桃山晴衣の音の足跡(10) 桃山晴衣と小泉文夫

 桃山晴衣小泉文夫氏と初めて会ったのがいつかは定かではないが、於晴会の仲間だった水沢周氏から、高田宏氏編集による当時非常にナウかった対話叢書「エナジー」の4号「音の世界図 団伊玖麿+小泉文夫」をすすめられて読み、「ほかにも二、三先生の書物にふれてみて、自分の方向にと力となり、灯となってもらえるのは”この人をおいてほか無し”と思い込んだ。そしてこの人には紹介者なしで働きかけるべきだと、単独での行動をとった」とあるから1970年代の半ば過ぎだろうか。小泉氏は桃山の活動がとてもユニークで、発言していることも間違っていない、何かのときには言ってくださいと応え、その後山城組の大会などで何度か会い、ときには駅まで三味線を持ってくれ、三味線だけはむつかしくてモノにすることができなかったので、尊敬しますと話されたこともあるという。「古典と継承」シリーズを経て「梁塵秘抄」へと向かう途、桃山はもっと実力をつけて小泉氏に力になっていただき音楽活動が展開できることを信じていたというが、小泉氏の思ってもいない早逝でそれが実現できずに終わってしまったのは誠に残念である。
 さて、桃山が「ほかにも二、三冊先生の書物にふれてみた」という小泉文夫氏の本の一冊が『おたまじゃくし無用論』であろうことは間違いない。この本の中には桃山の日本音楽に対する考えと共鳴する内容があまりにも多く書かれている。なによりもこの本のタイトルになっている「おたまじゃくし無用論」、つまり西洋音楽の平均率や五線譜による義務教育の弊害に関していえば、桃山は6,7才から三味線や琴になじみ、和魂洋才を理想とする明治生まれの父が楽譜を読むのをすすめたり、バイオリンやピアノなどを弾いていたにもかかわらず、「父の道筋を見ていると、私には西洋から入るということが、ひどく迂遠な道程であるように思えました。ここに生を受けた以上、自分の感性はその風土と生活に立脚していることを切り離して考えることはできない。祖父と父の時代には、西洋近代は新鮮なショックであり、取り込むことが必要だったのでしょう。しかし明治から百年がたち、三代目になる私が、同じレールの上をそのまま踏んでゆくのは、根本的なところでどこか違う。<私は日本から入るんだ>。このとき確かな、何か決意のようなものを感じていました」と、すでに十代でこうした決意をしている。

<桃山の父、鹿島大治氏が描いた「桃山晴衣像、中学時代」>
 ちなみに桃山の祖父、鹿島清三郎(兄が鹿島清兵衛)は明治時代にイギリスに六年間滞在し、カメラ技術を日本にもたらし、木炭自動車の設計をしたり、すでにエタノール車の開発にも言及していた進取の気象に富んだ人であり、写真大尽といわれた清兵衛と一緒に「玄鹿館」という出版活動と大写真場を経営もした多彩な才能の持ち主である。ちなみに、このとき出版した写真集に鹿島清三郎の『Ainu of Japan』という今では貴重な明治時代のアイヌの写真集もある。(この二人のことは、森鴎外、白州正子、長谷川伸などが著書で書いており、機会をみて触れたい)。

<桃山の祖父、鹿島清三郎氏の写真集「Ainu of Japa」より>
 また桃山の父は洋画家の岡田三郎助に師事し、ラファエル・コランやルノアールを敬愛する画家でもあり、フランス語の教師を務めるなど西欧の文化を積極的に受け入れながらも、叔母の宮薗節、叔父の長唄の影響もあり三味線や唄にも力を入れ、特に三味線音楽の古曲復元には相当力を入れたまさに明治の和魂洋才人を絵にしたような人である。桃山は、父が教えようとする様々な選択肢の中から、三味線と唄を選び、それも安易な西洋音楽理論や五線譜を採用するような現代邦楽とよばれるものやタイピストや算盤の名人のようにやたら伎倆の巧みさだけを示したような邦楽をよそに、室町時代の復元小唄、三味線音楽の起源とされる古譜「大幣」の解読演奏、当時一番庶民に親しまれていた小唄、端唄、長唄などから、古曲宮薗節への長い道のりを経て、いわゆる邦楽というものを基本に、そこからさらに飛躍し、民謡、子守唄、わらべうた、演歌をも自分のレパートリーに取り入れ、「弾き詠み草」や「梁塵秘抄」に代表されるような、現代に響きあえる三味線音楽と日本のうたの新天地を開いていったのである。桃山のこのような日本音楽への懸命な取り組みを顧みると、『おたまじゃくし無用論』の中で、日本のフォークソングを批判した小泉文夫氏の一文が思い浮かぶ。
 団塊の世代といわれた60年代から70年代にかけての若者達が、学生運動と呼応して歌い出したアメリカのフォークソング。小泉氏はフォークソングとは民謡という意味であり、なぜ彼らが日本の民謡でなくアメリカの民謡を歌うのかという疑問から始まり、「お手本になるアメリカのフォークソングは、西洋の音階やリズムで出来上がっています。また西洋の音楽を演奏するのに便利なギターという楽器を伴っています。ところが日本のわらべうたや民謡は、音階もリズムも、それに適するハーモニーも違い、西洋の音楽とは、全然別の基盤に立っています。だから、西洋と日本のフォークソングを結びつけることは、よほどの努力無しでは、できないことです」と手厳しい。このフォークソングに関しては「歌の題材が私小説的で世界が小さく貧乏たらしく思えた」と桃山も同様の批判をしている。
 そしてハッと思ったのは、小泉氏が、その批判に続いて書いている創作に関しての文章が、桃山のいつも口にしていたことと重なってくることだった。
 「何か新しく生み出したり古く長く打ち捨てられていたものに、ふたたび新たな生命を与えたりする創作と、単なる模倣、ものまねとは全く価値が違います。創作には、努力と積み重ねが必要です。その努力や積み重ねは、外国から学んだ借り物の上にではなく、伝統的なものを基盤にしなければなりません」
 そして、この「伝統的なものを基盤にする」ということは、他の文化を無視したり排他的になったりすることではなく、逆に「自分自身を否定したものからは、あとでどんなものを付け加えても、人間性そのものを豊かにすることは難しいが、自分自身から始まっていれば、かえって他の民族のものを素直に受け入れることができると、固い確信を抱いているのです」と小泉氏は述べており、このことは桃山が常に若者達に呼びかけていたことでもあったし、私たちが立光学舎レーベルを立ち上げた時のマニフェストにも述べている。(桃山晴衣の音の足跡を始めるにあたってのブログで)
 さらに桃山はこの「模倣」ということに関しては、今の日本の音楽と呼ばれているものの大半、特に60年代以降の庶民の伝統音楽と呼ばれるものが、悪しき模倣によって崩れ去っていることを常に警告してもいた。まさにフォークソングである民謡や小唄、都々逸といった庶民が自由に歌って来た歌、さらには歌謡曲までもが、それぞれ家元を立ち上げ一人の歌手の模倣を続け出しているのである。全国民謡大会やのぞ自慢の類いに見られる技術競争と模倣のオンパレード。桃山が宮薗節からはなれ、邦楽からはなれ、伝統的なものを積み重ねながら、借り物ではない創作を続けてゆくのとは裏腹に、今も伝統という名の傘の下で、伝統を崩壊させている多くの輩がいることを肝に銘じておかなければならないならない時勢である。