再開!土取利行「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を演歌する」


まずは演奏会予定のお知らせから。
土取利行「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を演歌する」
金沢公演
日時:7月8日(月)開場/午後7:00 開演/午後7:30
会場:「茶房犀せい」予約問い合わせ076-232-3210
前売り:3500円 当日:4000円(ワンドリンク付)
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富山公演
日時:7月9日(火)開場/ 午後7:00 開演/ 午後7:30
会場:New Port 予約問い合わせ090-8263-0827
前売り3000円 当日3500円(ワンドリンク付)
詳細はこちら

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 明けて7月、今年もはや半年が過ぎ去った。なんとも季節の巡りが早い。昨年暮れから寒中録音で作ったCD「土取利行・添田唖蝉坊・知道を演歌する」が5月にリリース。偶然だったが、これに合わせるように神奈川近代文学館で初めての添田唖蝉坊・知道展が二ヶ月近くにわたって開催され、そこで講演・演奏を依頼され時間オーバーの熱演、桃山晴衣の意志を継いだこの作業を増々重く受け止めるようになった。今年前半は、韓国からの伝統打楽器集団「ノルムマチ」郡上公演や同じく韓国からの孤高のフリーインプロヴァイザー・サクソフォニスト、姜泰煥との公演、また9月に共演する東京文化会館でのインドネシア舞踊界のパイオニア、サルドノ・W・クスモとの公演に向けての準備等々、アジアの芸術家との共同作業に時間をとられていたこともあり、「唖蝉坊・知道を演歌する」公演をしばし中断していたが、我家の下を流れる吉田川の鮎漁解禁よろしく、「邦楽番外地」も7月より解禁、ゆっくり全国を巡っていきたい。

<長福寺の唖蝉坊句碑>
 その公演を前に先日、静岡での姜泰煥との公演を終えた翌日、近くまで出かけたこともあり、神奈川近代文学館の唖蝉坊・知道展の企画者、中村敦さんに連絡して茅ヶ崎、大磯の唖蝉坊・知道所縁の地を案内していただくことになった。添田唖蝉坊添田平吉)は1872年に大磯で生まれ18歳の時に横須賀で自由民権運動の流れをくむ壮士達の唄に接し、演歌師の道を歩むことになる。そして大磯の隣街、茅ヶ崎の菱沼に住んでいた太田タケと結婚するが、この時、唖蝉坊は演歌をやるかたわら知人達にすすめられハンカチ工場を茅ヶ崎で経営する。今回は、中村さんが連絡をとってくださり先の神奈川近代文学館での「添田唖蝉坊・知道展」と同時期に開催していた茅ヶ崎市立図書館での「添田唖蝉坊・知道親子展」の企画主催者、「湘南を記録する会」の楠さんが、このあたりのことを含めて茅ヶ崎・大磯での唖蝉坊の足跡を紹介して下さることになった。
 朝、車で静岡駅を発って2時間少々、茅ヶ崎駅で待ち合わせた中村・楠の両人に新聞記者の方も同行取材で参加。まず案内されたのは駅から歩いて直ぐの所にある唖蝉坊がハンカチ工場を営んでいたという場所。この場所のことを唖蝉坊は『唖蝉坊流生記』にこう書いている。
 「そして茅ヶ崎へ移った。三十五年の夏の終わりであった。駅前の、釜成屋といふ古い饅頭屋の前角が私たちの新しい家であった。隣は肴屋という宿屋で、鉄道院の車掌が何人か、交替の時の宿にしていた。」
 この『唖蝉坊流生記』には彼が晩年演歌師生活を止めて四国・中国地方へ遍路の旅を続けていたことも記されており、とりわけ岡山県玉島の良寛修行寺、円通寺あたりのことは詳しい。昨年私はその円通寺で演歌の会を持ったことから記された場所を歩いてみるとタイムスリップしたようなまだ当時の面影を残す建物や街の雰囲気が残っていたが、ここ茅ヶ崎はさすがに都会、駅前から続く、ハンカチ工場のあったとされる場所はビルディングと車と人の賑わう現代のどこにでも見られる駅前風景で、明治の面影をたどるすべも無い。ただ釜成屋という饅頭店は他の場所に移り今も営業しているそうだ。茅ヶ崎での唖蝉坊の足跡で興味深いのは、知人の鳴り物入りの祝賀もあって始めたハンカチ工場が「致命的な違算」で失敗したことはともかく、ここで彼が友人杉崎鍋之進等との付き合いの中から俳句を始め、その運座の仲間入りをしたことである。唖蝉坊や知道氏に関する碑は全国にいくつかあるが、小平の添田家墓地に立てられた石碑や浅草弁天公園に建つ唖蝉坊・知道の碑、そして先月岩手県宮古市鳥取春陽の唄をうたいにいった際に案内された鳥取春陽の石碑には知道の揮毫による春陽の石碑が建っていた。今回の目的はそもそも、ここ茅ヶ崎に二カ所ある唖蝉坊の俳句を刻んだ石碑を訪ねることだったが、共に市街地からは離れた素人眼には分かりにくいところにあった。一つの石碑は妻タケの故郷菱沼地区内にある長福寺境内にあり、1960年始め頃に建立されたといわれている。石に彫られている句は「河豚食ふて 北を枕に寝たりけり」というもので、この句は浅草の唖蝉坊碑の除幕のときに配られた「染め抜きの手ぬぐい」八句の中から選んだそうだ。長福寺のまわりは民家が密集しており、そこの狭い道路を車でもう一つの句碑のある杉崎家の墓地へ。車で5分もかからない旧街道である大山街道沿いに並ぶ新旧合わせ並ぶ墓石の中に石碑はあり、その後ろに白塗りの木の立て札に大山街道句碑と書かれていた。というのもこの石には唖蝉坊の句と並んで杉崎鳥花の句も彫られているからだ。杉崎鳥花というのは先に触れた茅ヶ崎在住の唖蝉坊の友人で、句を進めた人。本名は杉崎鍋之進といい、赤羽根神明大神官の神官で、かつては此の辺りの膨大な土地を有しており、地名の松林にあるような松に囲まれた長閑な所だったそうだが、今は墓のまわりに新興住宅が押し寄せここもまた明治時代の面影はない。ここの句碑に刻まれた句は杉崎鳥花の「春風や いそがぬ人のそでを吹く」と唖蝉坊の「密会の かなしみを泣く 蛍かな」。碑は1963年に建てられている。共に60年代初期に建てられた句碑であるが、どちらも表立った唖蝉坊の句碑という説明がなく一般の人に知られていないのが残念であるが、今は唖蝉坊の存在そのものも民衆の記憶から遠のいているのだからこれも仕方ないことかもしれない。

