桃山晴衣の音の足跡(26)幻の古曲、宮薗節(五)
桃山晴衣の師、四世宮薗千寿(人間国宝)は本名を水野ハツといい、1899年明治32年9月10日、東京神田生まれ、生粋の江戸っ子である。
桃山の話では「四十歳過ぎた母親に生まれた、俗にいう恥かきっ子の師匠は、幼児の頃からのキカン気に芸事が大好きで、自分から行きたくて行きたくて、芸者屋の子飼になり、母親代わりに親身に世話をしてくれた年の離れた姉さんが、その芸者屋のまわりを心配してウロウロするのに、当人はてんで平気で、一途に芸事に没頭していった」という。柳橋の芸者時代の名は金弥、その後おつまといい、銀杏返しやつぶし島田の水髪がたいそう似合ったようで、十代の頃から年上の芸者衆の仲間入りをして遊ぶのが好きだったらしい。
<四世宮薗千寿/1960年代>
芸の方は三味線が好きで杵屋勝太郎に師事し、宮薗節は十九歳で三代目千寿がまだ千広を名乗っていた頃に、一番弟子になった。この三世宮薗千寿こと鎗田有は、「片山、佐橋、岡田、竹村という四人の達人ががっしりスクラムを組み、古曲の本流をなしていた」時期、「その主流に加わらず、毅然として別峯をなしていたのが先代(三世千寿)の鎗田有さんであった。『私は私』と、その社会にありがちな批評らしいささやきなどが漏れて来ようとも、油紙が水をはじきかえすようにいささかも気にとめず、おのれの道を歩いた。そして持って生まれたあの咽喉の艶で人々を魅了し、独特の鎗田さんの宮薗を形成した」と評論家で三世宮薗千寿が作曲した『椀久』の作詞者でもある田中青磁は、彼女の人となりを紹介している。その三世千寿こと鎗田有は、昭和23年(1948年)に三世宮薗千寿の襲名を受けるものの、その後健康が優れず、昭和34年(1959年)に水野ハツが生前相続で四世宮薗千寿の襲名を受ける。
水野ハツこと四世宮薗千寿は、かつて「富崎春昇、清元栄次郎」に並ぶ「現存三味線音楽の三名人」の一人と通人が指摘したように、天性の三味線の名匠である。彼女は宮薗にかぎらず荻江、河東、東明とすべて師匠級の腕をもっており、山田抄太郎は自分の小唄の作曲を保存するにあったて彼女の三味線でと名指すほどであった。
桃山晴衣が千寿師の門を叩いたのは、師が千幸から四世千寿となって数年後のこと。しばし通い稽古を続けた後、千寿師生涯唯一人の内弟子として泊まり込みで四六時中、師と生活を共にするようになると、身の回りの世話まですべてまかされるために稽古の時間も通いのときよりぐんと少なくなっていったが、やがて「内弟子というのは、教えられるに教えられない要素の大きい日本芸能の伝承には実に合理的な方法であること」を学んでいく。
内弟子としての桃山は家事一切、付き人、マネージメント、手紙の代筆まで任された上、昼は師匠の食事と同時にお弟子さんたちの食事も人数を予測してさっと出せるようにしなければならないし、セッカチな師匠が腹を空かせて怒ることのないように出すタイミングや食事内容にいたるまで気をつかう。子供の時から料理が好きで料理人になりたいとの夢さえもっていた桃山なので、彼女の作る手料理で稽古後の夕食をとるのを師匠は何よりの楽しみにしてくれるようになり、桃山の方もますます心のこもった料理を作るようになる。
この心のこもった料理は、朝食用の漬け物にいたるまで徹底していて、師匠は一鉢の漬け物が何よりの好物なので、ヌカ味噌だけでも三種類は漬けており、夏のナスは前日の夕方、キュウリは夜十二時頃、キャベツは朝漬けがすきなので早朝四時に起きて漬けるといった具合で手を抜くことがなかった。
