3月東京での講演と公演(2)

 3月4日、昨日の「マハーバーラタ」上映会でのトークに続いて、この日は吉祥寺のサウンド・カフェ・ズミでの演歌の会。「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を唄い語る」と題し、唖蝉坊演歌を三味線で弾き唄い、唖蝉坊の人となりを語った。桃山晴衣添田知道さんからいただいていた「大衆文学研究』という1964年に発刊された雑誌に「反骨の鉱脈」という特集が組まれており、その一つに中村還一氏の「添田唖蝉坊」という興味深い文章が載っていたので、これを朗読しながら途中に歌を挟んで進行した。


<大衆文学研究1964年号の対談で岡本文弥添田知道桃山晴衣
この中村氏は大正6年に、社会主義に傾倒していた唖蝉坊と初めて出会い、同士として集会で彼の歌声を聴いた。そこでとりわけ興味深かったのは唖蝉坊の声が「細くすきとおる美声である」ということで、これは知道さんが桃山によく話していたことでもあった。唖蝉坊は渡辺政太郎が主催したこの集会で「何か胸のすくようなのをひとつうたってくれたまえ」という渡辺に応えうたうのだが、この時「発声の準備姿勢といったかっこうで首をあげたとき、ノド仏のすごく尖っているのが印象的だった」とも記している。中村氏はここで唖蝉坊の唄う「ぶらぶら節」を聴き、彼が同士だったことに深く感動し、その後も集会でたびたび唖蝉坊節を聴かせてもらっているが、いちばん記憶に残っているのが「ノンキ節」だという。
第一次大戦の火事泥景気で在外正貨がどんとふえ、経済界は黄金時代を迎える。その反面では物価が暴騰して庶民の生活が苦しくなり、やがて米騒動の勃発をみようという社会情勢をふまえて『ノンキ節』は生まれた」という。中村氏は、堺利彦との出会いから明治39年に生まれた「社会党ラッパ節」と大正7年に生まれたこの「ノンキ節」の12年間を演歌の黄金時代だとする。そして唖蝉坊演歌とは何かということについても明確に述べられているので少し長くなるが以下に紹介したい。

 「演歌40年の歴史(明治20年〜大正末年)の中で演歌がそれ自身の使命感をもち、民衆の心の中にあれほど食い入った時期はほかにないだろう。壮士演歌のころは、民権壮士の慷慨悲憤が痛快がられたろうけれど、それは民衆の生活感情と触れ合うこともなく、演歌が民衆とともに歩んだとみることもできない。いかにも反骨ありげに見えながら、それは売り物の感じである。日露開戦の前夜になると、その売り物の反骨を政府に利用される。軟弱外交をやっつけろ、という突き上げ運動は政府の仕組んだ芝居で、内に世論の高まりを待ちながら準備に時をかせいだわけであるが、そのころの演歌はそのお先棒を見事にかつがせられている。反骨はあってもそれを方向付ける思想が何もなかった。だから強硬な開戦論をうたうことで反骨のジェスチャーをみせるほかなかったのである。それが「ラッパ節」を契機に演歌を貫く一つの思想、いわば反骨のバックボーンができる。演歌精神の確立である。その演歌精神のおかげでこの時代の民衆が、民衆自身の歌をもっていたという事実は、日本の社会史に大きく記録されていいのではあるまいか」
 唖蝉坊はその後「主義者」が世にはびこるようになり、作歌の情熱も急に失せ、演歌そのものがラジオとレコードに席を譲って一路衰亡期へと向かっていく。そしてここからはいわずもがな、演歌は「艶歌・援歌・円歌」(野沢あぐむ)と変わり果て、円とドルの歌ばかりになってしまうのである。
 ズミで私が唄ったのはこの演歌黄金期の歌、「社会党ラッパ節」「ああわからない」「ああ金の世」等々、そして吉祥寺に住む若手演歌師、岡大介くんが来ていたので最後は彼と「東京節」の神戸、名古屋、京都編を。ズミは25名もはいれば満員になる小さなカフェで、最初は案内のチラシの電話番号が間違っていたため、ほとんどはいらないとあせっていたが、「マハーバーラタ」の会場でアナウンスしたこともあり、当日はパニック状態になり立ち見も限界、またしても入場制限。これもズミ始まって以来とか。桃山晴衣の於晴会に参加していたという人から若者まで、幅広い人たちの集まりで良い会になった。演歌がフォークやロック演歌になったり、チンドンや寄席芸になったりと、真髄から離れていきつつある昨今、唖蝉坊が無伴奏、アカペラで、細くすきとおる美声でうたい庶民の心をとらえていたことをもう一度考え直さなければならない。