桃山晴衣の音の足跡(28) 幻の古曲、宮薗節(七)


<宮薗節の面影を残す桃山の弾き唄い/たもと>
 これまで述べてきたように、宮薗節は宮古路豊後掾の門人であった宮古路薗八が亨保年間(1716〜1735年)の末に興した豊後系浄瑠璃の一つであり、特に日本が明治維新での西洋化、世界大戦への参戦などで、伝統的な歌舞音曲が排斥され、一般の耳から遠ざけられていく中、およそ300年にわたってこの音曲が紆余曲折を経ながらも、現在まで伝えられてきたことはまことに奇跡的というほかない。     
 前に紹介した中興の祖といわれる山城屋清八(初代宮薗千之)が文政年間(1818〜1829年)に京阪に行った折に習ったという(この話しは信憑性に欠けるが)、十曲を、清八に学んだ宇治の里静三郎の妻、しま(初代宮薗千寿)に伝授し、彼女が二人の門弟、小川さな(二代目千之)と梅田たづ(二代目千寿)に伝授したものが今日まで千之派と千寿派に分かれて伝えられてきたのだが、初代千寿の“しま”からは明治、大正、昭和、平成と、二派ともに女流家元による三味線声曲が教えられ、この間に初期の薗八など、男性による浄瑠璃とは三味線の弾き方や唄い方も大きく変わったことだろう。
 町田佳聲氏によれば、宮薗節の古い録音は関東大震災前の大正九年に「古曲保存会」で録音した宮薗千香、宮薗千春の「鳥辺山」だということだが、明治時代の初代千寿(しま)はもちろん、開祖薗八の音など今では耳にすることができず、その音の変遷の実体を明確につかむことはできない。

<左/千寿派の宮薗節全集と右/千之派の四世宮薗千之>
一般に出されたレコードとしては昭和49年5月に出版された鈴木正八氏制作の『四世宮薗千之』があり、これには四世宮薗千之(轟はん)の浄瑠璃と宮薗千富の糸で「お半」「梅川」「鳥辺山」「植木屋」「おひな」「山崎」「炬燵」「掛行燈」「口舌八景」「夕霧」の古典全十曲と新作が数曲収められている他、CBSソニーから『宮薗節全集』として出されたものには、古曲同十曲と数曲の新曲が収められている。こちらは千寿派の面々の演奏で、古典はすべて糸を四世宮薗千寿、浄瑠璃を宮薗千恵と千碌が行っているが、千寿との名コンビ千恵の浄瑠璃が三曲しか聴けないのはなんとも残念である。これらのレコードで四世千之と四世千寿が受け継いできた両派の宮薗節の異なりを聴くこともできるが、千之派や千寿派がずっと同じように曲調を保ってきたかといえば、そうとはいえない。それは五線譜で作曲したものを伝えてきた西洋のクラシックでも、ある作曲家のピアノ曲を名人が弾いてもそれぞれ異なるように、宮薗節も個々の演奏家によって異なってくる。しかし、宮薗節の場合は詞章は残っていても五線譜のような譜面はなく、曲節が師から弟子への直伝となり、そこに家元の個性、感性、伎倆などが大きく作用する。また明治からこちらの家元たちは、各々が長唄常磐津、一中、河東、端唄、小唄、清元など、様々な三味線声曲を身につけており、それらの流派の音楽的影響も宮薗節に作用するはずである。たとえば、四世宮薗千之(轟はん)は、六歳の頃より義太夫や清元を習い、十八歳の時から二世文字兵衛に常磐津を習い、二十九歳の時に三世宮薗千之(片山房枝)に入門するかたわら一中節も習うという多芸の持ち主である。それに対し四世宮薗千寿は三味線方で、この人も最初杵屋勝太郎に師事し、十九歳で三代目千寿が千広の時代に彼女から宮薗を習い始め、荻江、河東、東明、富本、端唄、小唄まで師匠級の腕を持つと云われている。

