桃山晴衣の音の足跡(27) 幻の古曲、宮薗節(六)

千寿師匠の思い出と死


桃山晴衣筆、宮薗節:鳥辺山台本:細部にわたって唄と糸の節回しなどが鉛筆でマークされている>

 内弟子時代、桃山晴衣は千寿師匠とよく旅をした。箱根千石原の俵石閣で開かれるおさらい会は、毎年銀座のガスホールで開かれていた千寿会同様に大切な会で、ここには千寿師匠の近しい人や宮薗の師匠級の人達が馳せ参じるため、桃山の緊張度もより高まらざるを得ない。彼女は会場の用意から、旅館での食事の献立、参加人数、飲み物、値段の確認はもとより、一国一城の主たちが勝手な注文を次々にしてくるのをさばいたり、会での浴衣を作ったり、個々の電車の切符をとったりと、テンテコ舞いの状態で師匠の付き人となる。そんな彼女のいそがしさもおかまいなく、ゲストの古参からは予期せぬ注文がきたり、機械にうとい千寿師匠のマイクの世話から、進行役まで努める中、演奏までさせられる。広間で総勢七、八十人の集まりの食事会の世話をし、さらには個々の人達が部屋に別れてからも何があるかわからないので、気を緩めることができない。会には千寿派の古参だけでなく、遠藤為春伊東深水などの大物も同席していて、「粋をきわめた達人、名人の夜の宴」が続き、伊東深水の小唄の糸をつとめる千寿師匠の技は宮薗節のときとはうってかわった、類をみないほどの切れ味の良さがあり、桃山はその場を「日本が失った夢のような風景だった」と感慨深く語っている。

<宮薗千寿師と旅先で>
 しかし何と言っても愉しかったのは、千寿師匠と二人、または気心の知れた人と三、四人でゆく夏休みの旅だった。それは小唄の名手、千紫千恵家元の熱海の別荘であったり、信州蓼科の山荘だったりと、都会の喧噪を離れた海山の自然と接することは、あまりにも忙しく気を張りつめて暮らす桃山にとっても心休まるひと時だった。
 そんな中、1972年に宮薗千寿師に人間国宝、73年には勲五等宝冠賞が授与され、「お前さん、人間国宝って何だい」といういつもと変わらない師匠をよそに、門弟の数も増え、「誠心誠意、与えられた自分の役割」に取り組んでいた桃山に、思わぬ災厄が降りかかってくる。門弟、あるいは先輩の策謀から誤解を受け、それを真に受けた師匠の怒りをかって一時出入りを禁止されるという、つらい日々がやってきたのだ。これは邦楽界にかぎったことではないが、狭い家元世界の中では絶えず付きまとう問題で、結果的には事実無根の誤解であったことに師匠が気づいた。その後、桃山は飛騨高山を案内してくれないかという師匠と再び旅を続けるようにもなった。
 十余年にわたる宮薗千寿師の門弟の時代を経てからも、桃山は師匠をよく訪ねていった。その時に師匠と交わすことばに出てくるのが「あの頃がいちばん良かったねェ」という旅の話しだった。桃山流家元を立ち上げ、池袋の天才少女と騒がれ、マスコミも一目置いていた二十代の桃山晴衣。しかし彼女はそんな外部の声をよそに、宮薗千寿の門戸を叩き内弟子として宮薗節の奥義を修得することに専念したのみならず、十年間はほとんど桃山晴衣として演奏活動もしなかった。この千寿師匠との時期は桃山が盤石の三味線とうたの技術を磨いた時であったが、数日間は名古屋で稽古をつけなければならなかった。母の大病によって家族のことをみんなみなければならなくなり、稽古をつけたお金はすべて家に置いて帰った。東京での自分の生活は自分でまかなうという二重苦をずっと背負いつつ、千寿師の内弟子生活を続けるのは本当に体力的にもぎりぎりの状態だった。彼女はこの十年間の苦を私にもほとんど語らなかったし、半生記には「師匠は最高の世界を見せてくれました。師匠はお金では買うことのできない、確かな確かなものを与えてくれました。それは私の体の中の血肉となっているようです」と、
千寿師との「暖かい、美しい思い出ばかり」が書かれてある。
 しかし桃山は、激しく変化していく時代の流れの中で、陸の孤島のように世間一般と閉ざされてしまっている邦楽界に、多くの疑問を抱き、十余年の内弟子に終止符を打ち、後ろ髪を引かれる思いで千寿師匠のもとを発った。
 「宮薗節は、好きで好きで胸ときめかせて取り組んだものだけれど、現代の人々と響きあおうとするとき、適当な素材ではないように思われた。だいたい邦楽そのものが、現代の社会に生きていない。三味線を弾く私に『芸者でもないのになんでそんなものやりゃあす』。持って歩いていると『オッ姐さん出張かい』とくる。私の中にある日本の音楽は、もっと広い、明るくて自由な大きさを持つ世界である。私は遠くの方にうっすら明かりを見せている方向へむけて、それをたよりに一歩踏み出していた」。
 桃山晴衣は桃山流家元を止め、宮薗千妍寿を名乗ることもなく、邦楽界から飛び出て、音楽家桃山晴衣として自らの音楽を問うことになる。同時代の若者たちはロック、ジャズ、フォークソングが自分たちの音楽であると、何の疑問も持たなくなってしまっていた。その彼らに向けてあえてニューミュージックとして中村とうよう氏がプロデュースしたのが、桃山の初アルバム『弾き読み草』であった。これは大原富枝の『婉という女』の語りに挑戦した彼女が、その流れで作曲した長編語り唄ともいえる「虚空の舟歌」はじめ、佐藤春夫の現代詩を作曲してうたった現代小唄ともいえる「しぐれ」など、語り(浄瑠璃)と小唄を突き詰めてきた彼女の技がここには結集されている。

