岩手県宮古市被災地、鳥取春陽の故郷と黒森神楽

  先週、岩手県宮古市に出かけた。以前、大野一雄さんとの「小栗判官・照手姫」の仕事で制作をしてもらった魁文舎が、震災の支援活動の一環として、この地でアーティストと被災地の方々が交流できるイベントを何度か続けて来られ、添田唖蝉坊・知道演歌のうたを被災地の方に唄ってもらえないかという呼びかけがあっての旅立ちとなった。
 盛岡駅で東京から来たカンカラ・シンガーの岡大介君と合流し、車で宮古市へ。まだ山頂に残雪のみえる山を幾つか越えて、まず到着したのは新里の生涯学習センター内に設けられた鳥取春陽展示ホール。

鳥取春陽>
 またまた奇縁といおうか、今回は唖蝉坊演歌をということで引き受けたのだが、魁文舎から鳥取春陽という方はご存知ですかという連絡があり、実は宮古市鳥取春陽の生まれ故郷だったのだ。
 鳥取春陽は岩手県宮古市新里村で、1900年12月16日に生まれている。2歳の時に母と死別、父は戦争で死別、幼時期を叔父に育てられた。小学校では学力優秀、ハーモニカやマンドリンを演奏するハイカラ少年だった。11歳の時に戦争景気で製糸工場を営んでいた鳥取家が没落。いわゆる中学を中退して、上京する。東京で様々な職につき、転々とし、17歳のときに木賃宿の演歌師と出会ったことで添田唖蝉坊を知り、演歌組合に入り、演歌活動を始める。この時、添田知道氏が彼の為に書いた「みどり節」が初の作曲作品となる。

20歳の時に一時帰京するも直ぐに上京し、石田一松らと活動をし、1922年、22歳で書いた「籠の鳥」が爆発的に流行。翌年、大正12年関東大震災で被害にあい、大阪へ移動。26歳の時、大阪のオリエントレコードと契約し、初の専属歌手となる。作曲家としてだけでなく、歌手としても活躍し、新民謡やジャズなども多く吹き込む。29歳で山田貞子と結婚するも、肺結核にたたられ大阪住吉にて32歳の若さで死去。壮士演歌、書生演歌から昭和歌謡への流れの中、自らをうたの変遷と共に没した夭折の音楽家である。
 添田知道氏は大阪で絶頂期を築いていた春陽との思い出を次のように書いている。
 「鳥取春陽は大阪でレコード会社の引っ張り凧になり、専属制の走りをつとめるなどあって、大いに気を吐いていた。さつき生(添田知道氏のこと)が京阪に遊んだとき、途上でばったり会ったことから「思い出した」の戯作でたのしんだりもしたが、まさに鳥取は得意の絶頂にいた。カフェへよく案内されたが、そのもてることには「だあ」となるものがあった。相変わらず酒にひたって、不摂生をきわめた」。

 添田唖蝉坊、知道氏と繋がりを持つ春陽の里、唖蝉坊や知道氏に関しては先日「唖蝉坊・知道展」が開かれた神奈川近代文学館に彼らの遺品が収納保存されてはいるものの、「唖蝉坊・知道」館なるものがあるわけでなくとても残念であるが、ここ宮古市は新里の生涯学習センター内、かつての中学校であろうか、校舎の一教室を用いた春陽展示室が設けられていて、彼の使っていたオルガンや蓄音機、また吹き込んだレコード盤や楽譜、その他の遺品が多く展示されていて興味深い。

<春陽の使っていたオルガンや蓄音機>
またここから車で20分ほどの刈谷村には今も春陽の生家が残っており、宮古について早々、この二カ所をまず訪ねた。そしてたまたまここを訪問する前にYOUTUBEで「鳥取春陽生誕100周年記念」のドキュメントを見ることが出来、そこで春陽のうたを今も唄い続けている婦人会の存在を知ったので、この会の方にお会いしたくて連絡を取って頂き、運よくその会のリーダーを努めておられた方のお宅にも訪問することができた。

