくれたので一曲手合わせしてもらった。山脇氏は知名定男さんが結成したネーネーズで長くベースギターを弾いていて、そのため沖縄三線も上手い。実はこの九月、「土取利行・添田唖蝉坊・知道を演歌する」の岡山西大寺コンサートでは山脇氏とカンカラ三線演歌歌手の岡大介くんを招いて、三番叟ならぬ三線奏演歌を披露しようと考えていて、今夏の「うた塾・ワークショップ」でもこの二人に来てもらい演奏する予定である。

<三線を奏する山脇正治氏とサウンド・カフェ・ズミで>
 今回も色々な話をしたが、桃山晴衣添田知道師から社会主義者堺利彦の娘である近藤真柄さんを紹介され、そこで演歌を唄ったり、荒畑寒村の会に幾度か出席している関係から、いただいた書物も幾冊かあり、その中でも特別なのが「豊多摩と巣鴨・二度目の巣鴨」という堺利彦が獄中の思いを自筆で綴った限定本。これを今回は持参し、堺利彦の筆跡に皆が感嘆した。

<堺利彦の一句/放屁だけは自由の権>
この本は荒畑寒村氏が序文を寄せ、巻末文を添田知道師と近藤真柄さん、平岩厳さんが書いている。ここでは本になった由来を真柄さんが記しているので紹介しておこう。
 「この『二度目の巣鴨』(明治四十一年赤旗事件)と『豊多摩事件』(大正十四年第一次共産党事件)は、父の晩酌のあとの気分のゆったりした時でしょう。真柄に遺産をやろうかなといって書いてくれたものです。昭和二、三年頃麹町町八ノ二四の家で、でした。それから十五年以上経ているわけで、その間いろいろのことがありましたが、私の手元に残りました。
 父の故郷に(福岡県京都郡豊津村)堺利彦顕彰会が多くの方々の御厚意御奔走で生まれ、記念碑がたち、生誕百年には記念館を建てて下さいました。一昨年そこに納める古いものを探している時に、この二冊が平岩厳、添田知道の両氏の目に止まりました。今年になって歌も入っているけれど、この句帳の複製をしてみたい気が捨てられないという申し出を受けました。多くのお金がかかることですし、そう売れるものとも思えないので、遠慮申し上げたのですが、『友情ですよ』といってくださったので、グッと胸がつまり、御厚意に甘えました。序文をお書き下さった荒畑寒村様、万事お骨折り下さった添田さん、平岩さんにお礼申し上げます。印刷の望月憲社長にもお世話になりありがたく存じます」昭和五十四年四月   近藤真柄
 また添田知道師の後書きには三点あった短冊のことが記されており、その一つの短冊の句にこういうのがある。
 「菊の国 桜の国 地震の国 火山の国」これは随筆集の題名にもなっている句だそうで、知道師はこの国は「どうやら爆発を逃れられないらしい」と結んでいる。
唖蝉坊の演歌しかり、堺利彦のこの句帳に記されたことばの重み。いましばし私は桃山晴衣の意志を受け継ぎ「邦楽番外地」巡礼の旅を続けなければならないようだ。