<初アルバム「弾き読み草」の中の一曲「夕暮れ」>

<同アルバムから「虚空の舟唄」シンセサイザー坂本龍一が演奏している>
「このように言葉と音楽の幸福な結びつき、というものを、私はついぞ今日の邦楽の世界では知らないのである。 桃山さんは幼いころから邦楽の世界に入り、やがて桃山流という独自の流派を打ち立てて家元となり、さらに宮薗千寿の内弟子となって、永年修業に励んだという。しかし私が不思議でならないのは、そのような修業の軌跡、あるいは伝統音楽という過去に連なる重圧を、桃山晴衣さんの音楽からほとんど感じられないことである。たぶん桃山さんは、伝統音楽という途方もなく巨大な重みの中で、呻吟を重ね、幾度もその泥沼の中で浮沈したのにちがいない。しかし今、私たちが聴くものは、伝統音楽を超えた、桃山晴衣という自らの世界そのものである。 ちょうど、それは、砧で打たれた木綿が、冷たい清流の中で、白い輝きを増すのに似てはいないか」
 これは桃山の『弾き読み草』やその後の『梁塵秘抄』を聴いての、作曲家佐藤聡明氏の評である。私がパリで彼女のうたと三味線に触れた時も同様の感想を持った。
 桃山はこの初アルバムをおそるおそる千寿師匠に届けた。内弟子時代も決して褒め言葉をかけない千寿師匠だが、「一枚目のレコードが出たとき、『あんた、よし町の秀奴さんもGさんもOさんもみんな買ってくれたんだよ』と言われるので御礼を言うと、『家元がね、あの子があの子がってあんまり言うもんだから』と、返事がかえってきて恐縮しました。面と向かっては『調子はあってたよ』とポイと一言。調子については厳しい人ですからホッとしていると、名古屋の稽古場の、縁者になる老婦人から『三味線ほめとったに』と聴きました。葬儀の日、大津からかけつけた若手のKちゃんには、『三味線がいいよゥ』と言われたそうで、私はどんな勲章をもらうより嬉しく思いました。あのレコードを録音するとき、師匠に聴かれても恥ずかしくないようにと、それがどんなに支えになっていたことか。その師匠がもういない。私は自分の大黒柱を失ったような気持ちです」と桃山は自らの機関誌「苑」に書いている。
「その師匠がもういない」と書かれているように、これは1985年9月2日に千寿師が逝去した数日後の桃山の文章である。

