神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」によせて(三) 「竹久夢二の世界から添田唖蝉坊・知道の世界へ」

 ここ二年近く「添田唖蝉坊・知道の演歌」の世界を唄い、語って各地をめぐり、今月二枚組の唖蝉坊・知道の演歌だけを収めたCDをリリースした。これまで古代音楽をずっと追求し演奏して来た私にとって、明治大正の、しかも演歌の世界を自ら展開するとは、思ってもみなかったのだが、すべては桃山晴衣と一緒に歩み、創造してきた作業の重みを、彼女が亡くなってからより一層感じだし、彼女が、そして彼女と、出来なかった未完の作業をできるだけ遂げたいという思いにかられての行動でもある。

CD「夢二絃唱」
 私が桃山とパリで出会ったのが1982年、その翌年に「インターエスニック・インプロヴィゼーション」と題したコンサートを東京、大阪、名古屋で開催し、同時にパリではピーター・ブルックの「マハーバーラタ」の初演も近づき、音楽監督を努めていた私は日本とパリを慌ただしく行き交っていた。「銅鐸」の演奏という前代未聞の演奏もこの時期に巡り会い、桃山は日本での私のプロデュースも引き受けてくれるようになっていた。そして「マハーバーラタ」の初演が85年にアヴィニオンで終わり、一時日本への帰国が可能になったとき、以前から彼女が構想していた新たな語り物の創作にとりかかることになった。それはアナーキスト詩人の秋山清氏が桃山に以前から約束して書き下ろしてくれていた竹久夢二の語り物だった。もともとこれは桃山が秋山さんとの長い信頼関係のもとに生まれたもので、彼女の「婉という女」につぐ現代語の浄瑠璃のようなものになるはずだった。しかし「婉という女」とちがい夢二は男性であり台詞などもかなり無理があり、ずっと手つかずのままだった。そして私と会ってからこの作品の可能性を模索し始め、私が語りで加わることで新たな形が見えて来たのである。以下はこの夢二の作品をCD化したときのライナーノーツによせた桃山の文であるがここにその経過などが記されており、また添田唖蝉坊・知道演歌への兆しもチラッとうかがえる。

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 『私と夢二』桃山晴衣
 人間は誰でも強さと弱くてダメな自分、という両極を持っている。そのはじからはじまでを往き来せざるをえない生の、揺れ動く振幅のはざまから、葛藤の襞を映して炙り出されるものが、音楽であり、絵や学問であるのだと思う。
 夢二はたえず自分に疑問を抱いていた人であったのだろう。その両極を揺れる幅の大きさが、自分に正直だったひとだということを感じさせる。(強さの方へ自分を固定させ、ダメな自分に蓋をしてしまったものには、広がりと自由さがない。やさしさとぬくもりが失せている。が、かたくて詭いそれらを、人は権威と強さだと錯覚する)。大正の情感をうたわれる夢二の絵に、私は叛骨とニヒルをみる。そして何よりの勁さをみる。子供の頃から、教室でみなが騒いでいる人気者の子役や歌手の方はさっぱりなのに、さし絵画家の名ならすぐ覚えた、なかなか個性的なそれぞれの持ち味は今も記憶に残っているが、そのうちでも夢二は特別であった。
 「あなたは正統画壇に入るのはおやめになった方がよい。岡田先生がアドバイスされたんだ」とそのいきさつを話し、一線を画して夢二に接する、画家であった父の態度と、尊敬して止まなかった師、岡田三郎助の言葉というお墨付きのせいもあるだろう。が、いくら質の高さを説明されてもなじめなくて、大きくなってからやっと理解出来た画もあえる中で、夢二は違っていた。最初の出会いから違和感がなく、子供でもすーっと溶け込んでしまえる画面が不思議だった。
 二十代になり、添田知道さん(演歌の祖添田唖蝉坊の子息で演歌作者であり小説家でもあった)と、国電のホームに立っていると「おやおや、どこのお嬢さんとご一緒で」と少しおどけた口調の、夢二そっくりの男性から声をかけられた。息子の不二彦さんだった。
 添田先生のお宅の奥には、古ぼけた写真が飾られていた。大杉栄荒畑寒村堺利彦夫妻とまだ幼い息女の真柄さん。唖蝉坊夫妻と幼少の知道などが並んでいるそこに、竹久夢二も立っていた。それは官憲の眼をごまかすため代々木の原っぱで野外集会を行った時撮影したものだそうで、私にとってはまた新しい夢二との出会いであった。
 寒村会では荒畑先生の口から悪口めいた話が面白かった。志を同じくした人からは夢二の版画を送られて恐縮したり、身近につながる人を通して夢二とのかかわりは途切れることなく続いていた。そこへ秋山清が「君に、ぼくの最後の夢二を書いてあげよう」と云ってくれたのだった。

