野尻抱影が書いた鹿島清兵衛との出会い

 桃山晴衣の遺した添田知道関係の書物に「素面(すめん)」という機関誌が多くある。この「素面」は、知道師が同行者とともに昭和36年(1961年)から昭和55年(1980年)まで、20年間にわたって発刊してきた同行誌(知道師は同人とよばず、お遍路用語の同行を好んだ)で、知道師の逝去された年の「添田知道追悼記念号」を以て終巻となっている。随筆や短歌、詩などがさまざまな同行者から寄せられ、実に多彩な内容が網羅されており、こんな人までという驚きもある。桃山も65号(1977年)に「日常生活と「イキ・呼吸・マ」」という文章を寄せている。

これらの同行誌に目を通していると、こんな人までがという一人の寄稿者に野尻抱影(1885年 - 1977年)の名があった。よく知られた英文学者にして天文民俗学者、そして名随筆家で、「素面」には何回か寄稿されているが、とりわけハッと驚いたのは、桃山晴衣の大叔父にあたる鹿島清兵衛と妻のポンタのことが書かれてある文章である。これを寄稿しているのが1976年とあるので、野尻抱影翁の逝去する一年前の随筆ということになる。そこでは抱影が鹿島清兵衛とポンタの経営する写真館を訪れたときの様子が描かれている。添田知道師、鹿島清兵衛に野尻抱影が加わってくるとおちおちしていられない。ともあれこの貴重な翁の文章をそのまま以下に紹介しておこう。

「河庄」 野尻抱影
申すまでもなく、『天の網島』の舞台に出る新地の茶屋で、先夜の文楽でも門行燈に「河庄」とのびやかな字を見た。むろん「カワショウ」で、原作でも半二の脚色でも同じ読みだが、ただ私は「カワショ」と言いつけている。
 先代鴈治郎明治44年5月に17年ぶりに東上して、新富座で最初の「河庄」を演じ、大当たりを取った。粉屋孫右エ門は名優梅玉、小春は芝雀である。その時に花道の出で、例のシャーシャー声で、確かに「侍客にてカワショカタ」と言った。これを「カワショウ」と言ったのでは間延びがする。(鴈治郎はどうだか、文楽の語り口はどうだか、確かめていないが)
 「魂抜けてとぼとぼうかうかうか」の草履のくだりも、末広座の型というのをわざわざ見に出かけたものである。ところで、ここに書く河庄は、明治42年の春、春木座で見たもので、鴈治郎のはずはない。或は新派の喜多村緑郎で、小春が河合武雄だったかも知れないが、調べないと判らない。私はその前年、甲府の教師になっていたのが春休みに帰京して、夜、今いうガールフレンドと電車で立見に行った。
 彼女は平塚雷鳥もでた麹町の文芸学院の女学生で、モガの走りだった。そのグループの金色夜叉の試演には、お宮と、二役の女アイスでは黒眼鏡をかけ、パラソルをついただけで、シャンシャンとやり、喝采された。
 鉄棒の立見席で、ゆっくり観られた。私は満足したが、彼女は口をたたいて生ま欠伸を隠していた。終わると、この近くでポンタが旦那さんと写真館をやっていると新聞に出てたから、寄って写して貰いましょうと言い出した。
 私は直ぐ山国に帰るので、これは河庄の好い記念になると賛成したが、ポンタの名がいきなり飛び出したのにはびっくりした。明治美人伝の筆頭で、写真大尽とよばれた鹿島屋清兵衛と艶名を歌われたことぐらいは聞いていたが、その夫妻が新橋には遠いこの本郷春木町へ流れてきたのは世を忍ぶ身のあとや先き、よくせきの事情があってのことと思われた。しかし、世間知らずの書生っぽが好奇心ばかりむずむずしていたのは仕方がない。何を措いても、ポンタが見たかった。それに、夜間撮影というのもまだ珍しい時代だった。

<鹿島清兵衛とポンタこと恵津子夫妻:明治32年京都で写す/清兵衛を叔父とする桃山晴衣の父、鹿島大治長谷川伸に提供した貴重な写真>
 写真館は暗い横町にあった。ドアを押すとすぐ撮影室だったように思う。ガランとして、電燈の光も隅ずみまではとどいていなかった。中央に蛇腹で伸縮する大きな暗箱が三脚を張っていた。夫妻は丁寧に私達を迎えてくれた。70年も前のことで、印象はぼやけているが、清兵衛氏は清方描く円朝のような風貌ではなかったか?確か前垂れかけで、暗箱のうしろで黒い布をかぶっていた。ポンタは40がらみの上品なご新造で、小ぶりの丸まげに結い、姥桜どころか若々しい美人だった。大阪で小指を切って客に投げつけ、新橋に出てからも勝ち気でならしたというのだが、実にまめまめしく夫の助手として動き回り、私達を明治期に普通だった背景用の衝立の前に並べ立たせ、手を取らぬばかりにして位置を決めてくれた。こうしている間に、私はだんだん後悔めいたものを感じはじめた。零落しても曽て高名だった夫妻の前に、どこの馬のホネとも知れぬ書生っぽが、小生意気なモガと突っ立っている。それが済まない気持ちでいっぱいになって、早く時間が経ってくれと思ったのだ。
 やっと終わって、外の冷ややかな夜風に当たったときにはほっとした。彼女は、ポンタさんがフラッシュをぼっとやったときはつい目をつぶってしまった。きっとうまく写らなかったわといった。そして飯田橋までぶらぶら歩きながら、ポンタがまだ美しかったことや、この先、仕合せでいてくれればいいなどと、話して行って、別れの握手をした。
 甲府へは、彼女から、写真はやっぱり失敗でしたと送ってこなかった。撮影は成功でも、自尊心を傷つけられたためかもしれない。ともかくモガとしては美しいほうだった。私が東京に転勤してから、一度品川で見かけたことがある。子供を連れた令夫人で、サングラスをかけていた。昔の女アイスを思い出しておかしかったが、その蔭の目は、たぶん私と心づかなかったろう。
 最近、物識り博士、植原碧々亭から、鹿島清兵衛の失脚はマグネシュームの爆発で大火傷をしたからだと書いてきたので、思わずゾーッとした。春木町の撮影室がほの暗かったのは倖いだった。・・(素面63号1976年11月)