土取利行・邦楽番外地:岡山西大寺、京都メトロ大学公演から

 これまで我が立光学舎と東京の馬喰町ART+EAT、サウンドカフェ・ズミで行ってきた明治大正演歌・添田唖蝉坊、知道の世界、名付けて「土取利行・邦楽番外地」の公演を、初めて他県で本格的に行うことになった。

岡山・西大寺での「土取利行・邦楽番外地ライブ」
 その先頭を切ったのは岡山県、これまでも私のコンサートやレクチャーを何度か開催してくれている日高奉文氏の熱意あるプロデュースによるもので、会場には全国一といわれる裸祭で知られる西大寺の観音院が選ばれた。日高氏とは私が1977年だったか、ピーター・ブルック劇団で「ユビュ王」の公演をロンドンで行っていた時に、楽屋に訪ねて来たのが初めての出会い。役者志願者であった彼は、日本の演劇学校に限界を感じて、一人ロンドンに旅立ち異国の文化や演劇に触れ、学んだ後、帰国後は北海道の富良野塾創立メンバーとして活動し、1988年に私がブルック劇団で「マハーバーラタ」の東京公演を行った時に再会、以来ワークショップに顔を見せる様になり、しばし東京で桃山晴衣と私の仕事にも立ち会ったりしているうちに、今の岡山県西大寺に居をかまえるようになった。その岡山での活動先は、西大寺からかなり離れた地にある同県美星町の中世夢が原。高地の広い敷地に木造小屋や茅葺き家屋が立ち並ぶ、この中世テーマパークといった場所で、彼は地元の人たちと茅屋根を修復したり、草刈りをしたり、薪割りをしたりと、忙しく働く中、独自に数々のイヴェントをこの地で開催し、地元はいうに及ばず全国各地の人々に働きかけてきた。そして昨年は遂に中世夢が原の園長となり、開園記念事業として私と韓国の舞踊家キム・メジャさんとカンパニーのパーフォーマンスを開催し成功裏に収めた。そして今年、その園長を辞して企画者としての独自の道を歩むことになり、最初の企画として選んでくれたのが私の「邦楽番外地」だった。彼はこれまで私の演奏会やレクチャーを三度ほど、夢が原や岡山で開催してくれているが、今回の「邦楽番外地」は明治大正演歌という、一般には馴染みのない、企画者としては何とも人を説得しがたい難解な出し物、そのため半年前から岡山中を情報宣伝とチケット売りに奔走した。「演歌」という言葉は本当に誤解され続けてきた。そもそも明治時代に自由民権運動を推進してきた壮士達が、御法度となっていた政府批判の演説をカモフラージュさせる手段として始めた演説の歌が「演歌」だったのだが、大正12年関東大震災後にラジオやレコードなどが普及し、それまで読売(歌詞を書いた紙)を売って自らの足で人から人へと唄い歩いていた演歌師達も段々とラジオやレコード専用の歌手になったりと、歌の伝播形態が大きく変わりだし「演歌」の終焉時代を迎えたのであるが、流行歌や歌謡曲という言葉と並べて「演歌」という言葉が「艶歌」に変えられ、「演歌」=「艶歌」として歌謡曲の一ジャンルの如き扱いをされるにいたったのである。唖蝉坊はこうした演歌の名称の誤りについてこう記している。
 「流行歌の読売をすることを、その仲間で<演歌>と称し、その業者を演歌屋と称する。これは壮士節発生当初に於ける読売唄本が「自由演歌」と題したことに起因する。そして演歌とは歌を演ずるという程の意味である。新聞雑誌が誤って<艶歌>と称し、<演界屋>と伝えたるは、おそらく法界屋と混同したる滑稽でもある。私は大正8年より三年間にわたり、ささやかながら唯一の流行歌雑誌「演歌」を発刊して、これ等の誤りを正すべく微力をいたした。それより斯る滑稽は減じたが、その代わりに今では香具師(てきや)と類して演歌師などと称されるようになった。然し尚、演歌は法界節から生まれたなどと、したり顔をして説く者もあるから驚く。法界屋や改良剣舞が演歌の派生であることは本文に説いてあるから省くが、酒唖々々とした迷説の横行にはただ呆れるほかはない」(流行歌・明治大正史)
 このように大正時代からすでに「演歌」が正当に理解されず、とりわけ新聞・雑誌などのマスコミによって「艶歌」と称されるにいたり、その迷説、迷語が昭和歌謡曲から今日の歌謡曲にまで尾を引いているのである。そして現在、一般の人たちは「艶歌」が「演歌」だと、まったくの誤認に至っているのだから、土取利行が「演歌」を唄うなどといえば、「なんでまた・・」といったあきれた返事が返ってくるのも当然だろう。そんなリスクの大きい「演歌」コンサートを引き受けた日高氏であるが、やはり説得するのは苦労し、しかもお寺を借りれる日が金曜しかなかったため、土、日にしか来れない人が大勢いたことも問題だったと。

