桃山晴衣の音の足跡(29)具わる年令を超えた芸格

「何人目かの稽古中にソッと抜け出し、地下街のバーで、ハイボールをひっかけて戻ってくると、エレベーターを降りるや否や、彼女の唄が聴えてきた。ビルディングで、音響の効果がいいのか、彼女の声がビンビン響いてくる。これも後でわかったことだが、何もビルのなかだから、殊更に声が反響したわけではなく、彼女の声量が、そもそも大きいのである。普通に発声すれば、かなり大きな声になる。それを殺して唄っている。部屋に入らず、廊下に立って、三階の窓から、斜め向いのデパート・オリエンタル・ナカムラのネオン・サインを眺めながら、暫く、彼女のその声量ある唄に聞き惚れていた。小節で妙に気取った廻し方などしない、素直で大胆な唄い方である。本格的だ。」
 「翌朝、私の懇望で、ふたたび三味線を膝にのせた時、その瞬間から彼女は、もちろんハイティーンではなく、二十三歳ですらなかった。父親のアトリエの乱雑な絵具箱の前に坐り込んで、いくつかの古曲や小唄を、私のために演奏してくれる彼女の姿全体に、年令を超えた芸格が、リンとして具わるのである。それが何であれ、一流の芸を聴く時の心構えに、私の方もおのずとなってゆくのだ。ハイティーンのような日常生活のなかの彼女と、ひと度三味線を手にした時の彼女と、鮮やかというか、ミゴトなというべきか、際だった“変身”に、私は幾たびも、戸惑いながら、その都度、胸を叩かれるようなショックを受けるのだった。」

<二十代の桃山晴衣
「私は、いま桃山晴慧の演奏した古曲や小唄のテープを持っている。二日目の夜に録音してきたものである。帰京して以来、多少とも歌曲に趣味をもつ何人かの友人に、そのテープをきかせた。演奏者が、二十三歳の、いってみれば小娘だ、ということを、誰も信じようとしない。」

 以上の文章は安田武氏が1963年に「思想の科学」で発表した「桃山晴慧論」からの抜粋で、二十代の桃山の芸風を目の当たりにしたときの様子を書いたものだ。
 私が桃山と出会い、活動を共にするようになったのは、すでに彼女が邦楽界から飛翔し、「梁塵秘抄」で桃山晴衣のスタイルとでもいうべきものを形成していた頃からなので、それ以前の、このブログで書き連ねてきた彼女の活動についてはほとんど詳しく知らなかった。というよりも彼女自身、常に前進していて、過去のことについてあれこれ話すことも少なかったからである。
 このブログやyoutube桃山晴衣の音の足跡を発表することになったのは、三年前に彼女が夭折してから遺した物を整理しているうちに、私の知らなかった邦楽に関する書き物や父、鹿島大治氏との時代の音楽記録など、あまりにも貴重なものが山積みされていて、事実今は私自身が勉強させてもらうつもりでこれらを更新し続けている。
 音楽を文章で書くことがどれほど困難なことか。そしてどれほど巧みに書かれた文章であれ、そこから音を汲み取ることがいかに難しいことであるか。おそらく安田武氏が「演奏者が、二十三歳の、いってみれば小娘だ、ということを、誰も信じようとしない。」と書いたこの文章から、私たちはどんな桃山晴衣の演奏を思い浮かべることができるだろうか。小唄の評論家英十三、新内の岡本文弥、演歌師の添田知道といった明治の風狂人たちを虜にしたといっても過言でない桃山の芸とはどんなものだったのだろうか。
 百聞は一見にしかず、ではなく、百聞は一聴にしかず。その桃山晴衣の二十代の芸風を伝える記録が、整理中の音源資料のなかに残っていたのである。
 1961年に東海テレビの「小唄ごよみ」という番組に初出演した際に録音された桃山晴衣21歳の時の演奏である。

