添田唖蝉坊の「ああ踏切番」


<ああ踏切番>
 前回のブログで馬喰町ART+EATでの「添田唖蝉坊、知道の明治大正演歌を唄い、語る」について触れたが、ここで今一度、添田唖蝉坊の曲「ああ踏切番」について作家の長谷川伸氏が『唖蝉坊流生記』の序文で書いているので紹介しておこう。
 この『唖蝉坊流生記』は数少ない唖蝉坊の著作の中でも貴重な自伝本といえるもので、昭和31年(1956年)11月25日に唖蝉坊顕彰会編集委員会によって会員だけに500部のみ発刊されたものだが、桃山はこの貴重な本、しかも500冊限定本の001番と番号を押された第一冊目の本を持っていた。

<唖蝉坊流生記>
 おそらくこれは添田知道師が桃山に贈った本で、彼女が大切にしていた一冊である。いまよく見てみるとこの本が刊行された日が、先日馬喰町で開催した「添田唖蝉坊、知道の明治大正演歌を語り、唄う」会と同じ11月25日とあり、なにか縁を感じざるを得ない。またこの本を発刊した顕彰会が一年前の1955年の2月に設けられ、7月18日には「浅草の会」によって「唖蝉坊の夕」が催され、9月18日に浅草弁天山に「蝉供養」が営まれ、9月24日には日比谷野外大音楽堂で日本音楽著作家組合による物故作家の合同慰霊を受け、11月28日には浅草観音境内弁天山の唖蝉坊碑除幕が行われている。ここまで書いて11月が再び登場したので添田唖蝉坊の誕生日を調べてみると1872年の11月25日とあった。馬喰町での会が増々因縁めいてくる。(私はもちろん彼の誕生日を知らずして会の日を決めていたのだが)。そして問題の本が発刊された1956年2月8日(これは唖蝉坊の命日)には十三回忌で弁天山の碑の前で唄供養が行われ、誕生日の11月25日に『唖蝉坊流生記』発刊になっている。かつて何度か、私は桃山と浅草を散策し、弁天山の碑にも一緒に来たことがある。その後、この弁天山の石碑に彫られた添田唖蝉坊の絵と歌詞を拓本にしたものが桃山に贈られてき、そのまま見つからないままになってしまっていたので、今回演奏会に会わせてもう一度石碑をお参りしておこうと、11月25日の翌日、久しぶりに浅草寺の弁天山に、これまた縁で岡大介君と出かけることになったのである。そしてここには以前はなかったと思う添田知道師の筆塚が岡本文弥さんの愛らしい文字で彫られ建てられていた。知道さんも文弥さんも桃山と長い付き合いのある気骨ある明治人、どうも桃山も一緒についてきていたのか知れない。と、まあ顧みると不思議な日だったが、本題の長谷川伸氏の「ああ踏切番」に戻ろう。

添田唖蝉坊著/流行歌・明治大正史>
 「ああ踏切番」に関する文章は、この『唖蝉坊流生記』の序文に「演歌感傷」として書かれている。長谷川伸氏が「ああ踏切番」を聴いた当時、彼は都新聞(現在の東京新聞)の記者を努めていた。とはいえ当時の平山蘆江や伊藤みはるのような花柳界に出入りする芸能記者ではなく、事件記者だったのでその頃盛んに唄われていた死刑囚野口男三郎の妻曽恵子の歌「袖しぐれ」が添田唖蝉坊の作だということも知らなかったと云う。その彼が演歌のうたごえを聴いて感傷にひたることがあり、そこから唖蝉坊の「ああ踏切番」にも出会うようにもなったという。
 「私は若いとき三州田原に近い、八丁綴の称名庵という無住の寺を根城にして、黒鍬の親分達と一緒に仕事をやりにいって失敗し、逃亡してゆく一人旅の途中、雨催いの夜、安っぽい宿屋で聞いた演歌の歌ごえは、やや遠くであっただけに、哀傷感に打たれてしまい、泣くほど気の弱くなることは一向にないのに拘らず、とめ度なく涙をこぼしました。あの歌ごえは泣かせました。こうした例は今いった一つだけではなく、下総の木下でも、飛騨の燒石でも、私は演歌の歌ごえに泣いたものです。
 大正七年の初夏の夜、碑文谷の踏切で、下りの貨物列車が、人力車と車夫と客とをフッ飛ばし、車は砕け客は即死し、車夫は助かった。がこの事故の責任をとって、踏切番人の竹内芳松と須山由五郎とが、山北行きの列車に、相抱いて轢かれて自殺した事件に、起ち遅れた都新聞からは、私一人だけが行って、ヨソの社が五人も八人も動いているのを承知の上で、ネタの取りッこをやりました。松崎天民によると、このときの記者は君のが一番いい、朝日や中外商業でそう云っているとあったが、余りこれはアテにならないと思ってください。
 『嗚呼踏切番』という唖蝉坊の作詞があるのを、『流行歌明治大正史』見て知りました、がその歌詞の「二十余年を碑文谷の、踏切番とさげすまれ、風のあしたも雨の夜も」は、事件が起こって暫くの後に流行したので知っていました。『流行歌明治大正史』はこれについて、「この歌ほど聴者を動かしたものはない、聴きながら涙をこぼしている者を毎晩のように見た、と当時の演歌者高木青葉がよく言った」と云っている。私だとて五反田の空地で聴いてほろりとした中の一人なのですものね。」
 聴く者の多くをほろりとさせたこの唖蝉坊の名曲。今回は三味線で演歌を唄うのも初めてならば、この「ああ踏切番」をインドの擦弦楽器エスラジの伴奏で歌うのも初めて。バイオリン演歌に変わってエスラジ演歌ともいえる画期となるものだった。かつて秋山清氏の書き下ろし『竹久夢二』を桃山と一緒に弦楽器と語り、歌だけで演じた『夢二絃唱』を発表したことがある。この時、大正時代を生きた夢二の作詞に曲付けをして桃山が三味線と歌で、私はイランのサントゥール、トルコのタンブール、そしてインドのエスラジなどで演奏した。今回は同じ大正時代の演歌ということもあり、「ああ踏切番」を唄ってみたいと思うと同時に、『夢二絃唱』のようにエスラジを使いたいと即座に思いついた。当日、馬喰町ART+EATの観客席から何人もすすり泣く人がいたとオーナーの武さんから聴かされた。歌詞もさることながらエスラジの音もまたそれに一役かったのかもしれない。ともあれ添田唖蝉坊の生誕日がエスラジ演歌の記念すべき生誕日ともなったのである。演歌ならず、縁歌というべきか。