神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」によせて (四)「土取利行・語りと弾き唄い〜唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの〜」
2013年3月2日から4月14日まで、神奈川近代文学館で開催された「添田唖蝉坊・知道展〜明治・大正のストリート・シンガー」の記念イベントとして4月6日に「土取利行・語りと弾き唄い〜唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの〜」が開催された。この特別な会に出演することになったことには、いまだ自分でも不思議な気がしている。何度も書いているように、これは桃山晴衣が添田知道氏から二十年間にわたって学んできた「演歌」について、彼女が遺していた添田知道氏や唖蝉坊の著書や、知道氏の肉声を含む音源を整理し、あらためて熟読、塾聴していくうちに、「演歌」の重要性を再認識し、彼女のもう一つの声であった遺された三味線の音を絶やしたくないと思いつつ始めだしたのが発端であった。
この画期的な文学展を可能にしたのは、1985年に添田知道氏の甥、入方宏氏が管理していた添田唖蝉坊・知道の資料を神奈川近代文学館に寄贈していたことによるもので、それらの遺品や資料をもとに収蔵コレクション展として発表されたのである。この収蔵品のなかには知道氏へ宛てた桃山晴衣の手紙が12通と知道氏主宰の雑誌「素面」への原稿なども入っており、生前桃山とここに伺おうと云っていたのだが、残念ながら彼女は文学館に足を運ぶことなく昇天してしまった。今回、精力的にこの展覧会の企画・構成に携わったのは近代文学館の中村敦氏で、私が「邦楽番外地」と題して唖蝉坊・知道演歌を語り、唄っているということをどこで聞き知ったのか、京都の若者が集うDJ倶楽部での公演にまで足を運んで頂き、そこで今回の出演依頼を受けた次第である。
今回の公演は一時間半の中で、添田唖蝉坊と知道氏のうたを唄い、話をしなければならず、どうしても持ち時間が足りない感じなので、あらかじめラフな構成を作っておいた。ところが、いざやってみると予定時間がきても知道氏の話や唄にまで行き着かず、主催者側が時間オーバーを認めてくれ結局三時間の延長公演になってしまった。
プログラムでは唖蝉坊と知道氏の生きた時代を、二人と関わった人物を織り交ぜ、唄とともに紹介したいと思っていた。中でも私が最も重要と考えた人が、唖蝉坊婦人で知道氏の母親の添田タケの存在だった。知道氏の書かれた『母の思いで』や唖蝉坊の『唖蝉坊流生記』の中で紹介されている、彼女が遺した唯一の句がある。
<添田タケ>
「砂を捲く 風さみだれと なりけり」
という句であるが、この句に節をつけ三味線で唄うことから始め、この句についての解説を知道氏の文章で説明した。
「現今の都会はどこもコンクリートの蓋をされて土をみられない。煉瓦道とかなんとか部分的な舗装はあっても、概ねの地面は土でした。その土が日照りに渇いて、土埃りが舞う。旋風が地をころがるように見えることがよくあったものです。小さなその嘱目吟が予報的にもなっている。予感句でもある。この予感が情景描写に止まらず社会的にも通じますね。日露の風雲という怪気象が招いたスモッグ状況の中におかれている私でありあなたたちであるという、すごい句だと思いますね」
タケがこの句を詠んだのは唖蝉坊の名を一躍有名にした「ラッパ節」が誕生する頃、壮士演歌の梁山泊といわれた青年倶楽部を解散し、独立して演歌師を続ける彼のもとに志願者が集まりだし、タケの寝ている枕元で皆が句を詠み始め、彼女も寝ながら読んだと云う句。知道氏の云う「予感句」「日露の風雲という怪奇象」そしてこれらのスモッグ状況の中で方向を見失ってしまっている日本国民。日露戦争の足音をタケは聴いていたのである。
その頃流行った「ラッパ節」の由来、その誕生譚。そして堺利彦との出会いで生まれた「社会党ラッパ節」。自由民権思想を声高に唄っていた唖蝉坊がここから社会主義のメッセンジャーとして社会主義を啓蒙し、底辺庶民、労働者の声を代弁すべく唄い続ける。この時期、一年間で作った唄が今の若者達、フォーク、ロック世代を引きつける「あきらめ節」「ああわからない」「ああ金の世」「四季の歌2・女工哀史」等々。(すべて唄う)。
そして絶頂期と思われた唖蝉坊に突然の悲劇が。翌年からの二三年間、唖蝉坊は唄を作れず唄えず、低迷状態に陥る。それとは対照的に神長瞭月がバイオリンで「スカラーソング」や「ハイカラソング」を持って一世風靡、世は書生演歌の時代と成り代わる。唖蝉坊の悲劇とは、29歳の若さで妻タケが産後の日立ち悪く、他界したことだ。
