吉田川、歌舞伎と神楽で秋の音連れ

郡上八幡の市街地は長良川、小駄良川、吉田川の三川が合流する水の町である。その吉田川を北に4キロほど上がってゆくと、我が立光学舎近郊の市島地区に辿り着く。
この市島地区には高雄神社が建立されていて、毎秋十月の第一土・日曜日に大祭が催される。祭りには朝から神輿の御旅と大神楽が奉納され、夜には恒例の高雄歌舞伎が上演されるのだが、昨年は稽古だけしか見ることができなかったため、今年は久しぶりに会場に足を運ぶことにした。

<高雄歌舞伎/恋飛脚大和往来>
 高雄歌舞伎は名が示す通り高雄神社で奉納、上演される地歌舞伎だった。だったというのは、歌舞伎そのものは継続されているのだが、本来神社の拝殿にある回り舞台で上演していた場所が、今では諸般の事情から小学校の体育館となっているからである。この高雄歌舞伎については後述するとして、その前に高雄と名のついた神社の由来について触れておこう。現在この神社は市島地区の平地に建つが、かつては神社を見下ろす東方の京塚山(高雄山)に鎮座していた。
 京塚山という字があてられているが、本来は経塚山と書かれるべきで、平安中期以降、仏教の末法時期に、来るべき法滅尽期に備え、教典を地下に埋め、修行中にある弥勒菩薩が56億7000万年たつと仏になって衆生を救うとされるため、その時まで教典を遺しておこうとタイムカプセル化したのが経塚の発生という。この平安末期の全国に広まった風潮がここ市島にも残っていて、このような名前が山の呼称となっているとのことだが、別名の高雄山というのはこの山に京都の高雄山寺神護寺の勧請で高雄権現が祀られていたからだという。しかし、この高雄神社の由来に関しては幾つかの説が伝えられており不明な点が多く、古くは当社が元暦元年(1184年)に、京都高雄山神護寺に模擬して、門野又平により勧請されたという説がある。それによれば、勧請された元暦元年には七堂伽藍が建ち並び参拝者で賑わったがそれも束の間、その繁盛が京の比叡山に届き妬まれて同年に焼き討ちにあってしまったという、信じがたい説である。またずっと下って天文(1532年〜1555年)初期に、吉田氏が高雄神社のある市島と川を挟んだ吉田郷に移り住み、近郷を領して高雄権現に七堂伽藍を再建したという説。さらに亨保十五年(1730年)には、本社が修復され、この時、十一面観音が紛失し、その観音像が盗まれて関の吉田(きった)観音にあるといわれ、それが門野又平に夢のお告げとしてあったというが、先の又平からすればすでに五、六百年が経っており、これにも首をかしげたくなる。そして延享二年(1745年)に大山咋命(くいのみこと)が合祀されるにおよび、同年に大野の明賢堂が建立され、里宮として新たな神が勧請され、祭日も変わる(二月九日の大祭が九月十九日に変えられたのだ)。これは隣村の大和の東氏と関係の深い大和の牧の明健神社との力関係があると考えられている。幾度も焼失にあっているこの神社は天保元年(1830年)にもその被害にあい、拝殿を焼失するも三年後に復興。こうした変遷を経て明治四十四年に京塚山の高雄社は合祀され現在の市島笹原の地に移り高雄神社となっている。現在の主祭神大山咋命で、和気清麿も祀られている。このように由来説に謎が多いのは平安末期から江戸までの間に起こった郡上での宗教的な争いや、戦国時代の領主間の争いに神や仏が翻弄され続けたことを物語っている。経塚山は郡上の大日岳や高賀山、白山などと同様に修験の山としてあったものが、真言宗天台宗、さらには郡上で大きな勢力を持つ浄土宗の力関係で、祀られる神や仏も姿形を変えざるを得なくなり、それが明治の廃仏毀釈で合祀されてしまっているのである。いずれにせよ現在祀られている大山咋命は、大山に杭をうつ神、大山の所有者であり比叡山延暦寺の守護神ともなっている山の神、やはり市島の人達にとっては山が神であることには間違いないであろう。

