桃山晴衣の音の足跡(18)唄と浄瑠璃

 「桃山晴衣の音の足跡」として筆を進めているうちに、関東東北津波地震になり、被災地と原発危機の情報ばかりが耳目を覆うようになってしまっている。TVはほとんどNHKのニュースしかみていないのだが、それでもここ数週間、タレントや音楽家の被災地訪問や被災者支援と銘打ったコンサートなどを次々と目にするにつれ、こうした行為の是非はともかく、そこに流れ、うたわれている音楽やうたを聞いていて、考えさせられることが実に多い。ここでは桃山の音楽の話しをすすめなければならないので、そのことについてあれこれ述べるつもりはないが、これまで書いてきた桃山の音楽遍歴を振り返り、日本音楽の変遷を垣間みてくると、先に紹介した小泉文夫氏の「おたまじゃくし無用論」に書かれた日本音楽のことが呪文のように思い浮かんでくる。

<鹿島大治氏の手製小唄教則本、300曲以上のレパートリーがしるされている>
 新宿で生まれた桃山晴衣は子供の頃、第二次大戦での東京大空襲を体験し、東京、名古屋、岐阜を疎開で点々とし、物心つく中学時代まで、敗戦のどん底から這い上がり、復興を夢見て生きる庶民の渦の中で暮らしてきた。誰もがそうであったように、食べ物もままならぬ日々も少なくなかったが、幸か不幸か芸術家の父、鹿島大治氏の薫陶を受けて育った彼女は、生活することと芸術することの矛盾を感じつつ、いつの間にか三味線を手に、うたを唄い始めていたという。「まだ手が届かないので、胴を膝の横に落として持ち、ワクワクして」稽古をしたという三味線、そして長唄の聞き覚えの歌詞がわらべうたになっていたという桃山は、中学卒業後、高校に進学せず、タゴールの全体教育に影響を受けてもいた父からフランス語と日本音楽を学びながら、進路を考えていた。この頃からすでに料理の好きだったこともあり、自分の職として料理人になることも選択肢の一つに入れていたが、アルバイトのつもりで父の代わりに教えだした三味線とうたが、評判になり、十代で教室を持つ程までになっていった。桃山が教室で教えたのは主に小唄や端唄だったが、この小唄が普通の家元で習うそれとは少々異なっていた。大治氏は叔父の吉住慈恭の長唄や母の万寿、叔母のとくから教わった古曲宮薗節、さらには母や叔母の師匠でもあった平岡吟舟の東明節、江戸小唄の清元お葉、河東節の山彦秀翁などのうた、三味線の形式や技を採りいれ、自作の小唄も数多く作詞作曲してもいるが、桃山はこうした父の創作した作品はあまり好まず、ごくわずかのものしか自分のレパートリーに取り入れていない。また大治氏が明治生まれの和洋折衷を理想とした芸術家でもあり、桃山に日本音楽を教える際に、五線譜で演奏することも教えようとしたが、桃山は最初から西洋音楽を中途半端にかじりながら、日本音楽を踏襲することはできないと最初から意を強くし、「おたまじゃくし無用論」を通した。しかし大治氏の古曲の復元には大いに興味を持ち、先に紹介した「大幣」「糸竹初心集」「姫小松」といった古譜を解読し、三味線とうたを復元曲にしたものは、ずっと自分のレパートリーとしてうたいこみ、弾き込んできた。

<東海テレビの風流小唄ごよみに英十三氏と出演>
 こうして名古屋で小唄を教えているうちに、東海テレビの新番組「風流小唄ごよみ」なる番組のレギュラーとなり、邦楽界からは「どこの馬の骨かわからない、という皮肉な目や、噂をきくようになり、お披露目というか挨拶が必要だというので、鹿島大治氏の後見の下、「桃山流創立記念」演奏会をもつ」にいたったのである。そして以後、桃山晴衣の小唄は、明治生まれの邦楽評論家で、小唄の作詞家でもある英十三氏や、円城寺清臣、岡本文弥添田知道氏はじめ、多くの文化人を引きつけるようになっていくのである。先に書いたように小唄は江戸末期から庶民のうたとして変化、発展を遂げてきたが、いつの間にか四畳半的イメージが先行し、色街のうたにすぎないようにみられてしまっているが、そうしたイメージを変えたことも桃山晴衣の大きな功績である。

