スペイン風邪流行時の大空詩人・永井叔の創作

現在、世界で猛威を奮っている新型コロナの爆発的感染とスペイン風邪がよく比較される。100年ほど前のこの風邪の流行は第一次世界大戦の後半に始まり、1000万人の戦死者に対し5000万人の感染死者が出たと言われている。

1918年(大正7年)5月から7月に一波が来襲し、同年10月から翌1919年の5月までに勢いを増し、死者が多発した。そして再び3波が19年の暮れ12月から1920年5月まで続き終息に向かったという。

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朝鮮竜山、陸軍第20師団78連隊入営時の永井叔

 最近、コロナ禍で読み始め、唄い出した大空詩人・永井叔の詩篇「緑光土(おおぞら)」や作詞歌の数々は、先のスペイン風邪の時代に作られたものである。クリスチャンの永井は1918年、22歳で箱根の小学校の代用教員を務めるが、軍国主義の世で、子供たちに平和主義を唱えて辞職に追いやらえる。この年の12月に徴兵検査甲種合格となり、朝鮮第20師団78連隊に入営させられる。スペイン風が猛威を奮った時でもあり、彼は軍の看護卒として従事した。しかし反戦平和主義者の彼は、上官にはむかい重営倉に入れられる。そこでは酷寒で足の裏が凍傷になるため「朝鮮侵略踊り」「天皇の命に従うこと能わずダンス」「植民地主義絶対反対舞踊」「おお、我らに天の自由を与えよ・・・民主主義万歳踊り」などを踊り、営倉の暗く陰惨な壁にウイリアム・ブレークの深い画を幻想し刻印したりした。やがて1920年1月27日に軍法会議で上官侮辱、兵器使用上官暴行、哨例違反の罪で、禁固2年の判決がくだされ、小倉の監獄に送られ受難の日々を過ごす。この時期に湧き立つように生まれたのが詩篇「緑光土」やそれに伴う詩曲であった、そしてこの監獄では時の長が書くことを許してくれたためこれらの詩や歌が運よく残ったのである。そして獄中生活を終えた永井が次に送られたのが、竜山の78連隊でなく、竜山衛 病院へ帰院。在獄中の無理がたたり永井自身、脚気状態、腹部にひどい赤痢、大腸カタルといった満身創痍だったため医正から釜山の温泉療養の許可を受ける。療養後、内科診療室勤務になったが、軍医学校の卒業生たちは治療のラチが開かず、永井を軍医看護卒殿と敬語で呼ぶようになる。永井は外科や伝染病室の順で勤務を続けたが、先述の感染病で、看護下で十数人の死者、そして結核隔離部屋では誰の看護も受けられず見放されて死ぬ人が。「何たる陰惨!軍医も看護卒も皆、その陰鬱な病室を嫌ってさけ、朝鮮という遠隔地に内地からの見舞いも来なかった。或る薄ら寒い、冷たい朝、ベッドからコンクリートのたたきへ転げ落ちたまま蒼白い屍になっていた病兵もいたが、何たる悲惨!」看護卒や看護婦は忙しい死後の処置を好まず、むやみにカンフルを注射し、安楽死にむかう患者を次の当番にまわそうと、自分の勤務時間には死なせまいと図る。こうして、死んで逝った兵らを前に、屍室の番や汚物、血膿を含んだガーゼ、綿、繃帯などの焼却係を努めながら、永井叔は詩作を続けた。瀕死室の夜更、屍を前に作った歌が「歓楽の行方」であった。

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