<高雄神社拝殿での高雄歌舞伎、昭和38年>
 さてこの高雄の名を冠した高雄歌舞伎だが、これはいつ頃から始まったのだろうか。地芝居、にわかともよばれる素人歌舞伎が郡上で始まったのは不明とされるが、天保年間の記録では歌舞伎ではなく祭り狂言と記されている。市島では明和五年(1776年)に拝殿が修理されたと云う記録があり、地狂言や祭り狂言をやったという伝承はないが、拝殿でやったということならこの時期にすでに行われていたのではないかとの推測がなされている。外題十八番は「太十」といわれる絵本太閤記から出ている「太閤記十段目」(寛政十一年、大阪道頓堀若太夫座初演)と「熊谷陣屋三段目」(宝暦元年豊竹座で初演)などで、これが当初から行われ続けてきたかどうかは分からないが、この出し物は昨年、今年とも子供達によって上演されている。二百数十年を遡る江戸時代から続けられてきたこの地歌舞伎は、明治七年に盆踊りとともに禁じられるも、市島では隠れて続行したといわれている。そして大正期から昭和期初期にかけて市島歌舞伎は全盛期を迎え、各地の興行にも出たという。十六歳のときから歌舞伎をやったという立光地区の和田盈宜は大正期から昭和期にかけての様子を以下のように述べている。
 市島歌舞伎は「高雄舎という若連中が中心となってやった、祭りが近づくと外題を決めてから役割をした。練習は短いときで十日間、多いときは四十日間もかかった。字の読めない人もあったので台詞は全部口移しで教えた。外題は多いときは八幕もやった。舞台は回り舞台であったが良く回らないので大正中期に今のように修理した。大工手間が必要であったため、大工さの野良仕事を若連中でやり、大工さに舞台修繕をしてもらった。賃金は仕事の手伝いで帳消しにしてもらった。
 衣装は作ったり個人の持ち物を借りた、といっても芝居衣装ではなくて女物の留袖などであった。大道具、小道具も全部作った。清水三次氏は名人であった。今に残る唐紙・千畳敷は氏の筆になるものである。照明ランプを用いたがあまり明るくないので、青竹の筒に藁を芯にして石油をいれていた。石油は一斗缶一本はたいた。それでも良い役の時には暗いので、六尺棒の先にローソクを三・四本つけて後見付きで照明した。二役が出ると後見も二人になった。千畳敷の背景の時はローソクが随分といった。こうして年一回の祭りを盛りたててきて、昭和六年頃に衣装を買ったが、外題物全部揃えるわけに行かないのでそれから貸衣装を借りた。前に買った衣装は誰やらが荘川へ売らしたそうである。
 戦争中もやったが人手がたらんのが幸いして、役決めには以前のようにもめることがなかった。終戦後は警察の許可でやれたが、仇討ち物だけは許可されず出来なかった。大正期から今日まで五年くらいやらなんだだけで、大抵の年はやった。大正天皇崩御の年でさえもやってのけたのである。こうして二百年の伝統を持つ市島歌舞伎は、昭和四十年頃に高雄歌舞伎と名を改めて今日を迎えている。」
