立光学舎ライブコンサート 岡大介の明治大正演歌

 五月の風のような、爽やかな青年がカンカラ三線をいれたリュックを背に立光学舎にやってきた。岡大介(おかたいすけ)という32才の若き演歌師である。二十歳過ぎまではサッカーのプロ選手になることを真剣に考えて毎日ボールを蹴っていたが、これが叶わぬ夢と知るや、ギターを手にして憧れの吉田拓郎よろしくフォーク歌手をめざすようになった。しかし彼は、どうもこの和製フォークソングとやらに自ら疑問を持ち出し、高田渡の歌う明治大正演歌に惹かれるようになり、さらに演歌の根源へと向かい、添田唖蝉坊添田知道という明治大正演歌二代の世界へと急接近をはじめた。60年代の日本のフォーク歌手がうたってきたギターで歌う日本のうたにも大いなる疑問を持った彼は、ギターを手放し沖縄の民衆楽器、しかも蛇皮線ではなくカンカラ三線という空き缶に竿をつけ三絃を張ったシンプルな楽器を伴侶とし、日本音楽の敵ともいえる和声から開放された日本音楽復興節を高らかに歌い続ける。

 明治大正演歌は、「桃山晴衣の音の足跡」でも書いたように、演歌二代といわれる添田親子、すなわち添田唖蝉坊と息子の添田知道によって日本人の心に深く浸透してきた民衆歌である。桃山はその添田知道氏に二十年近く自分の音楽活動のご意見番となってもらっていたほか、添田氏から長年にわたって演歌の指導を受けて来た。古曲宮薗節を修めた桃山が演歌というのも意外に思われるかもしれないが、彼女にとって江戸時代から現代にいたるまでの民衆の流行歌謡のメインストリームといえる小唄と演歌は、自分の音楽世界にとって不可欠のうたであった。だが、演歌は知道氏からおそらく他の誰も教わらなかったような細部に渡る曲の解説や歌い方を指導してもらい、自らも三味線で数々の歌をうたっていたのだが、桃山にとって興味深かったのは演歌の持つ音楽の社会性や歌の姿勢といったものであった。小唄が多くの女性に歌われるのとは対照的に、演歌はもともと壮士たちが演説の代わりに歌っただけあって、男性の多くがうたう。それゆえ、桃山は機会あるごとにワークショップなどでも男性に演歌の指導を続けて来たが、多くの者はこれら明治大正の歌に強い興味を示さなかった。彼女は誰かに添田知道氏から教わった歌を伝えたかったが、それがままならないまま他界してしまった。 


 桃山の三回忌にあたる今年は、五月に毎年行ってきたワークショップを一時停止し、小さなコンサートをすることに決定した。プログラムを考えていた折、添田唖蝉坊、知道の歌を追い求める平成の演歌師、岡大介の存在を知り、うた声を聴きたくなった。スタッフの井上が日本音楽復興にむけて、今後さまざまなコンサートやレクチャーを企画したいと「いろはにほうがく組」を名乗って奔走した。コンサート前日、学舎に到着した岡氏を囲んで桃山と添田知道氏に関しての話しをし、桃山が演歌の曲の一つ一つについて知道氏から説明をうけてきた秘蔵テープを皆で聴いた。演歌は大勢の歌手が様々なアレンジを施して歌っているため、元歌なるものも分からなくなっているものも少なくなく、桃山が覚えていた添田知道氏直伝の歌は非常に大切なのだ。岡大介氏はこのテープでの知道氏の肉声に感動し、桃山とのやり取りに真剣に耳を傾けていた。直接桃山が彼に教えられなかったのは残念だが、彼女もきっと彼の来舎を喜んでいることだろう。すでに演歌をうたって七年が経つというこの若き平成の演歌師に日本音楽の復興を切に願う。翌日のコンサートでは「らしく」歌わない彼のストレートなうた声が観客の心をとらえた。この平成のギターを捨てた渡り鳥の今後に注目したい。