【3月のイヴェント案内】2 「土取利行の邦楽番外地/添田唖蝉坊・知道を弾き唄う」

3月は3日、4日、8日と東京でイヴェントを行います。
■二番目のイベントは、フリー・インプロビゼーションフリー・ジャズを専門とする吉祥寺のサウンドカフェ・ズミでの「土取利行の邦楽番外地/添田唖蝉坊・知道を弾き唄う」です。私の十八番であるフリーインプロビゼーションではなく、明治大正演歌を唄い、語るというズミならではの催し。ここでは前回「桃山晴衣の音楽」についてのレクチャーを行いましたが、この添田唖蝉坊・知道の演歌の創始者二代の知道師に桃山は二十年にわたって指導を受けていました。古曲宮薗節の名手であった彼女が全く異なる演歌をなぜ学んだのか。そのことも含めて添田唖蝉坊・知道の演歌についてあまり知られていない情報、唄も紹介したいと思っています。この演歌の会は昨年、二日間にわたって「日本のうたよどこいった」というタイトルで、木村聖哉氏のレクチャーと若き演歌師岡大介くんとの共演というプログラムで展開しました。その中でほとんど一般には知られていない添田唖蝉坊の曲「ああ踏み切り番」を全曲、しかもバイオリンではなくインド楽器エスラジの弾き唄いで紹介しました。そのときのことを、元NHKのプロデューサー皆川学氏が「野火」という個人誌に書いてくれたので以下に紹介いたします。
 
添田唖蝉坊>                 <添田知道
「土取利行の邦楽番外地/添田唖蝉坊・知道を弾き唄う」
2012年3月4日(日) 開場16:30 開演17:00
会場:吉祥寺Sound Caffe Dzumi
(武蔵野市御殿山1−2−3 キヨノビル7F(吉祥寺駅から徒歩5分)
ご予約の電話番号の末尾の2がぬけていました。お電話いただいた方にはご迷惑をおかけしてもうしわけありませんでした。
なお配布したチラシの電話番号も末尾がぬけておりますので以下の電話番号かメールにてご予約ください。
会費:2500円(予約制ですのでお電話での予約を 0422−72−7822
 月、火は定休)

e-mailでのご予約はevent@dzumi.jpです。
詳細はこちら

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「ああ碑文谷の踏切番」皆川学
 衝撃的な歌に出会った。「ああ踏切番」。戦前の社会主義演歌の伝道者・添田唖蝉坊の作詞になる曲である。歌ったのはピーター・ブルック劇団の音楽監督パーカッショニストの土取利行氏。2011年1月、都内のライブハウスで開かれた土取利行音楽夜会「日本のうたよどこいった・語り唄い継ぐ明治大正演歌の世界」でこの珍しい歌を披露した。
 歌は1918年(大正7年)東海道線の品川区碑文谷の踏切で起きた踏切事故を題材にしている。当時ここに竹内芳松・須山由五郎という二人の踏切番がいた。二人はここで20年間働いているが、眠る暇もない勤務、賃金は僅かに飢えをしのぐ程度で家族に楽な暮らしもさせてあげられない。その上「踏切番」とさげすまれている。5月19日午前1時5分、この日、連日の超過勤務についうとうととなったとき、汐留発下関行きの貨物列車が接近していた。折り悪しく一台の人力車が踏切に差し掛かり、人力車夫は助かったが、乗客は絶命した。その一時間後、二人の踏切番は、その踏切から少し離れた線路上に身を伏せ、次に来た列車に轢かれて死んだ。この事件は新聞で大きく報じられ、事故の責任を自らの死であがなった二人に同情が集まり、各方面からの弔慰金が当時の金で一万余円も寄せられたという。唖蝉坊はこの新聞記事をもとに長編の演歌(ニュース・ソング)を発表した。
 土取氏は声楽の専門家ではないが、世界や日本の音楽の根源を訪ねる研究を続けており、この日のライブの最後に、インドの民族楽器・エスラジの弾き語りでこの歌を歌った。かぼそい弦のうねるような音の流れに歌が乗っていくうち、私の隣に座っていた青年が嗚咽を漏らし始めた。何か思い当たることがあるのだろう。ハンカチを出す聴衆が増えてきた。歌い終えて土取氏は「このように事故の責任を取った人たちがいるのにフクシマの事故を起こした人たちはまだ自分の責任をとっていない」と結んだ。土取氏がこの歌をライブの最後に持ってきた理由は明白だ。
 添田唖蝉坊(1872〜1944)は、自由民権運動の末期に興った壮士演歌を受け継ぎ、幸徳秋水堺利彦らの初期社会主義運動を演歌によって伝導した人物である。ノンキ節やラッパ節、カネカネ節など社会風刺の歌で知られているが、「ああ踏切番」のような悲劇をストレートに歌ったものは珍しいと思う。「ああ踏切番」は事件の背景となっている鉄道当局による過酷労働を直接批判してはいない。しかし二人のいたましい自死を見つめる唖蝉坊の視線は世間の人々の共感を呼んだ。事件の起きた1918年はロシア革命の翌年である。日本ではこの踏切事件の二ヶ月後に富山魚津港の女仲士たちを先頭に米騒動が勃発し、三ヶ月後にはシベリア出兵が決定する。大陸侵略を目指して産業構造の重工業への転換がはかられ、大量の都市未組織労働者が誕生し、労働運動も声を上げ始めた時代である。門司行きの深夜の貨物列車が運んでいたのは大陸向けの軍需物資だと想像する。唖蝉坊は「とどろとどろ」と響いてくる蒸気機関車の轟音、夜明けの空を切り裂く悲鳴のような汽笛を歌に詠み込んだが、それは時代の深部に生きる人々の呻吟を象徴してはいないか。二人の遺族に寄せられた高額の寄付金は、まだ社会保障も勝ち取られていない時代、底辺に生きる人々の共同意志ではなかったのか。

