桃山晴衣の音の足跡(25)幻の古曲、宮薗節(四)

四世宮薗千寿師と桃山晴衣

 先述のように、桃山晴衣は宮薗節と深く関わってきた家系の中で育ってきた。宮薗節中興の祖といわれる山城屋清八(初世宮薗千之)の二人の女流門弟、小川さな(二世千之)、梅田たづ(初世宮薗千寿)のうち前者、小川さな(二世千之)に師事し三世千之の襲名を受けたが若くして夭逝した大叔母のとく子、宮薗千林を襲名した祖母の万寿、そしてこの二人から教わっていた父の鹿島大治と、桃山はこれら千之派の流れを汲む宮薗の調べに幼少から馴染んでいた。また十代の頃、父、大治氏が当時では珍しい東通工のテープレコーダーを買い、東京新聞に掲載された「今週の邦楽」というラジオ番組の欄を隈無く調べては録音を始めたおかげで、父から教わっていた以外の邦楽の全体像をラジオ番組からもつかめるようになったという。この頃の邦楽番組は様々なジャンルと名人の演奏が次から次へと放送され、疎開先から東京に戻った桃山は「東京は違うなァ」と実感したそうだ。こうした番組の中でひと際、彼女を虜にしたのが宮薗節だった。そしてとりわけ十代の桃山は「ふくいくとした香気をはなつ典雅な宮薗節には、胸がキューッとしめつけられるほど、いかれました。ことに宮薗千寿の三味線に千恵の浄瑠璃は、味わいといい、格といい申し分がない」とことのほか、このコンビの演奏を好んでいたようである。