桃山が新しい料理を開発すると、師匠はよその稽古場にそれを教えてまわるので、次々と工夫をこらさなければならず、よその稽古場からは「桃山さんがオッショサんを贅沢にしちゃった」とうらまれることもしばしあったという。また食通の師匠は桃山をおいしい料理屋につれていっては、それをつくってちょうだいというようにもなり、はてはスッポン料理まで家で作ったという。また桃山の料理を自慢する千寿師は、どっさり器を買い込み、休日になると人を呼んで御馳走し、「新派の英太郎とか岸井良衛先生など、味にうるさい人の料理方をつとめ実践できたおかげで、腕前はメキメキ上がりました。すると『うたもこのくらい出来ると良いねェ』とけっしてほめないけれど、そんな時はいたずらそうな目つきが笑っているのです」となごやかな宴の様子を桃山は回想している。
料理にしてこうであるから、その他の家事においても彼女はどれ一つ手を抜くことはなかった。雑巾や洗濯物、布巾などのしぼりは発声に不可欠の背筋力を鍛えることになり、正しい姿勢での襖や障子のあけしめは、しっかりとした腰を作る。花を生け、掃除をするといった日常の所作においての細やかな気配り、ていねいさが、やがては自分の芸にも反映してくることを桃山はこの内弟子時代につよく実感した。
<四世宮薗千寿師と相対稽古をする内弟子時代の桃山晴衣>
このように家事に専念していると、いきなり稽古になることも多く、そのスイッチの切り替えも身につけていくことになるが、師匠と同輩の三味線方や若い弟子など、稽古場では色々な人の目にもさらされているため、おのずと緊張のなかでの集中力もそなわっていく。家事でも芸事でも、ここでは何よりも「具体的な動作にスピードが大切」で、このスピードは「集中度と密度濃度と関係してくる」し、「昔の人がサッソクであること、手早いことを“美しい“とみたのを理解できる」。こうしたあわただしい日常の中でも、桃山は常に本質を見失うことがなかった。
長い内弟子時代には、計り知れない辛苦も数多くあった。いつしか師匠と一門の間で桃山が推進役をも努めるようになると、「桃山が牛耳っている」と陰口されたり、二十代半ばで師匠に目をかけてもらっているのを嫉妬し、うらむ先輩たちも出てくる。
「芸を続けるということには、そうせざるを得ない個々の事情と、精神の渇きがある。すがっている絆のような芸なのに、後から入った者の方に陽が当たるということは、前の者は日陰に追いやられるということになる。そうした葛藤と、大ぜいの女が集まっている、しきたりと常識的なモラルでもっているこの社会では、つかずはなれず、きれいごとですごす方が利巧です。誤解をまねき、破局という事態を呼ぶ材料はいっぱいころがっていました。そうなれば宮薗を中途でやめなければならないという、決定的なダメージになることもわかっている。それは恐ろしいことでした。私には誠心誠意、与えられた自分の役割に取り組むしか、道がありませんでした」
桃山の懸命さはもちろん千寿師が一番よく心得ていた。やがて、「あんたは特別だから他の人より名前をあげるのを遅らせている」との前置きで、千寿師は桃山に自分が家元になる前の千幸を与えたいと云われた。が、桃山は「有難さとともに、身が引き締まるような思いでそれを聴きました。そして嬉しさより重大な決断をせまられたようで、考え込みました」という。
この名取りについては何度も師から催促があり、師匠から名前をもらうことがどんなに嬉しいことか分かっていながらも、桃山は「内弟子になっただけでも風当たりが違うのに、大変なことになる」という予感を強くしていた。そして師からの何度かの催促があった後、結局彼女は考え抜いたあげく、父、鹿島大治氏につけてもらった千妍寿(せんやすじゅ)を名乗ることを承諾してもらい、この時、千寿師匠はいつになくやさしい口調で「千やすという、以前の子もうたがうまかったんだよ」といったという。千幸という名を受けると云うことは、桃山にとっては師と同じように生涯宮薗節一筋に行きることを意味することでもあり、このことは当時の彼女にとって音楽人生を左右するとてつもなく大きな出来事だったに違いない。いつになくやさしい口調で話しをそらすように桃山の提示した名前を承諾してくれた師匠に対し、彼女は師匠との「日ごろのかかわりから逃げをうったようで、私はとても申し訳なく思いました」と当時の複雑な心境を語っている。