 夢二について幾冊か著作のある、アナーキスト詩人秋山清は、前述の夢二につながる人々とは対立があり、少し別のところにいる。それだけに、細部にまどわされぬ客観的な捉え方が新鮮で、夢中になって話し合ったりした。
 約束の台本は、婦人の逝去や引越など、晩年の変動期にかかり、一度かかれたものを紛失。どうしても見つからなくて、大変な日常の中を、再度やり直し。ふりしぼるようにして書いて下さったものである。受け取ってみると構成も未完。終章部分がほとんど出来ていなかったのは、私の意見を聴き入れながら完成させてゆくつもりらしかった。
 それからまた数年たった。たたいてもビクともしないような秋山さんだったが、何となく予感がして、お元気な内に聴いて頂きたく猛烈なスケジュールの中を86年夏、無理矢理公演にこぎつけた。資料を集め下調べののち、岡山の夢二郷土館と長田幹雄先生をお訪ねし詞章を出典から調べ直し、おびただしい写真を撮らせて頂き、内容をかためていった。が、土取と初回の打ち合わせの後、秋山さんの病状はみる間に進み、肝心の彼との作業をあきらめねばならなくなった。

 構成はバラバラであったのを思い切って組み替えた。詩人ならではの言葉と、秋山さんらしい見方や対し方が光っている内容はそのままに、原本をこわさぬよう、彼に習って夢二の詞章から何カ所かを抜粋、引用して埋めた。また音楽部分が大変少なかったので、彼の選んだほかにいくつか足した。この段階になると土取との共同作業となり、長い間続いて来た竹久夢二とのかかわりが、一つの<かたち>となったわけである。(CD『夢二絃唱』の解説文より)
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 桃山晴衣との初めてのコラボレーション「インターエスニック・インプロヴィゼーション」では、桃山のうたや三味線曲に応じて様々な楽器を用いて即興演奏を展開し、ドラムセットと三味線の自由即興演奏なども行ったが、この「夢二絃唱」ではタイトルに示されているようにうたと語りと弦楽器だけで構成している。ここで桃山は多くの夢二の童歌を作曲して唄った他、宮薗節の優雅な三味線での弾き唄いによる唄も作った。そして私は三味線の他の絃楽器、とりわけアジアのそれをいくつも演奏し、夢二の歌詞で数曲を作曲し唄った。また多くの語り部分はイランのサントゥールの伴奏で行った。この時のリハーサル段階で桃山からは日本語の語り方、唄の間の取り方など、演奏を通して学び、三味線とアジアの楽器が西洋の楽器よりはるかに日本語の唄に響き合うものだということを再考させられた。

