渋谷界隈の変貌と思い出

 

 先日の「浜辺のサヌカイト」上映とトークの会場「晴れたら空に豆まいて」は渋谷に隣接した代官山にある。バブル前の渋谷、そして代官山界隈はフリージャズに没頭していた私にとって非常に思い出深いところだった。渋谷駅から徒歩数分の小さなビルの2階にメアリージェーンというほとんどフリージャズをかけていたジャズ喫茶があり、当時白金台東京新聞の配達員で恵比寿から渋谷方面を任されていた私は、配達が終わると毎日のようにそこに通っていた。そしてこのメアリージェーンから数キロ離れた線路沿いにマクロビオティックの開祖桜沢如一氏の伝導所とも言える正食レストラン「天味」があった。玄米菜食の店で、ここで料理の指導をしていたのが桜沢先生の最側近で活動していた小川みち先生。小川先生はベイシストのゲイリー・ピーコックがニューヨーク時代に悪化していた体を取り戻すために京都で暮らし、東京に来ると小川先生から指導を受けていた。またミルフォード・グレイヴスも完全菜食主義者で私と間章が招聘した初来日の1977年から日本に来るたびに小川先生の料理に舌鼓を打っていた。先生の話ではジョン・レノンもしばしばおとづれていたという小さな食堂だったが、バブルが始まりマクロビという言葉が踊り出し健康と美容のための自然食ブームが来ると店は移転してモダンになり、何年か後にはなくなってしまった。天味には食の哲学があり、小川先生の料理教室にも通っていた私が、やがて近くのメアリージェーンで近藤等則や高木元輝と演奏を始め出した頃には、玄米弁当をお土産に演奏を聴きにきてくれてもいた。この頃フランスから帰ってきた間章からEEUという即興演奏集団結成の呼びかけがあり、メンバーの近藤等則や高木元輝と近くにあった鶯谷の彼のアパートに通っては話し合っていた。小川先生はマクロビブームの流れから離れ、全国に一人で生食の教えを伝導していたが、その頃の先生の住まいは代官山の小さなアパートで、訪ねていくと玄米と胡麻塩、鉄火味噌などの基本料理で迎えてくれた。欲のない生活を貫き通した真の食養人だった、ここから近くにあった間章の家も質素なアパートで部屋は足の踏み場もないほど天井までぎっしりと本が積み重ねられていた。今でも覚えているのはその上の方に空海全集が積んであったことだ。彼はシュタイナーの思想にこそ言及するようになっていたが、故郷の良寛のことや仏教のことはあまり口にしなくて、フランスの近代思想やヨーロッパの思想を中心に独自のジャズ評論を繰り広げっていた。

 そして渋谷は近藤等則と上京して間もない頃、新宿のピットイン・ティールームと並行してプルチネラという、おそらく人形劇団ひとみ座のスペースだったと思うが、ここで時折演奏をしていた。またこの頃は出会っていなっかた桃山晴衣はジャンジャンというライブ空間で「古典と継承」シリーズを開催し、ゲストに井野川検校から演歌の添田知道氏まで多彩な明治の日本音楽伝承者をゲストに、高度成長で失われゆく伝統音楽のあり方を考え続けていた。そして同じく渋谷には寺山修司の主宰していた小劇場天井桟敷があり、ここが貸しホールになっていたのか、竹田賢一氏から頼まれて坂本龍一氏のピアノと私のパーカッションで、彼らが通っていたという新宿歌舞伎町のバー(?)のルビ新子というボーカリストが日本語で歌うブリジット・フォンテーヌの「ラジオのように」の伴奏をした。これが坂本くんとの初めての演奏でその後75年に日本を立つ前に竹田くんのプロデュースでできたのが「ディスアポイントメント・ハテルマ」である。さらに渡米後知己を得たミルフォード・グレイブスを77年に間章と招聘し、翌年78年に招聘したデレク・ベイリーとEEUで演奏した会場がパルコ劇場だった。堤清二氏によって文化に力を注いでいたセゾングループは池袋にスタジオ200というライブスペースを設けており、そこで桃山晴衣との初ジョイントコンサートをひらき、その後セゾンが渋谷のパルコ近くに作ったシードホールでは桃山との「竹久夢二」を秋山清氏のテキストで上演した。そしてバブル最盛期には銀座にセゾン劇場を作りブルックの金字塔「マハーバーラタ」世界ツアーの最終公演を実現させたが、今ではこれらの劇場はほとんどなくなってしまった。このように渋谷、代官山には数々の思い出が点在しているが、今回渋谷駅前から代官山界隈の変貌は、どこか私が70年代を過ごしたニューヨークのダウンタウンイーストヴィレッジの変貌と似ている。ブロードウエイを挟んでイースト、ウエストに分かれていたヴィレッジだが、とりわけ私の住んでいたイーストヴィレッジは当時のフリージャズやパンクロックのメッカともいえ、ロフトジャズと称していくつものスタジオやロフトが点在し、そこで毎日のようにミュージシャンが即興演奏を繰り広げていた。バブル期の後、再びニューヨークを訪れてみるとイーストヴィレッジ界隈はブロードウェイも含めて新しいビルが立ち並び、ブティックやレストラン街となってしまい。フリージャズのロフトはほぼ全滅し、パンクロック殿堂のCBGBも消えてしまった。その後アーティストがブルックリンへと移り住んだ者も少なくないが、そのブルックリンもやがて家賃が高騰しアーティストの居場所ではなくなっている。このNYの片隅の変動の後が現在の渋谷、恵比寿、代官山にひしめく高層ビルのビジネスライクのブティックやレストランの林立の姿とよく似ている。

 代官山「晴れたら空に豆まいて」での「浜辺のサヌカイト」上映会とトークは、この映画の撮影と編集を手掛けてくれた長岡参くんの呼びかけで参上することになったが、このアンダーグラウンドスペースにたどり着くまでに渋谷

界隈の無機質さをまざまざと見せつけられた思いがする。