桃山晴衣の音の足跡(11) わらべうた

 小泉文夫氏の『おたまじゃくし無用論』は日本の音楽教育批判とその変革についての書であるが、氏は幼年期ないし子供時代の音楽体験が非常にに大切で、”わらべうた”こそを音楽教育の根幹に据えるべきだと一貫して主張してきた。20年以上におよぶわらべうたの調査で、「わらべうたにも、ちゃんとした音階やリズムの法則があり、それがおとなの民謡や芸術的に発達した邦楽にもつながっている」ことを確認し、日本のこどもたちが自然のうちに日本語のアクセントやイントネーションとよく合ったメロディーや身体リズムを身につけ、独自のわらべうたを創りだしてきた自発性の大切さを切に訴えている。ところが「日本の子どもたちは、日本語に合った、あのわらべうたや、民謡や邦楽に一貫した法則を持つ音階やリズムを、昔も今も学校では教わっていない」という現実を前に、「私はわらべうたを研究する者として、またそれぞれの民族音楽の意味を探る者として、そうした立場で考え、発言するつもりです。それはこれまでの音楽教育の専門家、および西洋のクラシック音楽の教育者の発言とは、おそらくいろいろな点で異なるものとなるでしょうし、実際に、現在行われている世の中の音楽教育の方法や理念とは、まるで違っているかもしれません。しかし、日本人がふたたび音楽に自信を持ち、生活の中でほんとうに音楽を生かして行くためには、今までのやり方とは根本的に違った新しい次元と、広い視野に立った考え方が必要だと思います」と発言している。

<桃山晴衣が未来のこどもに残したわらべ歌/立光学舎レーベル>
 桃山晴衣がわらべうたの素晴らしさを再認識し、全国に子守唄や民謡、古謡などを求めて旅立ったのは70年代の頃、宮薗千寿師のもとを離れ、自ら歌えるうたを模索し始めた時代であろう。この時期、<理想のうた>を探していた桃山は、身近な日常からうたが生まれる環境に興味を持つようになり、新聞のある記事を目にした。それは、その頃まだ手に入りにくかったテープレコーダーで、自らの生まれた名古屋東部の高針の芸能をすべて記録していた加藤政次氏の記事だった。桃山は加藤氏をさっそく訪ね、その記録を聞き、「小さな貧しい農村に、宇宙を表す曼荼羅のようにうたや芸能がある。まるで体中に毛細血管が行き渡っているいるようで、私は目からウロコ、それまでの音楽感が大きく変わりました」と、驚きを隠せなかった。そしてこの加藤さんの記録したうたの中でもとりわけ彼女が感動したのが、子どもたちのわらべうただった。
 「人々は自然とのかかわりを軸に、うたい踊り、話し伝えることで日々を活性化させ文化を高め、新しい生命を創造していました。その発想の面白さ、濃密なコトバ、ユーモア、信仰心、子どもがいることが美しい風景。それは精神の充足そのものでした。ちなみにこの地域(高針)は、巨大なベッドタウンと化した時流の波に呑み込まれ今やあとかたもありません。そしてこれらの遺産もすべて消滅しました」
 これは桃山が加藤氏とあって数年後の光景である。
 その後、桃山はこの名古屋のわらべうたのかずかずを自分のレパートリーに加え、その重要性を訴えるようになっていく。
 なぜ古曲宮薗節をマスターした至芸の技をもつ彼女が、子どものうたをうたい教えるようになったのか。
 「日本音楽の極致といわれる宮薗節のうたと三味線を修めた私は、よく後継者のことを聞かれます。しかしどう伝えていったら良いのかわからぬ現状にとまどいます。学校では間違った音楽感をうえつけられ、はんぱな発声を習うから、身体ごと心の底から声を出せなくなっている。勉強ばかりで何もしらないから受け身、自分の立場がわからない。生活訓練ができない。道具を使うことを知らない。(楽器も道具です)人とかかわるのが下手。(うたはコミュニケーション)自然と感応できない・・・・。これらは音楽にとって基礎となるものですが、例えば近頃宣伝される国際交流なども、私の経験ではこれらが身についていればむづかしくないと思う。わらべうたで遊ぶと、生きてゆくのに必要となるこうしたベースが、知らない内に身につくようにできています。人間の知恵が長い刻をかけて産み出した、この素晴らしい世界をとり戻さなければと思うのです」 
 桃山は邦楽家と称する音楽家たちが、お稽古ごとに終始し、弟子たちを教えることで生計を立てている限り、創造的な活動はできないし、日本音楽の発展もないと、家元をやめたときから三味線教室やうたの師匠業はいっさい行わず、自らの創作した音楽を全国の邦楽とは無縁の人たちと会場作りから始め出す。そして特に女性には子どもたちにうたってあげる子守唄やわらべうた、古謡などを積極的にうたい、伝えてきた。かつて「古典と継承」で演奏したジャンジャンでも、八十年に入り、「わらべうた」だけのコンサートに変わっていった。小泉文夫氏がわらべうたの本質を見抜き、音楽教育に取り入れようと懸命な努力をしたように、桃山は実践を通して国内外を問わずこの日本音楽のうたのルーツともいえるわらべうたを伝えようとしてきた。
   <立光学舎で子どもたちにわらべうたを教える桃山>
  