 特別なスターもいなければ、雑役もない。若い人から年寄りにいたるまで、長い経験と伝統の中に、道具方から世話方まで、村中で盛り上げている高雄歌舞伎なのである。それでは彼らはどうやって作品を創っていくのか。かつて地元には「手付け」という教える師匠が地元にいた。明治末期から大正頃にかけては和田彦左衛門氏、次ぐ昭和期には内ケ島松次郎氏という誰もが認める名人がいて、彼らが「手付け」役を引き受けていたが、内ケ島松次郎氏の没後は名人の「手付け」役が出てこなくなった。また浄瑠璃も同時期に吉田梅次郎氏、次いで坪井美佐次氏がいずれも弾き語りで努めたがこちらもその後、継ぐ者がいなくなった。かつての名人、内ケ島松次郎を祖父に持ち現在高雄歌舞伎保存会会長を努める内ケ島憲一氏は、この祖父が亡くなった時、地歌舞伎を継続してゆくことを強く決意したという。そして「手付け」役として他県の地歌舞伎の師匠、松本団升師や市川福升師を招いて平成3、4年頃まで有志たちと指導をあおいだ。平成5年(1993年)には両師匠に教えをうけた者達が集まって勉強を続け、以来自分たちが「手付け」役となって舞台を作っていこうということになり、今日に至っており、三味線も基本を3年間、豊澤玉次郎師から、義太夫も和田一石氏が20代から習っている。

<伝でん奥美濃ばなし/帰雲城
 ところで私と桃山晴衣が市島に立光学舎を建てたのは1987年、その翌年にはここでインドフェスを開催し、さらに翌年からは地元の話しを掘り起こし、芝居仕立てにした「伝でん奥美濃ばなし」を10年近くに渡って創作していったのだが、この時期、私たちを立光地区の住民として受け入れてくれ、その後の活動にも大きな力となってくれたのが当時立光地区の会長を務めていた故・和田憲彦氏。氏は先に紹介した「手付け」の名人、和田彦左衛門を曾祖父とし、この時自らも高雄歌舞伎会長としてすばらしい演技を行っていた。そこで第一回の「伝でん奥美濃ばなし」は和田憲彦氏にも出演を依頼し、郡上弁での語り「新四郎さ」に出演していただいたが、この時期、先の話しにあったように高雄歌舞伎は「手付け」を他県の師匠から学びながら、模索を繰り返していた時期だったと思う。会長としての和田氏は、高雄歌舞伎の行く末を非常に気にかけていて、「伝でん奥美濃ばなし」の第二弾からは高雄歌舞伎の役者の参加をお願いした時、私たちとの活動が彼らにも何らかの活力になればと積極的に働きかけてくれた。こうして「伝でん奥美濃ばなし」の第二弾「高賀山鬼伝説」第三弾「幻の帰雲城」は高雄歌舞伎の役者達との創作劇となり、この地域の子供も参加したまさに地域でしかできない作品を残すことができた。この「伝でん奥美濃ばなし」については別の機会に記すが、この時に参加してくれた役者が今日、極難を乗り越えて指導者として活躍する高雄歌舞伎のリーダーとなっていることは何とも頼もしいことである。ちなみに「伝でん」出演者の内ケ島憲一氏は現在の高雄歌舞伎保存会長かつ「手付け」役としても活躍。主役を演じてくれた和田一石氏は義太夫語りと「手付け役」。日置憲正氏は義太夫語り。坪井孝信は役者、「手付け」、前保存会長を。坪井利久氏は和田憲彦氏の後、会長を務め、子供たちの歌舞伎を推奨した。というように、当時のオールスターといってもよいメンバーが私たちの創作劇に参加してくれていたのである。
 ここ数年高雄歌舞伎は小学生や中学、高校生を主とした子供、青年歌舞伎を続けている。それは名優達が「手付け」や義太夫役にまわり、後継者の育成と云うことも兼ねてのことであるが、この子供達、ただものではない。おそらくは「手付役」にまわった指導者の教え方もよいのだろう、とにかく役を演じると云うことがどういうことなのかをよほど東京あたりのプロと称する役者より心得ている。先の坪井利久氏は歌舞伎を通じて「子供達が一人では成り立たない、仲間との連帯が大切であること」を学び体験することこそがなによりもすばらしいことなのだという。また内ケ島憲一氏は云う。「大人達の熱心さが子供達にも伝わったせいだろうか、ここの子供達はみんな浄瑠璃をいつも聴いていたせいか“体が間になっている”」と。“体が間になっている”とはすごい言葉である。高度経済成長以来、物質的豊かさばかりを求めてきた日本人が忘れさった感性、日本人が育んできた間の文化。彼らはこれを体の中に今も叩き込んでいるのである。