東海テレビ「小唄ごよみ」に英十三氏と出演>
小唄がテレビのレギュラー番組になっていたということも今では考えられないことだが、この出演によって桃山は東海地方で広く知られるようにもなっていった。というのもこの初出演の際に演奏した曲が、それこそ安田武氏の書いた「小娘だ、ということを誰も信じようとしない」ほど新鮮で円熟味のあるものだったからだ。
 「小唄ごよみ」という番組がいつ頃から始まり、いつまで続いたのかは知らないが、この初出演以来、桃山はレギュラー出演するようになる。その初出演の時は、司会が東海地方の舞踊家、内田るり子氏で、ゲストの桃山が小唄を演奏するという流れであった。当時はまだビデオテープなどなかったので、放送局がこのときの演奏をリールテープで録音してくれていたのと、出演写真もきちんと撮ってくれていたのが幸いだった。そして彼女が初舞台で選んだ小唄の一番目が「愚痴を舞う」。

誰もが平易に口ずさめる小唄ではなく、作詞が伊東深水、作曲が杵屋六左衛門という、いぶし銀のうたを披露したのである。私自身、これが小唄だとは思えず、宮薗節のような古曲に聴こえる。そしてこれが21歳の桃山晴衣の弾き語りであるとは、安田武氏ではないが、誰も信じようとしないのではないだろうか。

そして二曲目がうってかわって軽快な鈴木秀雄の作詞で佐橋八重作曲のこれはよく知られた「河太郎」であるが、この弾き語りも三味線の妙が冴える。そして三曲目が父、鹿島大治氏の曲で「花のみか」。三曲がそれぞれに異なる味わいをもった小唄を選曲したのは、二十一歳の家元、桃山晴慧であるが、とりわけ最初に発表した「愚痴を舞う」の唄いぶりは、その後の彼女のうたの姿勢を指し示すかのような感性の兆しを放っている。桃山はこの時、桃山流家元となり多くの弟子を抱えていたし、この年か翌年に桃山流創立記念の大演奏会をもっているが、この師匠業をよそに、その五年後に自らの芸をさらに磨く為に四世宮薗千寿師のもとで内弟子修業に専念し、叔母からもならっていた古曲の奥義を極める。この宮薗節も極めて難しい弾き語りによって、自らの会で演奏を続けてきているが、この古曲の世界からも去り、さらなる衆のうたを求めて、虚空遍歴を続けたのである。こうして桃山晴衣の芸歴を振り返ってみると、私が長年一緒に仕事をしてきた演出家ピーター・ブルックの「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という言葉を思い出す。生きた舞台を作る為にブルックはこの言葉を実行し、生きたうたを唄う為に、桃山晴衣はこの言葉を実行した。稀なアーティストだったのだと、いまさらながら思うのである。
 安田武氏の「桃山晴慧論」から24年後、ノンフィクション作家の森彰英氏は「実感的演歌論」の中で桃山晴衣のコンサートについてこう書いている。