<立光地区のわらべうた伝承者高垣ステさん>
 私と桃山が郡上八幡に二人の活動拠点「立光学舎」を設立したのは1987年。桃山はすでに全国を経巡りながらうたの生きている場所を求め、日本のうた探しを続けており、とりわけ木曽と郡上八幡には愛着が深かった。そして私が「マハーバーラタ」の世界ツアーを終えた1988年、郡上八幡立光地区に茅葺きの芸能堂を建て、村の人たちの木遣りや伊勢音頭、郡上踊りで祝福された。ここは200年以上も続く地歌舞伎でも有名な芸達者が集う所であり、それゆえ共同体意識も強く私たちのようなよそ者が入れるかどうか心配だった。しかし桃山は郡上八幡に長く通い、知り合いも多くいたことと、当時の地区のドンであった和田憲彦さんはじめ地歌舞伎を続けて来た長老達のおかげで、私たちはここに拠点を設けて活動を続けることができた。そして私たちはドンに少なくとも10年間はここで音楽を通して地元の人たちに何らかのお返しをしたいと約束をした。10年間に渡って地元の子どもたち、地歌舞伎の役者とともに続けてきた、この地域や周辺に伝わる昔話や伝説などを基にした「伝でん奥美濃ばなし」という演劇、音楽の祭典が、それであった。

<桃山が作ったわらべうたと語りで構成した郡上の伝説・婆岩の話>

<わらべうたは音楽的に多くの可能性を秘めている。これは土取の太鼓でうたう可児のわらべうた>
 この「伝でん奥美濃ばなし」は、立光学舎の最も創造的な活動でもあり、これについてはいずれ詳しく語るが、私たちは十年間に三本の音楽劇や浄瑠璃、神楽劇を創作してきた。いずれも村の歌舞伎役者と子どもたちが共に出演するもので、ここでは桃山がほとんど台本を書き、浄瑠璃を作詞・作曲し、私が音楽、舞台装置などを担当するなど、村の人たちとの一からのスタートだった。
 とりわけ、地歌舞伎の役者達の芝居の幕間に出る子どもたちのうたは夏休みや学校の帰りにやってくる子どもたちを、桃山が学舎で教えていく。女の子たちは舞台代わりに使う広い床の上を走り回ってはキャーキャーと遊びまわり、彼女たちの自発的な声やリズムを汲み取りながら、桃山は自然な発声を基にした歌詞や曲を組み立てていく。
 また彼女たちは芝居のうただけでなく、桃山が長く家にいるときは、わらべうたを毎日のように歌いにきて、実に素晴らしい生き生きとしたうた声が山間の我が家にこだましていた。
 しかし私たちは小泉文夫氏が『おたまじゃくし無用論』述べていた問題にも直面した。せっかく女の子たちが自然なかたちでわらべうたをうたえるようになったのに、学校で違うといわれてくるのだ。そして小学生でも高学年になればなるほど、それを気にしだすのである。
 桃山はもちろん西洋音楽の作曲法も五線教育とも無縁であり、地歌舞伎の役者達のセリフの合間に入っていく浄瑠璃や三味線音楽から、わらべうたを基にしたこどもたちの歌までを、自在に作曲し教えていく。そして地元の話しを地元の演者たちが、地元の人たちの前で伝え、演じることで、昔話しが今に生きてくるのである。日本音楽は、わらべうたから芸術的といわれる邦楽までが一つの法則によって繋がっていると主張していた小泉氏の言を、桃山はこうした形で実現している。一見なんでもない村芝居と思われるかもしれないが、これは宮薗節を極め、全国を行脚し民謡、古謡、わらべうた、子守唄などを探し求め、日本音楽を熟知した桃山ならではの成果であり、郡上の人たちと自然が生んだ現代の奇跡ともいえよう。