このときの様子を知道氏は先の『母の思い出』で述べている。知道氏はおばさんのうちに預けられ大磯小学校に通っていた。タケは妊娠し、そのおばのうちで出産をとでかけたのだが、旧式な考えの叔母と生活がうまくいかず、結局、横浜の姉の家で二人目の子供、知道氏の妹を産む。このとき唖蝉坊も帰ってくるが、いわゆる産後のひだちがわるく、そこで亡くなってしまうのである。知道氏は、その時の様子を子供ながらに見ていた。「ともかく七十日間看病したということ、いよいよ亡くなられて、それまでは借金の言い訳が出来るようになれば主婦も及第だなどと冗談を言っていた父が、主婦が家を支える為の陰の働きがどんなものかもだんだんわかってきたでしょう。それで死なれて大変なショックになるわけです。・・相手の持っていた中身なり新価とかいうようなものが判るということが、失って初めて判る。大変な打撃だった」と。
添田タケは唖蝉坊に最後に「こんなにお世話になって」と云って逝く。そして唖蝉坊は煩悶する。
「さらでだに弱い妻は、肉体をすり減らしていたのだ。無惨にも私は窮乏の中にいた。妻は色々な嵐の中をくぐってきた。その中で尚勉強をしていた。英語をはじめてもいた。妻は死んだ。・・己が殺したのか、・・社会が殺したのか。・・そればかりが私の頭の中をめぐっていた。」このとき一応葬儀はしたもののさっと仕事をすますように親戚一同も引き上げたという。そんな中、堺利彦婦人の為さんが弔文にそえて五十銭の為替を送ってくれたそうだ、知らせてもいなかった婦人から、妻への特別の心を寄せられた手紙で嬉しかったと唖蝉坊は記している。彼は知道氏の「早く帰って来てね」という声がしみ横浜に留まろうかと、思い悩んだが東京に一人出て行く。
この頃唖蝉坊は演歌をやるような気持ちになれなかったといっているが、そんな彼を元気づけ誘ったのが長尾吟月氏で、浅草の十二階下を流し「金色夜叉」うたっていたという。また唖蝉坊は仲間から散乱している演歌者を統合し、「東京青年倶楽部」を作ったものの、かつがれただけで何もできない放心状態だったともいう。
妻タケの病気と死。そして同年、社会的には堺利彦の盟友、幸徳秋水が大逆事件に巻き込まれ、44年の1月に処刑されたのである。
もう唖蝉坊演歌はこれで終わるのか。しかし彼の中にうたの光が射し込み始めたのである。唖蝉坊は唄で逆境を乗り越えたのだ。
「私は『新流行歌』が新しい意味と内容を持つことに興味を感じて、遂にその中に投じたのであったが、当初それは政治運動の具であった。やがて「具」であるだけでは私には満足出来なくなった。単に悲憤慷慨風刺嘲罵を怒鳴るだけでは慊(あきた)らなくなってきた。それはあまりに上辷りであった。ほんとうに心から「うたって」みたくなった。人間の心をうたい、民衆の、私達の、生活にもぴったりと触れて行きたかった。そして又、歌を真の「歌」の道に引き戻したかった。過去の演歌はあまりに壮士的概念むき出しの「放声」に過ぎなかった。いうならば、芸術的良心といったようなものが、私の体内を這い回るようになっていた。その願いの現れが、むらさき節となった。このむらさき節に於いて、ようやく完全に近い宿望の発現を得た私は愉しかった。ようやく演歌に打ち込める気持ちとなった」
この特別なうた「むらさき節」をここで唄う。明治時代がこれで終わり、大正時代が続く中、変わらず戦争に明け暮れる日本だったが、唖蝉坊は立て続けに演歌を作り、唄い続け、やがて「東京節」でデビューした知道氏も数多くの作品を発表するに至るが、大正12年の大震災を契機に、復興で様変わりした都市にラジオ放送局が出来、レコード会社が設立され、歌詞を売って唄をうたってきたヨミウリスタイルの演歌師の職場から人が段々と離れて行き、人から人への唄の直接的な伝わり方が希薄になり、機械に依る音楽の間接的な伝え方が一般に拡がってゆく。大正14年、唖蝉坊は明けても暮れても戦争と成金ばかりが楽をする社会に嫌気がさしたかのごとく、阿呆陀羅経のような長い「金かね節」を遺して演歌の世界から去っていく。
それは知道氏もしかりで彼は作家への道を邁進して行き、大正時代が終わると演歌師は流しの歌い手となって、やがて歌謡曲、艶歌の世界へと変容していってしまう。
「砂を捲く 風さみだれと なりけり」とタケが読んだ一句。
スモッグ状況の中で日本国民は道を誤らなかったのだろうか。今、そのスモッグは消えてしまったのだろうか。あのスモッグのなかで唄い続け、声を失くし、再び歌に命を見いだし、そして社会によって生きた歌を奪われた、唖蝉坊の演歌人生。晩年、四国遍路の旅を続け、「私がもし仏道に帰依するようにならなかったとしたら、世界を見るの明を失い、国土経営の天業に翼賛し得る後裔に浴しおくれしやもはかられぬ。仏の道にも沿い、子孫に伝えてやましからざる人生を味わい、歓喜に生きようと思う」と『流生記』を結んでいる唖蝉坊。
今回の公演では、添田親子の生き様を年代毎に歌とともに振返ることによって彼らの心の内を垣間見ることができ、彼らの歌に対する真摯な姿勢を一層理解することが出来た。そしてそれは桃山晴衣が持ち続けてきた歌に対する姿勢と深く結びついていることも。
■関連記事「Real Tokyo編集長、小崎哲哉氏コラム「唖蝉坊と土取利行」