馬喰町ART+EAT「明治大正演歌」を語り、唄った二日間


馬喰町ART+EAT「明治大正演歌の会」
 先日、二日間にわたって馬喰町ART+EATで「日本のうたよどこいった/語り・唄いつぐ明治大正演歌の世界」と題した音楽夜会を開催した。明治大正演歌は桃山晴衣が演歌創始者二代といわれる添田唖蝉坊、知道の後者に二十年近く指導を受け、日本のうたを考えるうえで重視していたこともあり、その唄の数々も彼女からよく聴いていた。

添田知道師と桃山晴衣
 今回、私が演歌の会をもったのは桃山がなぜ演歌に興味をもっていたのかを彼女が残していった資料や音源を整理するにつれ、より理解できるようになり、彼女亡き後、微力ながら自身で伝えゆくことの大切さを覚えたからでもある。また桃山の残した三味線をなんとか置き去りにしないためにも、この我が邦の楽器を今回初めて公に弾くことにした。

木村聖哉氏と>
 会の一日目は、多くの人が「演歌」について誤解をしているため、その創始期から唄をはさみながらの解説を試みることにした。そのためゲストに『添田唖蝉坊・知道』の著書もある木村聖哉さんを招き、演歌の創始者といわれる唖蝉坊、知道について概説をしてもらい、その後私が桃山晴衣が知道師から教わった演歌について語り唄った。ここで桃山の演歌についての私見を記したいのだが、それは後日このブログ連載の「桃山晴衣の音の足跡」に譲ることにしよう。
 一日目の会で私が演奏したかった曲に添田唖蝉坊の「ああ踏切番」がある。大正八年の作で下層労働者であった踏切番の悲劇を演歌にした添田唖蝉坊の名曲でもある。
 「大正七年五月十九日午前一時五分、汐留発の下関行き貨物列車が品川駅を出て八丁余の碑文谷で折悪しく踏切にかかった人力車を突っかけて粉砕。車夫は助かったものの乗客の新井某は重傷で絶命した。踏切番がつい居眠りをした魔の瞬間だった。同午前二時この踏切番竹内芳松、須山由五郎の二人は、その踏切の南四丁ほどの線路上に身を伏せ、山北行きの列車に轢かれて死んだ。職場の最底辺の人のこの責任感が世の人々の心を打った。集まった弔慰金が当時の金で一万余円、今の金で一千万を越える。オカミからではなく、もらい泣きした一般の人たちから送られたものだった」
 以上のような事件を添田唖蝉坊は詩的な歌詞で十三番からなる唄を作り、中に吟変わりとする朗詠調のうた語りを入れている。当時はすでにバイオリン演歌としても演奏していたと云うことで、私はいつもの愛用絃楽器、インドのエスラジでこの曲を演奏し唄った。バイオリン演歌ならぬ初めてのエスラジ演歌である。なおこの「ああ踏切番」は桃山が添田知道師に唄ってもらいテープを残しており、彼女が語り唄としていつか唄いたいといってもいた演歌の一つだった。
 二日目は郡上でも一緒に演奏した若手演歌師のホープ岡大介君と一緒に添田唖蝉坊、知道の曲を時間の許す限り唄った。二人で一緒に唄う場面も欲しかったので三味線のピッチに合わせ岡君に声を少し下げて唄ってもらった。さすがに慣れないとあって少々とまどっていたが、いつものような張上げる声とはまた違った調子の柔らかく太い声で、三味線の音色にも良く合った唄になる。なお岡君はこの日を機に、三味線も本格的に始めたいと決意を新たにし、なんともうれしい限りである。この日の朝、スタッフの井上と岡君の三人で添田唖蝉坊、知道の石碑が建つ浅草の浅草寺にある弁天山公園に出かけてきた。弁天山というのだから芸能の神、弁財天でも祀ってあるのだろうか、社の下には添田唖蝉坊、知道の筆塚に並ぶように、都々逸の碑、芭蕉の碑と、うたの碑が立ち並んでいるのがなんとも浅草らしい。

<浅草弁天山に建つ添田唖蝉坊の石碑>
 添田唖蝉坊の石碑には彼の肖像画と紫節の一句が線刻されており、その横に新しく知道師の名前を彫った石塔が建てられていたが、その字は親しかった岡本文弥師の文字であろう。添田唖蝉坊の唄のなかでも桃山は「むらさき節」が好きだったが、この弁天山の石碑に刻まれた「むらさき節」の歌詞は、あまり本では見かけない歌詞で、さっそく写し取り、夜会で唄った。
その「むらさき節」の詞
 「つきいだす鐘は上野か浅草か  往き来し絶えて 月にふけゆく吾妻橋
  誰を待つやら恨むやら 身をば欄干に投げ島田 チョイトネ」 唖蝉坊