桃山晴衣の音の足跡(1)

今年の一月は寒さが一段と厳しかった。雪が降っては積もり、凍っては融けてと、幾度も同じ現象がくりかえされ、いまに至っている。こんな寒さの中ではコンピューターも冷えきってしまい、ワープロを打つ手もかじかんでしまうためブログもついつい先延ばしになってしまう。
 前回のブログで書いたように、今年は、昨年、外国にいて出来なかった桃山晴衣の残した多くの書き物や音源の整理を続け、何らかの形で残していきたいと思っている。彼女の足跡を辿ることは日本音楽の歴史を辿ることでもあり、明治、大正、昭和、平成という西洋近代に追いつけ追い越せ時代を通しての、日本音楽の異常な歪みを再確認する作業ともなりうるはずである。
 桃山晴衣は生前、自分の活動の変化に即した個人の機関誌を発刊してきている。実際には父、鹿島大治氏の後見で桃山流を形成していた頃にも「鹿の子ぐさ」という会報などを出していたが、桃山晴衣として独自の活動を始めた1975年頃からの「於晴会」の機関誌ともいえる「桃之夭夭」に始まり、私と出あってからの個人機関誌「苑」そして郡上八幡の立光学舎を創立してから発刊してきた「立光学舎通信」、さらに昇天するまでの期間に発行していた個人活動誌「桃絃郷」と、実に多くの機関誌を発刊し、文章を書き残してきている。

 

 




























桃山がこうした機関誌にこだわってきたのは、彼女が理想とする音楽の在りようを実現していくのにこれらが欠かせない媒体であったからだ。内弟子修行をして宮薗節の奥義を極めていく中で、いわゆる邦楽世界の閉ざされた世界の中に残るべきか否かを、自問自答を繰り返す中、家元を止め、桃山晴衣という一個人の音楽家として旅立つことを決意したとき、彼女はこれまでの邦楽界といわれる世界のきまりきった聴衆ではなく、まったく邦楽も三味線も聞いたことも、見たこともない、様々な人たち、とりわけ若者たちに向けて自らの音楽を発して行かなければならなかった。邦楽や三味線という言葉で「四畳半的世界」を思い浮かべて思考停止してしまう、洗脳とさえ思えるほどの日本人の自虐的ともいえる音楽感。(こうした考えの背後に明治維新以来の西洋音楽史上主義が根幹にあることは否めないのだが)このような時代の過酷な状況の中での活動を自らに課しながらも、彼女は「残さなければならないもの、伝えなければならないもの」を強く自覚していた。それは、うたと語りの伝承と、五線譜に頼らない自然発声のうたい、語りかた、伝え方という、日本伝統音楽にとっての最も根幹となる問題であった。この頃、民族音楽学者の小泉文夫氏も同じような問題提起を、日本の音楽教育批判を顕著に記した「おたまじゃくし無用論」というセンセーショナルな本で問いかけていたこともあり、桃山は小泉氏とも何度か話しあっている。伝統音楽の何が必要で、何が不必要なのか、それを理解してもらうためにまず彼女が始めたことは平曲や地唄浄瑠璃や落語界から名人を招いて、本来なら国立劇場などで襟をただして聞かなければならないような古典芸能をジーンズをはいてロックしか耳にしていない若者たちにも親しんでもらいたいと、ジャンジャンなどのライブハウスなどで紹介すると同時に、個人的にはこうした会を通して新しい音楽の可能性をも模索し始めていた。そして懸命な一般の参加者たちへの働きかけを通して、桃山晴衣のオリジナル作品は徐々に萌芽を見せ始めていくのである。これらの作品については時を追って記すつもりであるが、この時点から彼女は自分の演奏会や活動に参加してくれる人たちと場を共にし、語り合い、うたい合い、日本音楽の可能性を模索し続けてきた。そして彼女にとってはこうした人たちに向けて歌うことも機関誌を通じて様々なことを伝え合うことも同じ意味をもった。
 「生身の人間同士が、じかに伝え合えること」を理想とした桃山は、三味線を持って全国を行脚しては未知の人たちとの出会いを求めて音楽活動を展開し、機関誌を通してその人たちに向けての多くのメッセージを送り続けたのである。
 桃山晴衣の脱皮時代ともいえる70年代のジャンジャンでの活動を何度も目にしている作家の五木寛之氏は、かつて桃山について以下のような文章を残されている。
「伝統の継承は、困難であっても不可能な道ではない。古典の再生もそうだ。しかし、そのふたつを同時に同時代の音楽として作り出す道はけわしい。桃山さんは、そのふたつの道をあえて歩き続けてきた。伝説を生み、さらにそこから再出発し、新しい伝説のアーティストとして無限の旅を続ける桃山晴衣のうしろ姿に、不屈のアーティスト魂を見る思いがするのは、私だけだろうか」と。