 桃山晴衣の古典の発声を聞くと、「小唄」に空があるのに感動する。小唄が四畳半に入って、男と女の世界になる以前のたくましさ、おおらかさ。津軽三味線が吹雪の中から聞こえてくるとすれば、桃山晴衣の三味線は花の里の宴という感じ。そして小唄に無縁の若者達がなんのこだわりもなく「楽しい音楽」として迎え入れてしまう魅力に満ちている。                           
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 桃山晴衣の音楽を形成しているものを振り返ると、まだカタチとして辿ることのできる日本音楽、それも民衆の間で作り上げられてきた二本の確かな根が見えてくる。雅楽や声明、能楽などもカタチとして残ってはいるが、これらは民衆の間に生まれ、親しまれたものではなく、特別な貴族や武士階級の人たちの儀礼や教養の音楽として採用されていたもので、今のように一般が演奏したり鑑賞などできるものではなかった。民衆の音楽は、ほとんどが生活の場で唱われる様々な歌や説教のような語りが中心だったと思うが、日本の伝統音楽に共通した音楽構造を保持しているこれらのうたや語りこそが、その後江戸時代に、上方や江戸などの都で、音楽的に洗練され、独自性を発展させていくことになるのである。
 日本の伝統音楽とよばれるものはおよそ、器楽ではなく、うたと語り物であるということからみても、各地の民衆の音曲を採り入れながら、この二つの日本音楽の根から多彩な花を咲かせたのが江戸時代のうたものと語り物であるといえよう。また歌舞音曲、うたまいなどの言葉にみられるように、こうした歌や語りは都のみならず、古くから各地の祭礼の場で踊りや舞などと共に演じられることも少なくなく、こうした歌舞音曲を完成させたのも江戸時代の庶民芸能の力だったといえる。そして何よりもこれらの歌や語りに日本独自の音楽性をもたらせたのが数少ない楽器の一つ、それも歴史時代を通して庶民が歌用の楽器として最も親しみ大勢が手にした三味線である。三味線は永禄年間に大阪堺に舶来した琉球の蛇皮線を琵琶法師仲小路が手にし、二絃だったものを三絃にかえ弾いたのがことの始まりとされ、この起源説にも諸説あるが、それはまたの機会にゆずるとして、その後、沖縄の三線とは形状も異なり撥や竿や胴の大きさも全く異なる、独自の音色を持った本土の三味線へと変化を遂げていく。三味線はそれまでの琴と鼓が一つになった楽器ともいわれ、旋律と拍子を、節と間を一つの楽器で巧みに奏でられる自在性をも備えているし、第二の声ともいわれ、うたや語りに絶妙な情緒を醸し出せる楽器でもある。こうして三味線の導入によって、それまでのうたや語りは、まさに水を得た魚のように、活気に充ち、ここから、うたもの(地唄長唄荻江節、端唄、うた沢、小唄)と語りものないし浄瑠璃義太夫、一中節、豊後節、宮薗節、常磐津、富本、清元、新内)など、実に多くの音楽家が流派を形成してゆき、これらのうち、文楽の人形芝居の義太夫や歌舞伎芝居の長唄などとして発展していくものもあれば、庶民の間で歌われる民衆歌謡としての端唄、うた沢、小唄などに発展したものもあった。いずれにせよ百花繚乱、日本音楽の爛熟期ともいえるこのような歴史さえも、私は学校の音楽教育で教わることはなかった。音楽教室と称する所にはピアノが鎮座し、五線の書かれた黒板の上にはバッハやベートーベンのいかめしい顔写真が並んでいた。これら西洋音楽の大作曲家とよばれる人達たちが活躍したのは、先の竹本義太夫やそれに続く、浄瑠璃長唄創始者達とほとんど変わらぬ時代である。ところが私たちはそんなことすら教えられず、東を忘れ、西ばかりを見続けさせられていたのである。小泉文夫氏の「おたまじゃくし無用論」はこうした明治以来の日本の音楽教育についての失策が多く語られているので、是非一読を。
 以上のようにみてくると、この江戸時代の庶民に愛され、名人によって育まれて来たこれらのうたものと語りもの(浄瑠璃)がその後の日本の民衆の歌謡音楽と切っても切り離せないことがわかるだろう。
 桃山はこうしたことに幼い頃から気づいて三味線やうたを始めたのではない。先にのべたように戦中から戦後にかけての変動の時期に、父親によって教えられるままにやっていたことが、他者に認められていったことから何をやるべきなのかを暗中模索を重ねながら演奏家としての道を歩みだしたのである。

桃山晴衣が30才の時に師匠の四世宮薗千寿とNHKラジオで演奏したときの貴重な録音>
 幸い彼女の父は長唄の改革者でもある吉住慈恭を叔父にもっていたことから、直伝で習っていたし、祖母は浄瑠璃の宮薗節の名手でもあったことから、幼いときから自然とうたものと語りもの(浄瑠璃)の両方を学んできた。そして桃山流創立の時には、三味線古譜を基にした復元曲と同時に、端唄や小唄と宮薗節をすでに演奏するという才をみせていた。そして宮薗節は十代の桃山がどうしても極めたかった浄瑠璃で、その後、四世宮薗千寿という最高の師匠に唯一の内弟子を認められ、その高度な三味線のわざとうたの洗練を長年掛けて獲得していくのだが、うたの好きだった桃山は端唄や小唄もやめることはなく、師匠の宮薗千寿や浄瑠璃の宮薗千恵が本名で小唄や端唄をうたっていたように、独自の洗練された自由な小唄、端唄の修練も続けていった。というのも、小唄の名人とされる人たちは、例えばお葉は清元、吟舟は表芸を一中節で宮薗、清元を、草紙庵は長唄、清元を、佐橋章子は河東、一中、宮薗、荻江、義太夫常磐津にまで通じていたし、永井ひろは清元、宮薗を、そして春日とよも常磐津を地とし、宮薗でも千豊という名をもっていたといった具合に、こうしたことは特別なことではなかったからだ。このように小唄をうたう人たちが多く宮薗に惹かれていたのは、この浄瑠璃が女性によって伝えられるようになり、崇高な音楽技術と日本人の繊細な音楽感覚を否応なく発揮できる高度な音楽だったからではないだろうか。
 桃山晴衣の意志は三味線とうた・語りというこの江戸期に形成された日本音楽の妙を追求することに始まり、その二つの根を深く張りつつ、さらには江戸や上方で形成されたこれらの音曲と深く繋がってもいる各地の俚謡、子守唄、わらべうた、作業唄などを探求し、それらを取り入れながら自ら作詞・作曲した今のうたを三味線弾き唄い、弾き語りで展開していくという、実に長く孤独な作業の道へと向けられていくのである。