グロトフスキとピナ・バウシュ

  

[グロトフスキ協会のある通りとブルックの「フラグメント」ポスター]

  ピーター・ブルックの薦めでグロトフスキのプロジェクトに参加するため、ポーランドヴロツワフというまったく聞き慣れない町を初めて訪れたのは1979年の秋だった。ブルックと並び20世紀の演劇界を変革してきたグロトフスキは、この頃すでに演劇や演出という枠を越え、ヴロツワフ郊外の森に数人の役者たちと同居し、行を通して未知の人間探究に明け暮れていた。数名の観客しか入れないためポーランド人でさえ観た人は稀だという彼の伝説と化した演劇はもちろんのこと、グロトフスキその人についてもほとんど前知識のないままプロジェクトに参加した私は、数日間を外国からの参加者数名とともに肉体的苦痛を味わいながら行を遂行したが、その試みの深部まで把握することはできなかった。ただ、隙間だらけの木造家屋に呼ばれ、柱時計の音だけが異様に鳴りひびいて聴こえる沈黙の部屋で、パンチョをはおり、長髪に無精髭、強度の眼鏡をかけ、パイプを燻らせたグロトフスキと初めて対面した時の強烈な印象はいまでも強く心に焼き付いている。グロトフスキはこの森での活動を数年続けた後、1983年にポーランドを離れ、しばしアメリカ各地の大学で教え、新たな拠点とし活動を続けていたイタリアのポンテデラで1999年に逝去した。
 ブロツワフではグロトフスキ没後10周年にあたる今年、60年代から70年代にかけてグロトフスキと親交があった演出家や劇団を世界各地から招聘し、「真実の場としての世界」と称する国際演劇フェスティバルを6月14日から30日にわたって開催した。参加者およびグループには、バルバのオディン・シアター、リチャード・シェクナー率いる上海演劇アカデミー、ギリシャのテオドロス・テルゾポウロス率いるアッティス劇団、鈴木忠志のSCOT、ポーランドのクリスチャン・ルパの劇団、ドイツからはピナ・バウシュ舞踊団、そしてピーター・ブルックといった顔ぶれが並ぶ。
 ブルックはここでベケットの短編集を三人の俳優で再構成した「フラグメント」を上演した。前作の「幸せな日々」よりもさらに舞台装置は少なくなっており、三人の俳優の微妙な台詞と動きがユーモアを交えた緊張と弛緩を繰り返すこの作品でもベケット語を巧みに肉付けしたブルックの演出が冴えていた。
 ところで、私がヴロツワフに来たのはこの作品を観るためではなく、今年の秋から上演が予定されるブルックの新作「11&12」の準備のためである。この作品は前回の「ティエルノ・ボカール」を英語版にし、脚色、俳優を全面的に変え、音楽を私が一人で受け持つ。イスラエル在住のパレスチナ人、イギリス在住のナイジェリア、ジンバウォエ人、スイス在住のバスク人など、非常に複雑な個人史を持つ10人の役者たちとこれからしばらくはここで準備を進めるのだ。また本作品はブッフ・ドュ・ノールとバービカン・シアターに加え、グロトフスキ協会が共同製作に加わっていることから、ヴロツワフが最初の準備の場所となったわけである。

[ピナ・バウシュ舞踊団公演の切符とオペラ座]

 私たちのリハーサル準備が始まる頃、フェスティバルは大詰めに入り、最後のプログラムはピーターや私と親交のあったピナ・バウシュ舞踊団の「ネフェス」が上演され、オペラ座に招待された。ダンサーの一人、シャンタラ(ブルックのハムレットでオフェリア役をやったインド人女性)が出ていることもあり、ピナとも再会出来るものと楽しみに出かけたのだが、残念ながらピナの姿は見えなかった。公演の後、シャンタラからピナの見えなかったわけを聞いたが、少し疲れていてこれなかったということだった。
 信じられない訃報が舞い込んだのはその翌日、午後のリハーサル中だった。シャンタラからピーターへの電話で「ピナがi今日亡くなったの」という知らせだった。五日程前から体調がすぐれず病院で検査を受け初めて癌だったことを知ってなくなったという。そしてこのことはシャンタラはもちろんのこと、彼らが舞台に徹することができるようダンサーたちには一切告げなかったらしい。ピーターとマリエレーヌと久しぶりに再会し生前の桃山晴衣を偲んでいた矢先の出来事である。リハは一時中断し、私たちはしばし言葉を失った。昨日観た公演が明け、ピナは昇天したのだ。まさにピナ・バウシュ舞踊団の最後の公演に立ち会っていたわけである。ピナとはブルック劇団とも付き合いの深かったトマス・エルドスを通して随分前から知り合っていた。パリでも日本でも桃山と二人でトマスやピナと静かなひとときを過ごしたことが思い出される。そのトマスが最初に逝き、次いで桃山、そして後を追うようにピナが。ピナは桃山より一つ年下、五日間の入院後に亡くなったのは全く同じである。私にはどうしても二人の女性の影が一つに重なって見えてくる。