新年に思い、想う

 1987年、私と桃山晴衣郡上市八幡町に立光学舎を設立したとき、今で云うインディーズレーベル、立光学舎レーベルなるものを作った。その時に、マニフェストとでもいうべきレーベル設立の趣旨を以下のように記した。

●個としての必然、その深さが、普遍性を持つこと。
●足下をしっかりと踏まえた創造。
その充足が、隣人を受け入れるやわらかさを持つこと。

 これは「マハーバーラタ」の音楽製作でインド、ベンガル地方タゴール学園で多くを学んだ私と、子供の頃からタゴールの書を座右の書としていた父上に学んだ桃山が、タゴールの文化への考え方に共感して表したマニフェストでもある。
 この言葉をことさらに思い浮かべたのは、年末から新年にかけてどこにも出かけず静かに桃山晴衣の残した音源や書き物をずっと整理していたからである。その数々の音源の中に、彼女が十年近く唯一の内弟子として古曲宮薗節の師、四世宮薗千寿(人間国宝)のもとで腕を磨いていた時期の録音テープがあった。60年から70年代の頃のもので決して良い録音ではないが、千寿師匠のなんとも幽遠な三味線の音と初々しいとも云える桃山のうた声が聞け、伝承されゆく芸の奥深さと尊さがひしひしと感じられるものである。
 桃山が三味線を手にし、長唄などを口づさみ出したのは六才か七才。十九才の頃池袋に住んでいた彼女は天才と騒がれ、1960年には父、鹿島大治氏の後見で桃山流を創立し、家元の師匠となっていた。この桃山流は父上と江戸軟文学研究者の尾崎久弥が共同で取り組んだ文化文政の頃の流行歌、都々逸の起源といわれる「神戸節(ごうどぶし)」などの復元曲から端唄、小唄までと幅広く、そのレパートリーには宮薗節も入っていた。宮薗節は祖母で古曲、とりわけ河東節や宮薗節の名手だった鹿島満寿や、三世宮薗千之を受け継ぐ名人だったが若くして夭折してしまった叔母を持つ家系だったこともあり父上からも伝授されていた。そして桃山流の師匠でもあったにもかかわらず、さらに幼い頃からの憧れでもあった宮薗節を本格的に習うために四世宮薗千寿の門を叩き、ただ一人の内弟子となって修行を続けたのである。(宮薗節は江戸末期より千之派と千寿派の二派が続いており、桃山の家系は千之派であったが、桃山自身は千寿派の修行をした)

