8月15日、ゲンダーヌさんのことなど

8月15日、テレビは昼夜を問わず北京オリンピック一色で、終戦記念日の番組もわきに追いやられたかのような状況。そんな中、この日の中日新聞に、太平洋戦争の犠牲者としてあまり知られていない北方少数民族のことが特報として書かれていた。
 「旧日本軍が徴用   サハリン少数民族の悲劇」という見出しで、太平洋戦争時の旧樺太(現ロシア・サハリン)で旧日本軍特務機関や憲兵隊として従事させられてきた北方少数民族のことが取り上げられており、その犠牲者の一人であるウィルタ民族のゲンダーヌさんのことが紹介されていた。ゲンダーヌさんは、戦時中に日本旧樺太庁が建てられていた敷香町郊外(現ロシア・ポロナイスク市)のオタスの杜に周辺少数民族と一緒に集められ日本語教育によって同化を強いられ、戦時中は旧陸軍特務機関に徴用され、スパイ活動を理由に旧ソ連軍事法廷で八年間の重労働を課せられシベリアに拘留。その後1955年に日本に帰還して後、網走に暮らし、78年に網走市長等が発起人となって建設されたウィルタ民族の文化遺産を収めた北方少数民族資料館「ジャッカ・ドフニ」の館長に就任し、84年に亡くなる。日本と旧ソ連という大国の思惑の中で民族の誇りも土地も奪われ続けてきたゲンダーヌさんが自らウィルタ民族であると主張し、その輝かしい狩猟民族の文化を伝えていこうという覚悟に目覚めるまでの、そして目覚めてからの苦労は彼と田中了の著書『ゲンダーヌ/ある北方少数民族のドラマ』(徳間書店)に詳しいので是非一読してもらいたい。
 新聞の記事はゲンダーヌさん亡き後、ジャッカドフニを受け継いできた妹の北川あい子さんの昨年の死後、このウィルタ民族の伝統文化を伝えるすべが失われてしまうのではないかと危惧を訴えると同時に、戦後六十三年たったいまもって政府は彼ら北方少数民族遺族たちへの適切な対応がなされていないことを訴えている。
 こうした新聞の記事に目を通した同日午後、日本伝統文化振興財団から宅急便が到着。開けてみると偶然、3枚組のCD『アイヌ・北方民族の芸能』だった。これは1950年代にNHKによって収録された音源をもとに道内アイヌ樺太アイヌのうたが多くされており、アイヌ以外はオロッコ、ギリヤークのうたがわずかに二曲だけ収められている。このオロッコというのはアイヌ民族ウィルタ民族を読んでいたときの名称らしく、またオロチョンとも呼ばれてもいたが、ともに当のウィルタ民族からすれば不適切な呼び名である(この呼び名にについては解説書でも触れている)。道内アイヌ樺太アイヌの音楽に関しては今では耳にすることができないうたの質がここでは聞き取れる。拙著『縄文の音』にも彼らのうたに関して多くのページを割いているが、このCDに耳を傾け、うたとは何なのかということを問うて欲しい。
 実は私が縄文鼓復元のために海外を行脚していたとき、このプロジェクトのプロデューサーとして日本で奔走してくれていたパートナーの桃山晴衣は、アイヌ民族の芸能に興味をもっていたことから北海道に赴き様々な人と交流を持っていた。84年かの女は知人の紹介で網走のジャッカドフニを訪問し、そこで樺太アイヌのシャーマンでトンコリ奏者でもあった金谷フサさんと夫の栄二郎さん、そしてゲンダーヌさんと意気投合し、桃山は三味線を披露し金谷さんたちはうたやトンコリを披露してくれたという。我が家にはそのときゲンダーヌさんが桃山に作ってくれたウィルタ民族の伝統的な切り紙が今も残っている。金谷フサさん、ゲンダーヌさん、共にすでに精霊たちのもとに逝かれた。
 テレビではオリンピック中継の合間に、戦没者慰霊祭が中継で流されていた。沖縄の戦没者はもちろんのこと、ウィルタ民族や北方少数民族戦没者のことをどれだけの日本人が知っているだろうか。音楽の背後にあるものをあらためて考えさせられた1日だった。


写真:上はゲンダーヌさんからいただいた切り絵/下は左からゲンダーヌさん、金谷栄二郎さん、桃山晴衣、金谷フサさん。(この出会いの数日後、ゲンダーヌさんは故人となられてしまった)