<左/三世宮薗千寿と右/四世宮薗千寿のNHKでの録音写真>
 このようにバックグランドも先代の教えも異なるのだから千之派と千寿派の演奏が相異なるのは当然だろう。これら四世の千之派と千寿派の音曲の違いを岸井良衛氏は次のように述べている。
「これは私が感じたことだけで言えば、千寿派に比べて千之派の方が歌の切れ目が多い。千寿派の歌い方は、必ずしも締めて歌わないでも良い、特に三代目千寿の歌を聴くと、その感が強い。これは先代の千寿(三世)は歌うたいで、声が良く、音勢があったために、技巧というものが少なかったからでもあった。したがって千之派よりも派手に聞かれた。
 現千寿(四世)は三味線弾きで、千広の名で、先代千寿の千広時代からの相三味線であったので、宮薗は『さながら山の尾根を歩くように』と表現しているが、清元の紋が瓢箪であることは、締めるところは締めて、ふくらませるところはふくらませて、そして程よく砕わせての意だというが、尾根を歩くの表現は、宮薗節に取って、まさに名言だと思う」。
 先に紹介した四世千之と四世千寿の録音を聴き比べると、私も岸井氏が述べているように、千之派の歌に切れ目が多く、ゆりも多いのに対し、千寿派の歌は切れ目が少なく、まさに千寿師のいうように、山の尾根を歩くように歌と三味線がゆったりとゆれながら上がり下がりをする。桃山の大叔母で三世宮薗千之の襲名を受けながらも早生した福島とく子のうたはこの千之派の叔母から直接習っていた父の鹿島大治氏によれば、やわらかく、優しい歌い方で、その後三世千之を襲名した片山房枝になって大きく変わったという。片山房枝は河東節の三絃の名手だった人で三味線を弾きだすときのかけ声なども目が覚めるようだったというが、名人だったとはいえ彼女の持ち味が宮薗節には合わなかったのか、鹿島大治氏はこの時から千之派の芸風が変わり、それにくらべ千寿派の方がより芸風を引き継いでいるとの見方をしている。
 このことを見てもその時々の家元によって芸風はたえず変化しており、宮薗両派のどちらの芸が優れ、正当であるとは決していえないのだが、桃山晴衣が叔母や父が千之派だったにもかかわらず四世宮薗千寿に入門したのは、彼女が理想とする歌い方、三味線の弾き方を、千寿派に見いだしたからに他ならない。そして四世千寿師の三味線はいうまでもなく、彼女は千恵師の唄を敬愛し、このコンビの宮薗節を当代一と評している。
 桃山は宮薗節の発声について、「ノドをやわらかく開き、丸いほんの少しを鼻に抜く。これは目立ちすぎると嫌味になります。節をまわすにも、かたくならず、<ノドを浮かせて>まわす。ユリはまわすのとは違い、ユリ上がりなど、ゆりながら上げてゆくのですが、ゆったりと力まずユリの数まできめられるほど、厳密なものです」と述べている。
 また彼女が宮薗節に惹かれた理由の一つに、この一流には邦楽独特の節尻の落としや、嫌味な節まわしがなく、優婉であることをかかげているが、これは実際にやってみると大変な伎倆がいるのである。
 「スーッと出していった声の最後を細くして行き、自然に終わろうとしても、力つきてムラになったり、声がふるえて不安定になってしまう。節尻は特に大切なのです。終わりよければ初めよし、とこれは日常のすべてに当てはまる理でもありますが、ていねいに、見えていないところまでうたい込み、三味線と呼吸の余白いっぱいをギリギリに、別次元にまでつなぐほどピッタリとはまると、次の言葉の始まりに、力と説得力が出ます」