<宮薗千寿伝授の三味線の音が冴える初アルバム「弾き読み草」(現在CD盤で復刻されている)>
『千寿師匠の死を悼む』と題されたその文からは、いかに桃山の師への思いが強かったかがひしひしと感じられる。

「『ありがとう、ほんとうにありがとうございました』
 手を合わせると、身内から付いて出る祈りの言葉は御礼ばかりです。
 千寿師匠が逝ってしまった。
 ここ柿生の小庭には初秋の白い陽ざしに、水色の朝顔がはかない大輪の花を咲かせている。プティトマトが赤らみ、つる菜が繁り、地這いキュウリもなり出してきた。みんなみんなオッショさんに喜んでもらいたくて作ったものばかり。師匠は早寝早起き、宵っぱりの私とは生活ペースが合わなくて、めったに届けることができなかったけれど、種蒔く、苗を植える、食べごろの時と、いつも師匠をおもっていたのに。その相手がいなくなってしまった。
 涙があとからあとから流れ出て、とまらないのです。
 八月の終りに二日ばかり寝込んでしまった私は、その分用がたまってしまって、朝から外出ばかり。古参の師匠がいくら電話をして下さっても連絡がつかなかったそうで、葬儀の日の朝、それでも念のためにと、もう一度電話をかけてくださった三弦師・竹内さんのおかげでそれを知りました。予感はありました。数日前、夢に見た師匠はつらいからさすってほしいと背中をむける。着物をぬがすと胴体が透明にすけて空っぽなのです。血が一筋したたっていました。私は自分の体の調子が悪いせいにして嫌な予感を打ち消しました。
 会場には白い菊が一面に飾られ、ところどころにカトレヤのブケがさしてある。この気がきいたお花は、弟子一同が送ったもの。志だけ頂いて、花輪も香典も一切お断りするようにとの遺言が、いかにも師匠らしい、スッキリした葬儀です。祭壇の後を通り、控えの間で飲食の接待役にまわった私は、友ちゃんを探しました。友ちゃんは内弟子だった私のあと、師匠のそばにつき、最期を看取るまで一緒にいてくれた人で、上半身がモジリアニの肖像のよう、ちょっとそこいらに見あたらぬ八頭身の美人です。しばらくして喪服の彼女は私の姿を見つけると、「どこ行ってたのよゥ」とワーッと泣き声をあげながら駆け寄ってきました。
 祭壇の後にいざなわれ、ヒッソリと横たわる柩の中の師匠と対面しました。顔のところが覗き窓になっている、その扉を、「おしょさん、モモヤマですよ」と声をかけ、左右に開くと、一瞬、紅をひいた師匠の唇が、ニッと笑ってくれたような気がしました。友ちゃんの腕の顔中でこときれる、いまわの際には、大きくうなづくとニコーッと笑いかけ、その瞬間、あたりが輝いたようだったそうです。眠っているように、おだやかな死に顔でした。
 ガンを宣告されて約三年。今年の二月国立劇場での名演奏は溜息が出るほどだったそうで、七月にはまだ門弟へ稽古をつけていました。立派な人でした。つよい人でした。
 私にとっての師は、宮薗千寿ただ一人。基礎も、芸についての開眼も師を通して得たものです。師匠と過ごした日々は美しい、美しい、確かなものとなって私の身内に残っている。血となり肉となっているのかもしれません。
男手が足りないので、霊柩車に移すとき、私も棺をかつぎました。おちゃらさんが「おしょさん重い、重いよう」と言う、そのずんとした重さを、一足づつにしっかりと受けとめながら——。
九月二日二十二時三十二分。享年八十五歳。人間国宝、四世宮薗千寿。
戒名 寿徳院釈妙初大姉
九月の十日が誕生日だったのに、もうお好きだったカトレアを届けることもできない。白い細長いお骨を、清岡さんと二人で拾いました。清岡さんは「汗だかなんだかわからねェや」とつるりと顔をなぜると、「師匠は女のカガミだね。オハルもあやからなきゃいけないねェ」と、しみじみとした口調が、身に沁みました。
                (苑第八号1985年9月25日発行)