<杉崎氏墓地内の唖蝉坊句碑>
 茅ヶ崎はもう一人唖蝉坊と並んで興味深い人物、川上音次郎とも縁が深いところで、こちらの所縁の地も訪ねたかったのだが、今回は唖蝉坊と云うことで、この後隣町の大磯に車を走らせ、唖蝉坊の生家があったとされる場所を訪ねた。
 新橋—横浜間の鉄道が日本で初めて開通したのは唖蝉坊が生まれた明治5年1872年だった。そして彼が14歳の時にその「怪物」という汽車を見て驚き、その翌年に横浜—国府間に大磯駅が開業されており、生誕地の大磯西小磯はその東海道線に隣接した場所だった。楠さんが旧土地台帳と照らし合わせて確認した場所は一面トウモロコシ畑の拡がる畑地で、その隅に無人の壊れた民家が残っていたが、唖蝉坊家とは所縁はないらしい。「流生記」の中で子供の頃に悪戯で火をつけたという山と思われるそれがトウモロコシ畑の彼方に見え、ここだけがわずか明治の頃を彷彿させてくれる。

<大磯・唖蝉坊生家跡地>
 唖蝉坊が生まれた頃は寒村に過ぎなかったこの大磯はやがて政治家や富豪達の別荘が建ち並ぶようになり、今も夏の行楽地として賑わいをみせている。トウモロコシ畑と壊れた一軒家の他、ここにも唖蝉坊の生家だったことを示すものは何も無く、唖蝉坊らしいといえばそれまでだが、せめて説明の看板だけでも建ててほしいと思った。
 茅ヶ崎・大磯は以上のような所縁があるところだが、唖蝉坊や知道は演歌師であり全国を歩き回って来た風来の徒でもあり、各地にこうした所縁のある場所が点在していることだろう。これから再スタートする「邦楽番外地」でもさらなる唖蝉坊・知道との出会いを求めて所縁のある所に足を向けて行きたいと願っている。そのスタートが金沢、富山から始まる。