「事故直後の碑文谷の踏切」
 唖蝉坊の歌の元となった記事を書いたのが、「都新聞(東京新聞の前身)」の社会部記者・長谷川伸であったことにも注目する。長谷川伸(1884〜1963)は、「沓掛時次郎」「瞼の母」「一本刀土俵入り」など股旅ものを書く通俗作家と一般には受け取られている。しかし伸の描く「義理と人情」の世界は「常に弱者に誠実を尽くす(佐藤忠男長谷川伸論』岩波現代文庫)」「日本人のヒューマニズムの原形質(山折哲雄『義理と人情〜長谷川伸と日本人の心』新潮選書)」であるとして近年評価が高まっている。伸は事件当時、都新聞の記者。同じ社会部の先輩には中里介山が在籍しているなど、職場には社会の底辺に目を光らす社会正義の感覚が溢れていたのであろうか。
 伸がその小説や芝居の主人公として取り上げた江戸時代の「無宿者」とは、度重なる飢饉で農村の生産組織から「欠け」落ち、その外で生きざるを得なかった者たちである。彼ら、はぐれ者の多くを吸収したのが博徒というアウトロー集団である。佐藤忠男によれば、彼らの「任侠」の思想は、「自ら命を賭けて責任を果たす」ことに貫かれているときいた。北村透谷は「徳川時代に民衆がつくったモラルで見るべきものは、任侠思想ぐらいのものである」と断じているという。事件現場に駆けつけた長谷川伸の心を打ったのは、のちに股旅もので「侠の思想」として展開するものと同質のものであったのではないか。
 私の隣で嗚咽をこらえていた青年の胸中に何が去来していたのか知る由もない。しかし、非正規労働者の増大、過酷労働、秋葉原事件や自殺者年間3万人以上という、戦後社会が行き着いた先の現在の時代相と無関係ではないだろう。今JR職場では、国鉄分割民営化に続く外注化攻撃がかけられている。福知山戦脱線事故は過去の出来事ではない。百年前と事態は全く同じだ。
 唖蝉坊演歌は、戦後、石田一松という継承者を得たが、その後歌謡曲演歌に押され埋もれてしまった感がある。しかし、今また見直しの機運がある。土取利行氏は、氏の音楽拠点・立光学舎の共同設立者、故・桃山晴衣さんの遺品にあった添田知道からの資料と録音テープを受け継いで今回のライブの運びとなった。ほかに小沢昭一氏にはじまり、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット岡大介(カンカラ三線)など、唖蝉坊演歌の力を借りて、今の時代相を風刺する表現者がいる。自由民権運動添田唖蝉坊長谷川伸から現代に続く「侠の思想」の復権を切望する。それは日本民衆の抵抗運動の核として脈々と受け継がれてきたものと思うからだ。
(皆川学:1940年新潟市生まれ。元NHKプロデューサー。美空ひばり追悼番組など、芸能ドキュメントなどを手がける。現在フリーディレクターとして冤罪関係などのビデオ制作中。)