しかし、コンサート当日、西大寺観音院大広間にはぎっしりと150名を超す観客が集まった。中には「艶歌」と思って来た人もいただろうが、三味線を手に唖蝉坊の「あきらめ節」を唄い始めると皆耳をそばだて始めた。前日、やはり西大寺の五福座で唖蝉坊と演歌についての講座も持ったのでそれを聴いた人は「演歌」が何であるかがよくわかっただろうし、コンサートでも唖蝉坊と演歌については歌の合間を縫って説明していったので理解してくれたと思う。また音響、照明をプロが受け持ってくれたため、初めての本格的コンサートとなった。私がゲストに呼んだのは、夏の立光学舎でのコンサートに出演いただいた岡大介くんとベースの山脇正治氏、このトリオが絶妙な演歌サウンドを生み出した。客層もお年寄りから青年、子供まで実に多層で、非常に反応がよく、あっという間に二時間が過ぎた。良きボランティアスタッフにも恵まれ、半年間、炎天下を手書きのチケットを自らの足で売りに奔走した企画者、日高氏の労が報われた形で本当によかった。
 翌朝は岡山からスタッフ井上の車で京都へ直行。かつて70年代に京大西部講堂などを拠点に近藤等則などと活躍していただけに、いまだその頃のフリージャズやフリーインプロヴィゼーションのドラマー、パーカッショニストとしての面影を色濃くもたれているこの地でも土取利行の「演歌」の会というのは、やはりこれまでの私を知る人であればあるほど理解しがたい出来事だろう。会場は地下鉄京阪神丸太町駅の半地下入口に在る「クラブメトロ」、時代の趨勢か、かつては多く軒を並べていたジャズ喫茶に変わってここ数年、学生や若者達のDJスポットとして注目されてきた店で、最近では店内での踊りとからむ厄介な風営法に悩まされているとか。こうした風営法問題も、もとを辿れば演歌師たちの時代、町のあちこちで唄い踊れたものが禁止され、すべて室内に閉じ込められてしまったことと大いに関係する。ともあれ、ここは岡山とは異なるレクチャーとコンサートを分けた二部構成のプログラムで行った。一部では「Real Tokyo」の編集長で各種イヴェント、メディアのプロデューサーでもある小崎哲哉氏に対話を引き受けていただき進行した。小崎氏はこの日のために、わざわざ郡上立光学舎での「うた塾」に三日間足を運んでくれ「演歌」についても理解していただいていたので助かった。時間が短かったために多くは話せなかったものの、興味深い話もうかがえ、その一つに「音楽」という言葉が明治このかた意味もなく使われてきているという私の話に、実は「美術」という言葉もそうであり、なんとこの言葉が日本のメディアに登場し始めるのが、唖蝉坊の生誕の年だというもの。「音楽」「美術」というこの明治時代の産物、いわばそこに「西洋」をつけたこれらの言葉がさらに「芸術」という言葉にまとめられ、本来の日本の諸芸が言葉としても浮き立たないまま今日にいたっているのを改めて考えさせられる。小崎氏とはまたゆっくりこの辺のこともお話しできたらと思っている。二部の唄の会は、DJの若者も多く見えていたようだが、皆興味津々で聴いてくれ、唖蝉坊のうたが、遠い過去のものではなくまさに現代の日本を唄ったものだという実感を何人もの人から聴いた。今流行のヒポップやラップは60年代のフォークやロックと同じ様に半ば商業的に仕掛けられた欧米からの移入音楽であり、それが新しいものであるとの錯覚をうえつけられてしまっているのだが、明治の壮士たちによって唄われた「ダイナマイトドン」(1883)や演歌芝居の始まりともいえる川上音二郎の「オッペケペー」(1891)などは、無伴奏、高歌高吟の先駆的プロテストソングといえる。私がニューヨークでよくフリージャズドラマーのミルフォード・グレイブス宅で話をしていた時、このラップ・ミュージックについて彼がいっていたのは、かつてマルコムXや黒人闘争家の背後で彼らのスピーチを効果的にするために演奏していたのがラップといえるもので、当時は西アフリカの音楽に根ざしたアフロキューバン奏者がハンドドラムで素晴らしい演奏をして盛り上げていたと。また演説者の言葉にも内容があったが、今は彼の住んでいる黒人居住区のジャマイカ・クイーンズで流行っている機械仕掛けのラップからは当時の言葉の強さも美しさもないと批判的であった。唖蝉坊の演歌を唄いだしてから、この言葉、歌詞の鮮明さに惹かれることが多々あり、歌というものを考え直す大きなきっかけとなっているが、これも桃山晴衣が残してくれた大切な遺産だと受け止めている。
 このように60 年代からのアメリカンポップスに邁進してきた団塊の世代の大きな欠陥は、うたや音楽というものを器楽や伴奏の魅力のみで聞き流し、うたそのものを聴いて来なかったことにある。ビートルズにはじまり、ボブマレーにいたるこれらのポップスの英語の歌詞をどれほどの日本人が理解し歌えるだろうか。また現代音楽という新種のそれも器楽が優先であることは間違いない。こうして振返ってみるにわずか半世紀、いや四半世紀のうちに日本の「うた」は器楽と機械リズムの包装に「ラップ」されてしまっているのである。これまで私はパーカッションを主体に演奏活動を繰り広げてきたこともあり、このうたということに関しては真剣に考えて来なかったきらいがあるが、桃山晴衣と活動をともにするにいたって、彼女が「私が今うたえる歌がない」と繰り返していっていた意味がいまさらのように分かってきた。京都メトロに参加者の中に、大学生でカメルーンでピグミーの音楽調査を続けているという若者がいた。彼は何度かアフリカに通ってピグミーの歌の魅力に取り憑かれていくと同時に、今ひしひしと日本人として自分の歌が歌えない、また歌う歌がないことを痛感しているということだった。そして彼にとっても唖蝉坊の「演歌」は新鮮だったに違いない。明日の郡上立光学舎での「いろりわ」の会には彼らがピグミーの映像を持参してくれるそうで、歌の問題を日本と比較しながら考えるきっかけになるものと思う。また岡山西大寺での「演歌」の観客の反応が素晴らしく、企画者の日高氏から早速この11月25日に玉島の円通寺での演歌独演会のアンコールがあった。どうも当分唖蝉坊・知道師からは離れられないようだ。桃山の三味線からも。