鳥取春陽物語>
 ドキュメントの映像はすでに10 年前のもので、春陽のコーラス隊会長を務めておられたこの家の婦人、中野さんも高齢に達していて、コーラス隊は解散せざるをえなくなったという。しばし春陽のうたとも遠ざかっていたのか、お家に伺い、岡君がカンカラ三線で「籠の鳥」をうたうや、落涙し、喜んでくださった。翌日の支援コンサートでは「鳥取春陽」の唄を中心に唄いますのでよろしければおいで下さいと、ご挨拶をして別れ、一路宮古市街地の演奏会場、そしてもう一つの会場、田老(たろう)にあるグリーンピアへ。
 翌日は正午前から田老のグリーンピア内宴会場に仮設住宅に今も暮らしておられる人たちを招いての演奏会、田老は津波の被害が大きく今もこのグリーンピア敷地内に仮設住宅が儲けられ大勢の人が暮らしておられる。お婆さん達は一時間も前から会場ロビーに集まって雑談をしていて、やがて80名ほどの人たちが会場に集まった。鳥取春陽と唖蝉坊・知道演歌を唄うのだが、第一声はなぜか郡上節「川崎」がでてしまった。「雨も降らぬに、袖しぼる・・」郡上一揆の犠牲になった人を偲んでのこのうたが、被災者の人たちと重なってみえたからだ。そのあとは、さすがに宮古である。「籠の鳥」を皆でうたい、春陽の唄を、そして唖蝉坊演歌をと、みんな熱心に耳を傾けてくれた。そして少し早めに切り上げて食事のテーブルに全員移動した後は、岡君が持ち前の明るさで、歌謡曲のリクエストを唄うという特別プログラム。こうして一緒に唄ったり食べたりすることは、仮設住宅内でもあまりというか、ほとんどないのであろうか、皆嬉しそうだったが、後のことを思うと淋しい気もしてならない。

グリーンピア仮設住宅の人たちに唄う岡大介と土取利行>
 午後からは宮古市街地の商店街にある集会場リアス亭での会。ここは仮設住宅の人たちだけではなく、支援にかかわる人たちも含めた聴衆が集まってくれた。そしてその中に昨日お会いした鳥取春陽コーラス隊の会長中野さんが、病を押して、会の婦人達を誘って見えてくれた。始めはもちろん春陽の「籠の鳥」、婦人コーラス隊に唄ってもらった。その後しっとりと私が「すたれもの」「みどり節」を、岡君が「思い出した」他明るい春陽節を唄い、唖蝉坊・知道節を。こうして唄ってみると春陽の唄がまだここには生きているということを思い知らされる。若者が少ないが、彼らがいまここに集まっている人たちの高齢に達した時、こうして共に唄えるうたがあるのかどうか、大いに考えさせられる会であった。

<病身を押して駆けつけてくれた鳥取春陽コーラス隊会長の中野さん>
 この夜はたまたまなのか、黒森神楽の人たちが近くで宴席を持っており、そこに招待されることにもなった。そもそも宮古との縁は、魁文舎が黒森神楽のニューヨーク公演を制作担当したことにあるときいたが、震災後、早池峰神楽や遠野の神楽の影に隠れていたこの黒森神楽の存在が被災地だったということもありクローズアップされてきたのである。
 黒森神楽の特徴は「巡行」と称し、冬から春にかけて陸中沿岸集落を歩き、各家の庭先で、黒森神社の神霊を移した権現様と呼ばれる獅子頭の舞を舞って悪魔払い、火伏せの祈祷をおこない、夜は宿先の座敷に幕を張り、五穀豊穣、大漁成就、天下太平などを祈る舞で人々を祝福する。このような広範囲の巡行を行う神楽は全国的にも珍しく、平成18年に国の重要無形文化財に指定されている。
 宴席では雑談を交えながら色々な話をしたが、各自が普段は別々の仕事を持ちながら、神楽の灯を絶やしてはならないと誇りをもって続けており、その熱意がひしひしと会話の節々から伝わってくる。途中、全員で唄ってくれた変拍子の「祝い唄」は何とも心地よい声と手拍子だろうか。仮面をつけて舞う神楽の演目は40に及ぶというこの宮古の豊かな民俗芸能を一度現地でじっくり観たいものである。震災後、絆と云う言葉があちこちで聞かれるようになったが、彼らのような芸能者をみていると絆以上のもので固く結ばれていることがよく分かる。春陽と黒森神楽、それぞれ異なる芸能ではあるが、共に宮古の地から誕生した素晴らしい文化遺産であり、伝統である。そしてそれらを伝えているのは素晴らしい人たちだということが今回の旅でよくわかった。