<宮薗千恵(金子千恵子)と四世宮薗千寿(水野初子)>

また当時、宮薗千寿は本名の水野初子、宮薗千恵は金子千恵子、さらに名人河東いね子も本名で小唄を演奏しており、この頃は当時雨後の筍のように出きていた家元制度の中で歌われていた小唄ばかりでなく、こうした名人や、その後に続く蓼胡津留、小唄幸子など新たな芸風を打ち立てた小唄の名人も出てき、三味線音楽のうえにも推移と変遷がみられたという。
 ところで父、鹿島大治氏の邦楽研究の半端でないことは、以前、復元曲のところで述べたが、彼は宮薗節においてもただ叔母や母から手ほどきを受けるにとどまらず、その歴史や音楽性についても研究している。戦後、ノートや紙の少なかった時代、多くの研究記録を藁半紙に書き残しており、この宮薗節も図書館かどこかにあった古文献、宮薗蘭鳳軒筆「宮薗鸚鵡石」や「宮薗千草種」をノートに丁寧な字で写し取り、記録している。
 たとえば、桃山流家元の創立後の演奏会ではこうした大治氏の邦楽研究の集大成とも云える成果が発表され、一般的な邦楽の家元とは一線を画したレパートリーで音楽評論家たちをも驚かせた。ちなみに1962年の「桃山晴衣の会」の番組は復元曲の「れんぼながし」「吉野之山」を桃山のうた・三絃と梶田昌艶の箏で、新曲「おきごたつ」は頼山陽と親交のあった有名な南画家田能村竹田(たのむらちくでん)が作詞した小唄で、歌詞は竹田が愛妓の京都祇園のひさ女に贈ったもの、本調子の原曲を大治氏が三下りで地唄風に編曲し、桃山のうた、梶田昌艶の三絃で上演、さらに英十三が桃山の三絃で持ち前の小唄二曲「お前々髪」「涙かくして」を、二世吟舟の東明節「山姥」を大治氏のうたと桃山、能崎多恵子の三絃で、そして薗八節として「桂川恋の柵(しがらみ)」を桃山の浄瑠璃と大治氏の三絃で上演するといった具合で、こんなレパートリーを番組にする家元は今でも皆無であろう。二十歳そこそこの桃山の浄瑠璃は、評論家の関山和夫が「家元桃山の美声はまた絶妙で、力量は声だけでなく、三絃においても十分発揮された」とすでに一年前の創立記念会の宮薗節を聴いた際に評しているが、先の章で書いたように大治氏は後見として、愛娘の才で自らのこれまでの研究成果が音として実を結びだしたことで、本業の画業もそこそこに大尽よろしく家族の生活のことも忘れて作曲、創作に没頭しだす。しかし大治氏が作り出すものと、桃山の感性や創造力との間に、やがて亀裂が生じだし、先に触れたように母が病で倒れると云う一番過酷な時期に彼女は父と決別し、一人東京に出て自分の道を探し直すのである。
 「私が四世宮薗千寿に入門したのは、母の病状の一番重い最中でした。『朝日新聞』に、復元曲を演奏する父娘の記事が載り、それを読んだ見知らぬ人から『よろしかったら四世宮薗千寿に御紹介します』と結んだ手紙が来たのです」
 雑司ヶ谷に移り住んだ十代の頃、ラジオから流れて来る千寿と千恵の宮薗節に憧れていた桃山は、ちょうどこの頃千寿師への入門を切望しており、どのように入門できるかを考えていた時でもあった。巡り会いの妙とでもいうか、見知らぬ人からの唐突な手紙による千寿師への入門紹介を受け、桃山は迷いを振り切り、すぐに千寿師に会いにいき、「入門させてください」とお願いした。このとき、決別宣言をされた大治氏も同行し、「親の言うことをちっとも聴かないんでよろしくお願いします」と挨拶したという。
 まるで新派の舞台のように、和泉屋がまだ蔵造りだったころの六本木の街、小糠雨の中を歩いて稽古場に着くと、あの憧れてやまなかった宮薗千恵の唄声が聞こえてくるのだった。
 憧れの宮薗節への入門だったが、現実は桃山に大きな試練を与え続けた。母親が倒れ、桃山の出て行った実家は、「家計をキリモリしてくれる主婦が倒れてしまって、前にも増して出費が多くなり、外へ出ると男並みに稼がねばならず、家に帰れば、主婦のいない暮らしに豚小屋のようになっている。吐き気をもようすほどくたびれてフラフラになって玄関の扉を開けると発作を起こしている母と、オロオロしているだけの父。病人が発作を起こす日曜はタクシーもなく、電話をかけても医者はいない。帯を解いた下帯だけの着物姿で近くのうどん屋が出前をするスクーターの後に乗り、途中で出会ったどこかの医者にムリヤリきてもらったこともあります」という、だれもが彼女を頼りにする中での、経済的、時間的にも無謀と思われる宮薗入門だったが、桃山は「グチもこぼさず、すすんで何もかも引き受けました。どんなことからも逃げてはいけない。逃げることは出来ないのだというそれは、アキラメというより悟りに近いものでした」と何度も自分に言い聞かせては歯を食いしばっていた。(スターになることを夢見てママに連れられお稽古ごとに通ったり、親のすねかじりで習い事をしたり、趣味で邦楽を楽しみにくる輩とは正反対の立場にあった桃山は、それだからこそ師匠とも真剣に向き合った)
 こうした桃山の姿勢は千寿師にも伝わったのか、何も話した訳でもないのに師は「月謝はいらない」といい、「こちらの胸が痛むほどていねいに毎日稽古をつけて下さり、いつも着たきり雀の私への門弟の悪口には「腰を入れることを覚える為には、着物で稽古することが肝心なのであって、見せびらかすことではないのだから、あの子は感心だ」と先輩たちをたしなめさえしたという。
 稽古に通い始めると、きまっている週二回のほかに明日もいらっしゃいと言われ、その日に伺うと、霞町のほうにも暇があったらきなさいと、千寿師はどんどん稽古日を増やしてくれ、日曜でさえ「今日はお休みでゆっくりできるからいらっしゃい」と、習ったことを練習している暇さえなくなってくる。そのうち、日曜の練習は相対で三時間半という猛稽古、結局桃山は巣鴨にあった下宿を引き払い、師のところまで徒歩で三分ほどの霞町に移り住み、師が朝食を終えた朝八時から夕方までの十時間を稽古場に正座し、他の人の稽古をつけているときも聴くようになった。
 楽譜を使わぬ相対稽古、これこそ「日本からやってやろう」と思い続けてきた桃山が理想とした身体で覚える日本音楽の伝承方法である。やがてこの相対稽古でも足らない気がした桃山は、暮らしと密着していた三味線音楽が遊離していることを少しでも改善したく、その溝を埋めるために東京でいられる日数をできるだけ多くとり、千寿師の名古屋の出稽古にも同行するようになった。彼女の帰ってくるのを首を長くして待つ家族の暮らす岐阜の鵜沼と東京の行き来はこうした桃山の修業にも重くのしかかっていた。また桃山は名古屋に桃山流の弟子たちもいたため、彼らに教える稽古日を短縮し、その稼ぎを全額家に入れ、東京での生活は六本木のスナックで働いてまかない、できるかぎり宮薗の稽古に通った。「月謝はいらない」といった師匠はその後も、月謝を受け取ってくれず、同じ着物ばかり着ている彼女に、着物や身の回りのものまで気配りしてくれるようになった。普段着のほか、衣服の高価なものは師匠に作っていただいたものばかりであると桃山はいっているが、持っていた多くの着物のうち、私と出あってからも古着屋でコンサート用にたまに安いものを買う以外、新しい着物をかったためしはなかった。母や祖母、師匠や友人からの貰い物でも彼女はきちんと大切に手入れをして着こなしたのはもちろん、それらを取り合わせて着こなすセンスは抜群だったし、何でも無い着物でも桃山が着ると舞台の上で冴えるのであった。師匠にこれ以上心配をかけてはいけないし、邦楽界では、身を落とす、という取られ方をして、いらぬ噂の種をまかれては悪いので、夜のスナックでの仕事はずっと内緒にしていた。しかし岐阜に戻って母に代わって目一杯の家事を済ませ、生活費を稼ぐため上京して夜のアルバイトと、本当に休む暇のない生活が続く中、なにも知らない師匠は朝早く行かないと機嫌がわるく、睡眠不足だけは相当にこたえたという。それでも一端稽古場に行くと、そこには千恵やこれまでラジオでしか聴いたことのなかった小唄の春日派師匠の千紫千恵、市丸、志寿太夫清元梅吉、一寿郎など達人、名人が出入りしては彼らの芸にナマで触れられると云うこの上ない喜びにつつまれるのであった。こうして十段ある宮薗節の段数が増えて来ると、突然稽古する人の三味線、三味線の人には浄瑠璃、と相対稽古のほかに実践に近い体験をするようになっていく。
 このようにほとんど一日師匠の家で過ごすようになって、時にお手伝いさんの留守にかわりを努めるようにもなり、お正月など師匠一人おいておくわけにもいかず、泊まり込むようになっていく。そして千寿師の血縁の娘であったお手伝いさんと千寿師との間に亀裂が生じ、仲をとりもどせず親に引き取られて帰ってしまうと云う事態に発展。
 「しばらく今までどおり通っていると、頭を下げることが嫌いな気強い人ですから、自分からは言い出さないけれど、夜、一人で寝るのを怖がっている様子です。私の方も三軒もの家事をするのは繁雑になるので、おもいきって師匠のところへ移ることにしました」。通いの内弟子から住み込みの内弟子へとここで替わったのである。