<ダーガル兄弟のドゥルパド>
 この桃山の説明を聞いていると、私がインドで体験した古典歌唱法ドゥルパドの歌い方を思い出す。ドゥルパドは北インド伝統音楽の基盤ともなった声楽で、現在の南インド北インドの古典音楽が様式的に異なり発展して行ったのはこのドゥルパドが生まれる時代、つまり13世紀のイスラーム王朝が成立する頃からとされている。それ以前のプラバンダという古典歌曲に変わって主流となったドゥルパドは、その後宮廷音楽歌としてムガール帝国のアクバル大帝に使えた名匠たちによって厳格な体系を持ち、芸術的な音楽へと発展してきたが、このドゥルパド自体、環境が大きく変わった現代においてはインドでも継続するのに困難な時代となっている。私はブルックの『マハーバーラタ』の音楽制作のためニューデリーを訪れた際、すでにパリでお会いしていたこともあり、歌唱法の基本だけでも体験したく無理なお願いと分かっていながら、このドゥルパド歌唱法の伝統をアクバル大帝の宮廷に使えていた音楽家のシュリー・プリジュチャンドラ以来、現代までこの歌唱を受け継いできたダーガル兄弟(ファイヤズディン・ダガールとザヒルディン・ダガールの二人だが共にすでに故人となられている)から教えてもらえることができた。彼らは自分たちの練習やコンサート、また大勢の弟子たちの指導もあり、私のレッスンは朝一番に毎日一つのラーガ(旋律)をタンプーラ(ドローンを提供する弦楽器)に合わせて一時間程歌うことであった。インドでは西洋音楽のドレミファのような音名に相当するサレガマパダニサという音階があり、まずはサの音を真っすぐに微細なタンプーラの音と一つになるように歌っていく。このサーという声を大声でなく力まず、長く静かな呼吸による一息で延ばしていくのである。このとき桃山が宮薗の発声で語っているように、声の最後を細くしていき自然に終わることが大切で、その声は何処からともなくやってきて何処へともなく消えて行くといった感じになる。インド古典音楽と日本の古典音楽はもちろん大きく異なるが、もともとインドの宗教歌から発展している声明が日本の伝統音楽に、特に声楽に大きな影響を与えていることからも、インドの歌唱法と宮薗節の歌唱法に共通点があっても不思議なことではないが、私が宮薗節に惹かれるのは、日本の伝統的三味線声曲の中でも宮薗節ほど、インド音楽の繊細さを感じるものはないからでもある。桃山晴衣の三味線を始めて聞いたときも、いわゆる邦楽の三味線とは違うインド的な響きに聴こえたのも彼女が宮薗の三味線の奥義をすでに習得していたからに他ならず、その宮薗の三味線とは四世宮薗千寿の糸に他ならない。千寿師の三味線はもちろん宮薗独特の奏法で、重い桴を桴皮に当てず、撫でるように弾くものだが、師の音は強弱のメリハリがあり、弱音から強音に移る時の音が浮遊するような感覚の素晴らしさは、千寿師ならではの技である。この弱音はあたかも指で奏でているかのごとく柔らかく、なんともすごい桴さばきとしかいいようがない。桃山が十余年も師事した理由もこの音を聞けば納得ができ、彼女はこの音を究極の音として自分の三味線の音をさらに追求していったことだろう。また桃山が尊敬していた浄瑠璃の宮薗千恵師の唄や浄瑠璃も先に述べたダーガル兄弟の歌い方のように、声が真っすぐかつ緩やかな孤を描くように息の細部にまで注意が払われており、これに千寿師の三味線が入るとまさに三味線が第二の声といわれるように二人が歌い語るようになるのである。桃山は三味線以上に、理想のうたや声を求め続けてきたともいえ、その発声法も宮薗節、とりわけ千恵師の歌い方には大きな示唆を受けている。
 桃山晴衣の究極の歌唱法ともいえる「梁塵秘抄」の「遊びをせんとや生まれけん」などでみせた歌い方は、一見シンプルに聴こえるかもしれないが、これは誰もが容易に出せる声ではなく、一息で歌い込む息の長さは宮薗で鍛えた技でもあろう。彼女には宮薗節の技をもり込んだ音曲が幾つかあるが、竹久夢二の詩を作曲し弾き唄った「たもと」も、見事にそれが結晶化されている作品だといえよう。
宮薗節は千之派と千寿派になってから、十曲の古典作品以外に両派ともに家元によって新曲が作られ発表されている。ちなみに千寿派では三世千寿が「椀久」「お光」を、四世千寿が「歌の中山」「ほうずき」「箕輪の心中」などを作曲しており、これらは宮薗節として伝えられている。

<四世宮薗千寿作曲の歌の中山>
 また桃山晴衣は晩年、宮薗節の技法を用いた独自の今様浄瑠璃三部作「浄瑠璃姫」「夜叉姫」「照手姫」を発表している。


これらの作品はもちろん宮薗節の新作ではないが、ここに私は桃山が問い続けてきた真の伝統の在り方をみる。