桃山晴衣の師、四世・宮薗千寿と宮薗千恵の数少ない演奏記録」
この様に二つの派の違いを身体で覚え知っていた者は当時でも皆無にちかかったであろうが、桃山にとっては流派の違いよりも宮薗千寿という師匠そのものの存在と芸に惹かれて入門したにすぎなかった。しかし桃山晴衣は素晴らしい師から学べたことの幸せと同時に、果たしてこの宮薗節というほとんど日本人にとって無縁となってしまっている浄瑠璃をどう伝えていけばよいのかという自問自答を持ち続けた。至芸ともいえる浄瑠璃とはいえ、その歌詞の内容は近松に代表される心中ものが大半を占め、現代の人々とは響き合えないし、家元制度をかかえこむ邦楽界で自分が生きていくことにも大きな疑問を持った。
 彼女はこうした問題を考えるために、邦楽界とは無縁の人たちと話し合いをするための「於晴会」を定期的に開き、最初は安田武秋山清添田知道、円城寺清臣、徳川義親、加太こうじなど、明治、大正生まれの信じられないような大先輩たちがご意見番として集まった。以後、この会は様々なジャンルの人たちに受け継がれ、桃山は宮薗節や端唄、小唄、俗曲などの演奏、さらには「古典と継承シリーズ」と題し、平曲の井野川検校、新内の岡本文弥などを招いたり、落語家の桂小文枝(五代目桂文枝)とのコラボを行うなど、語り芸についての追求を続け、やがて「婉という女」(大原富枝原作)を現代語りで発表し、三味線で現代詩をうたうなど、世界を広げて行った。そして81年、桃山の代名詞ともなった「梁塵秘抄」を、興行師を入れず日本全国の地方の人々と共に作り上げて行くという彼女の「うたの在るべき姿」の理想を一歩一歩実現して行った。
 私が彼女と出会ったのは、こうした長い道のりを経て「梁塵秘抄」の全国ツアーを終わらせ、パリに滞在していた頃である。先に説明したような彼女の経歴も知らない私はちょうどパリを訪れていた音楽評論家の竹田賢一氏の薦めもあって、マンダパという小さなスタジオで桃山晴衣の演奏会を初めて聞いた。この時の印象はすでにこのブログでも書いたので略すが、それは日本音楽でありながらオリジナリティーを持つ、桃山晴衣の音楽世界そのものだった。
 「マハーバーラタ」の音楽製作のためインドを行き来していた私が、このとき重い腰を上げて桃山のコンサートに出かけたのも不思議ではあるが、この時の出会いがなければそれ以後の二人の活動は大きく変わっていたであろう。これも後から知ったことであるが、このパリ滞在中、桃山は日本で一度誘われていたデレク・ベイリーとの即興演奏もできればと、イギリスまで手紙を出し、体調を崩していたデレクから丁寧な詫び状をいただいたということもあったそうだ。常に進行形だった桃山がこの時に興味を示していたのがデレクや私たちが行っていたフリー・インプロビゼーションで、この世界だけは全くの未開拓領域であった。と同時に私にとっても邦楽と呼ばれる世界の紋切り型の音楽家や現代邦楽とよばれる西洋音楽を基に仕立てたモダンな音楽にはなじめず、ずっと日本の伝統音楽家とは無縁にならざるを得ない状態だった。
 竹田賢一氏が東京に帰りこの翌年1983年には桃山の活動拠点の一つでもあったスタジオ200で、この異色の二人の演奏会を計画してくれ、このときにあるきっかけで私たちは「銅鐸」と巡り会い古代へと遡り音楽を追究し始めることにもなり、やがて、87年に二人の音楽活動の拠点である「立光学舎」を郡上八幡に設け、そこで日本音楽や芸能についてのさらなる再考を始めることになった。10年間に及ぶ地元での農民歌舞伎の俳優や子供たちとの創造活動など、立光学舎での活動についてはほとんど知られていないが、日本芸能や文化の再生を実践してきた桃山にとって、ここでの地元の人たちとの創造活動こそ彼女の理想に近いものだったのではないかと思えるほど精力を注ぎ込み真剣だった。いずれ時間をかけて、ここでの活動についても十分に書き残しておかなければと思っている。
 ピーター・ブルック桃山晴衣の音楽やうたについて、伝統音楽でありながら、それは模倣型、紋切り型の日本音楽ではなく、最も深いところから湧き出てくる伝統音楽であり、世界のどんな人の心もとらえることができるものだと語っている。ちなみに私とイランの弦楽器奏者マモード・タブリジ=ザデーも参加したブルックの「テンペスト」では三ヶ月にわたって桃山はアフリカ人俳優が演じるアリエールのうたを中心として世界各国の役者にうたを教えて来た。もちろん楽譜などない。そしてこの劇では最後のプロスペロ独白のシーンで桃山の梁塵秘抄の名曲「遊びをせんとや」が採用された。また桃山はムヌシュキンの太陽劇団のワークショップでも一ヶ月にわたる指導を託され、親交もあったピナ・バウシュも彼女のうたを愛していた。

ピーター・ブルック演出「テンペスト」でアフリカ人俳優のバカリ・サンガレがうたった桃山作曲のアリエールソング。
幻のバンドMOMOで自らうたった貴重音源です」



 と、まあ長々と書いて来たが、冒頭に掲げた数行のマニフェストの意味がこれで少しでもご理解いただければ幸いである。

念のためにもう一度以下に掲げておこう。

●個としての必然、その深さが、普遍性を持つこと。
●足下をしっかりと踏まえた創造。
その充足が、隣人を受け入れるやわらかさを持つこと。

これはタゴールの伝統文化に対する考え方に影響をうけたと先に書いたが、行動と実践で示した桃山晴衣の肉声でもあった。彼女のことばを噛み締めることになった暮れから新年の幕開けでした。