<スタジオ200でのコンサート>
 「◇具わる年令を超えた芸格◇ 十月に入ったある夜、池袋・西武百貨店のスタジオ200で、桃山晴衣のソロコンサートを聴いた。この女性邦楽ミュージシャンは三味線を中心に古曲長唄、小唄、民俗音楽などで幅広く活躍し、独自の境地を極めている。現在四十八歳。桃山流を創立し、家元になったのは、彼女が二十一歳の時だという。この人の名前を知ったのは、ずいぶん昔だった。昨年世を去った評論家の安田武氏が、昭和三十八年に彼女を名古屋に訪ね、「二十三歳の女家元」という文章を書いたのを読んだからだ。新内の岡本文弥の「芸渡世」という著作の中に菜美子という女性がでてくる。これは誰かモデルがいるのではないかと安田氏は探り出し、ご対面となる。前夜、二人で酒を飲んで「川は流れる」などをハミングしていた若い女性が、翌日、三味線を膝にのせた時、まったく変身するあたりの描写が印象的だった。(上記の安田氏の文章)
 その後、桃山晴衣が家元をやめ、音楽学者の小泉文夫中村とうよう芸能山城組などと交流したり、ヨーロッパ、アジアのミュージシャンとジョイントする活動ぶりは知っていた。LP「梁塵秘抄」「鬼の女の子守唄」も所蔵している。だが実物と肉声に接したのは今回が始めてだった。
 小柄な彼女は若々しく、その雰囲気がかつての美空ひばりに似ているような気もした。しっとりした三味線の爪弾きから始まり、アイヌから採集した歌唱や、やはりアイヌに伝承される楽器の演奏、さらには自分で作曲したバラード風の曲を歌い上げるなど、多彩な内容だった 
「男は黙って縄目にかかり、女に抱かれて眠るのだ・・(「縄」)、「鬼の私も年老いて今宵も何やら寝つかれず、昔喰ろうた人間の男の数等指折り数え・・(「鬼の女の子守唄」)などは、心の深層をとらえた演歌と言ってよい。もっとも桃山晴衣自身、演歌について深い関心を寄せ、係わりを持ったことを自伝『恋ひ恋ひて・うた・三絃』を呼んで知った。
 「私は社会背景や、人と人のかかわりがひとつの歌に関連しているさまも知りたかったし時代をへた演歌の変遷にも興味があった」という彼女は、演歌作者で、演歌の創始者添田唖蝉坊を父に持つ添田知道に師事した。
 「唖蝉坊そのものが、演歌をより音楽的な方向へといざなった人であったが、演歌師の中には、女も、夫婦連れも、音楽学校へ通っている正統派の人もいた。ちなみに唖蝉坊の歌は美声であったという。明治も終わり近く、神長暸月によって演歌にはバイオリンがつくようになった。それがセットになって定着したのはバイオリンが当時ハイカラで目新しい楽器だったからだろうか。添田知道先生はなんとかほかの楽器も使えないものかとウクレレを試してみたりしたことを話して、『だから三味線で演歌するのはちっともおかしくないんだよ』と云ってくれた」と、桃山晴衣は創生期の演歌についての開眼をこう書きとめている。昭和五十八年には「唖蝉坊と現代・演歌の原点をさぐる」と題してコンサートを催したと活動記録にある。(略)
 今年、インドを旅行し、各地で多彩なアーティストと交流を果たし、音楽、芸能を吸収した桃山晴衣は現在、岐阜県郡上八幡に今後の音楽活動の拠点を建設中という。さまざまなジャンルの音楽が練りあわされて、真に演歌と呼べるようなものが出てくることを期待しつつ見守りたい。(季刊SEVEN EIGHT)87年冬号
 この森彰英氏の文章は私たちが郡上八幡に立光学舎を設立した年に書かれたもので、翌年、私はブルック劇団とともに「マハーバーラタ」の最終公演を果たし、そのまま郡上に着いて桃山と一緒に、インド勢を招いてのフェスティバル開催となっていく。桃山晴衣のさらなる脱皮がここから再び始まるのである。それにしてもこれ以前の彼女の活動について、これからもいろいろと語ることが尽きそうにもなく、郡上での活動について書けるのはいつになることやら。
 なお、森彰英氏が触れていた演歌の添田知道添田唖蝉坊に関する演歌の会を近く11月の25日(金)と26日(土)の両日、おなじみの馬喰町ART&EATで開催する予定です。ゲストとして一日目は「添田唖蝉坊・知道/演歌二代風狂伝」の作家木村聖哉氏をお招きし、二日目は若き平成の演歌師岡大介君を招いて語り、唄いたいと思っています(私も桃山の形見の三味線を弾いて唄おうと思っています)。乞うご期待を。詳しい案内は決まり次第お知らせ致しますので今しばらくお待ち下さい。