 この時は桃山の文にあるように秋山清さんはすでに病状が進んでいたのだが、初演には足を運んでいただきお目にかかることができた。その後、各地からこの「夢二絃唱」のコンサート依頼があったのだが、当時はよくぞこんな活動ができたなと思うほど日本と世界を飛び回っていたため、これを継続させることができずに終わってしまった。というのも丁度「銅鐸」の演奏が話題になり、「旧石器サヌカイト」の演奏に着手し、「縄文鼓」への道にすすんでいたのと、「マハーバーラタ」世界公演がずっと続き、これらを同時進行させていたためである。そして再び、桃山との演奏をするようになったのは、二人で岐阜県郡上八幡に設けた拠点「立光学舎」での十年近くに及ぶ地元に二百年間続いて来た地歌舞伎の人たちや子供達との芸能活動や、学舎主宰のワークショップを通してである。とりわけワークショップで桃山は「演歌」を日本の大切な唄の一つとして取り上げ、その発声法、節回し、さらには歴史背景なども教えていた。ワークショップは私と共同で行っていたため具体的に私も一緒に演歌を唄ってはいたものの、とりたててそれに集中したというわけでもなく、そのころは桃山の宮薗節や小唄、端唄、復元曲といった三味線やオリジナルの唄の方にむしろ惹かれていたといえる。
 今、私が桃山晴衣の三味線を持ち、演歌を唄い始めだしたのは、彼女がなぜ添田知道氏の最後の弟子といわれ演歌をやっていたのかが、これまでの彼女との共同作業だけではなく、遺されたそれ以前の邦楽における仕事などを検証して行く中で、深く理解できるようになってきたからである。
 「夢二絃唱」を演奏した当時、私は既にインドを何度も訪れ、ベンガル地方タゴール学園でタゴールソングや、エスラジと云う弦楽器を習い、これらを「マハーバーラタ」の中でも用いてきた。そして今回の大冒険ともいえるCD「土取利行 添田知道・知道を演歌する」は丁度「夢二絃唱」でも弾いたエスラジと桃山晴衣の三味線という、日本とアジアの楽器で全編唄っている。
 こうして振返ってみると「夢二絃唱」は「唖蝉坊・知道演歌」への序章ともいえるべき作品で、桃山なくしては実現できなかった。桃山晴衣添田知道氏と二十余年の付き合いがある。まだ二十代の時からご意見番として相談に乗って頂いていたし、邦楽界と一線を画し桃山晴衣としての道を歩みだした頃、自分の歌を形成して行く中で「演歌」を添田知道氏から徹底して学びだした。添田先生の馬込の家に三、四年、半内弟子の形で晩年の先生の家事手伝いもしながら、とりわけ演歌の節を一つ一つ聞きただし、唖蝉坊や知道さんの時代のこと、演歌師のことなども多く教えてもらい、先生と演歌の旅をし、自分の於晴会でも先生と演歌について語り唄ってきた。また添田知道氏に連れられていった荒畑寒村の会では、寒村翁はじめ堺利彦の娘の近藤真柄さんや明治人の人たちの前で演歌をうたい、その熱い反応を肌で感じてきた。しかし桃山晴衣はいわゆる演歌師になり演歌を自分の活動の主軸にしようとは思っていなかった。その理由の一つは古曲宮薗節の家元にならなかったのと同じで、観客がすでに真の演歌というものから余りにもほど遠いところにいて、一つのイメージにしばられすぎており、桃山の理想とする「今のうた」にならないと思ったからである。もう一つの理由は、夢二の語り同様、演歌もまた極めて男の世界といった感が強く、演歌だけで自分の世界を作るのには無理があった。それもあって、ワークショップなどではとりわけ男性に集中して力強い演歌を教えたりもしていたのである。


 桃山晴衣は明治時代に演歌と同時に流行していた邦楽の小唄、端唄、都々逸、長唄、そして古曲宮薗節という三味線と歌をマスターしていて、これら江戸時代の庶民から生まれ発展して来た歌と、明治の文明開化から壮士達によって始められやがて唖蝉坊や知道さんたちによって歌謡曲への流れが作られて行くこの演歌の違いにも関心があり、これらを基に「今、響き合えるうた」を作り唄おうと模索し続け、その成果として「梁塵秘抄」の世界に到達したのである。添田唖蝉坊・知道の演歌は明治と云う近代が生んだ庶民の流行歌であるが、「梁塵秘抄」は中世の庶民が口ずさみそれを遊女(あそび)たちが唄い伝えた「今様歌」であり「流行歌」である。桃山がもっとも惹かれていた「梁塵秘抄」の伝達者、延寿は中世の女性演歌師のような存在ともいえなくはない。また「梁塵秘抄」に惹かれたことの一つにこの歌を唄っていた足柄の遊女のうた声が「天に澄み渡る」声であったという記述が残っていたことと共通して、演歌に興味をもったのは「唖蝉坊の声が、高く澄んでいて美しかった」という多くの人の言葉を聴いたからである。この中世と明治近代と云う時を隔てて誕生した流行歌、一つは女性によって、そして一つは男性によって唄われたこれらの歌。桃山晴衣が遺していったこの唖蝉坊・知道演歌の世界をどこまで辿れるかは分からないが、唄い、弾き進むより他はなし。
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神奈川県立近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」記念イベント
土取利行・語りと弾き唄い「唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの」
4月6日(土)午後2時開演(午後1時30分開場)
神奈川近代文学館・展示館2階ホール
料金:1000円
神奈川近代文学館/(公財)神奈川文学振興会