 今年の出し物は小学生の「白浪五人男」「絵本太閤記」そして中学、高校生による「恋飛脚大和往来」。圧巻はなんといっても近松門左衛門原作「冥土の飛脚」からの「恋飛脚大和往来」、これが中学生かと疑いたくなる程、見せる、見せる。アメリカの文学者ドナルド・キーン氏はずっと日本の教育者になぜ日本人は近松の文学作品を小学校や中学校の教科書に採用しないのかと訴え続けていた。しかし桃山や私は近松の作品は文学ではなく義太夫であり音楽として伝えるべきだと考えている。が、いずれにせよ“体が間になっていない”教育者たちはどちらにも耳をかそうとはしないだろう。ところがそんな心配をよそに、ここでは小学生や中学生が近松作品を文学ではなく、また単なる音楽ではなく、まさに歌舞伎として“間になった体”、全身で学んでいるのである。

<吉田八幡神社伊勢神楽>
 このように江戸時代に花開いた庶民芸能の歌舞伎は上方や江戸から地方へも様々な形で伝播し、姿形を変えて地方の芸能として伝えられている。高雄歌舞伎を見た翌日、吉田川を挟んだ吉田地区でこれも古くから伝えられてきた吉田八幡神社の伊勢神楽が催された。私は足を運べなかったがスタッフの井上が映像記録を撮ってきてくれたのでその様子を伺い知り、これまた感動を覚えた。
 この伊勢神楽はいつごろか関の肥田瀬から伝えられたことからヒダセ神楽とも呼ばれている。郷土史家の寺田敬三氏によると、ここには他の村には例をみない「住吉踊り」「がにんぼ」があるとのこと。住吉踊りは大阪の住吉社に始まった田植踊りが、願人坊主によって流布されたものということだが、そもそも願人坊主は代参、代待、代垢離をする代願人の坊主を意味し、大道芸人でもあったそうだ。かれらが諸国を回り伊勢の御師とともに神楽を広めたものといわれ、「がにんぼ」も願人坊主の大道芸が持った得意な民衆娯楽の一つだった。
 吉田八幡神社拝殿で行われる曲目は道行、大門上がり、かやの舞、そして鈴の舞、祭文、神神楽、乱れ獅子、住吉踊り、がにんぼ。拝殿の下座に締め太鼓、横内太鼓を打ち祭文等を唱えるのは、齢八十を越える和田毅氏、舞子は小学生の子供達で、彼らは黒門付きに色物の帯を締めて舞台の後列に坐って出番を待つ。曲目ごとに子供が一人一人変わって獅子頭をつけ、笛と太鼓とうた語りで舞うのだが、出し物では鈴や御幣等を手にして踊る。また祭文では阿波の鳴門、忠臣蔵五段目、六段目、阿漕の浦など歌舞伎の演目が語られ、それを獅子頭をつけた子役が演じる。翁が語り、太鼓を打つ、そしてそれに呼応して舞い演じる純朴な子供の仕草がなんともユーモラスで微笑ましい。ここでも子供達は知らず知らずのうちに歌舞伎の物語を体で覚えていくのである。こう見て来ると、いったい学校で私たちは何を習ってきたのか疑いたくなる。私もまた子供の頃、この少年達のように獅子舞の太鼓を叩いてきた経験があり、その経験が今の私の感性に大きく作用していることは間違いない。それにしても、わが立光学舎から目と鼻の先、吉田川を挟んだ両地区で子供達が真剣に芸能に取り組む姿勢を目の当たりにして、郡上のすばらしさを秋の音連れとともに感じた祭日だった。