桃山晴衣の音の足跡(16)安政の大地震と清元お葉

 まだまだ日本全土を東北関東大震災の暗い影が覆い続けている。桃山晴衣の音の足跡と題してこのブログを書いていても、ついつい地震のことが気がかりになってくる。そこで先に関東大震災と演歌師の添田知道氏のことを書いたが、今回も少し迂回し、江戸安政の大地震と清元お葉のことを書いてみようと思う。
 桃山晴衣の父上、鹿島大治氏の音楽系譜とでもいうべきものを見てみると、大治氏の母親、鹿島万寿(ます)とその妹、とく子、そして叔父の吉住慈恭(四代目吉住小三郎)の名がみえる。大治氏の邦楽の基礎はこの人達から受け継がれており、氏の説明では、母親の万寿は宮薗千林、山彦貞子という芸名を持ち、宮薗節を二世宮薗千之、河東節を山彦秀翁に習った名取り、赤坂の林家二代目主人で、花柳流舞踊にも長けていたとある。そして万寿の妹、とく子も同じ師匠につき、山彦とく子、宮薗千之(三代目家元)を名乗っていたとある。この大治氏の母や叔母は江戸末期から明治にかけての邦楽名人、河東節の山彦秀翁、東名節の平岡吟舟、宮薗節の二世宮薗千之、そして清元節の清元お葉たちに芸を習っており、これら巨匠はそれぞれが独自の音楽の道を築き上げてきた人達で興味深いのだが、ここではとりわけ安政の大地震とも深く関係する清元お葉の話に限って紹介したい。

<清元お葉:1840~1901>
 そこで清元お葉の話しを進める上で、まず清元節の流れから略説しておこう。清元節は、江戸時代後期(文化11年、1814年)に生まれた豊後節浄瑠璃の一つで、浄瑠璃諸流派の中では最も新しい。創始者清元延寿太夫(1777〜1825)で、初代富本斎宮太夫の門弟となって二世富本斎宮太夫を襲名し、その後富本節から独立して、文化5年豊後路清海太夫を名乗り、文化9年9月中村座出演後,文化11年11月、市村座公演より清元延寿太夫を名乗って清元節を興した。この初代延寿を継いだのが実子の二世延寿で、彼と妻お磯の間に生まれたのがお葉、すなわち清元お葉である。
 二世延寿太夫にはお葉の他に男子がいなかった為、三世はその弟子、浅草の材木商藤田屋の子繁次郎が妹婿となり、延寿太夫を襲名したが、流行り病で安政五年に三十八歳の若さで他界。四世(1832−1904)は谷中の三河屋という質屋の子、斎藤源之助が二代目の婿養子になり、二世の娘、清元お葉(1840−1901)と結婚して安政五年延寿太夫を襲名した。この四世には河竹黙阿弥の初演作品も多く、美声で評判をとると同時に、妻のお葉も又大変な名人で、幕末から明治初期にかけて活躍し、清元節の名曲「三千歳」などを作曲している。が、彼女の名声は清元以上に「江戸小唄の創始者」として後の世に知られているのである。

 「散るは浮き 散らぬは沈むもみぢ葉の かげは高尾か山川の 水の流れに月の影」


 
これは「江戸小唄」の発祥となったといわれる清元お葉、十六才の時の作曲であるが、実はこの小唄が作られたのが江戸時代末、安政二年(1855年)、大地震の年だった。江戸の街を震撼させたマグネチュード6,9の安政の大地震とよばれるそれは、この年の10月2日の夜に発生。お葉の父、二世延寿が54才で9月26日、6日前に急死して間もない時だった。またこの前年の安政元年は11月4日に愛知、静岡でマグネチュード8,4の東海大地震、翌日に7,4の和歌山、徳島での南海大地震、そして7日には大分、愛媛にまたがった豊予大地震が発生しており、不穏な時代となっていた。さらに人心を惑わしたのが、11月に立て続けに発生したこれらの大地震の前年、十二代将軍家慶(いえよし)の最後の年、嘉永六年(1853)6月3日に、アメリカ東印度艦隊司令長官ペリーが米国フィルモア大統領の国書を手に軍艦四隻を率いて浦賀沖に到着したことだ。この黒船渡来で、あわてた老中首座阿部正弘は大統領の国書を受け取り、国防力なきゆえ、鎖国攘夷という国是を守りきれず、やむなく翌年、安政元年3月3日「日米和親条約」に調印せざるをえなかった。将軍家慶はペリーの来朝した月の22日に没し、家定が十三代将軍を継ぎ、安政元年と年号が改められたのもつかの間、先の東海地震が起こったのである。

       <ペリー代将>
 思春期のお葉にとっては、こうした一連の暗い状況の中で父、太兵衛を亡くしたのだから悲しみもひとしおではないはずだ。一説によると享年54才で逝った父、清元太兵衛の死は、芝居の帰りの駕篭の中で突然乱心して咽喉を突き、その時は助かったものの、再び乱心して死んだといわれている。そして妻お磯と娘のお葉、門弟の悲嘆もさめやらぬうちに安政の江戸大地震が起こる。これにより武家屋敷、町家はことごとく多数の死者、怪我人を伴って崩壊し、父の墓所である深川浄心寺の中門も木端微塵に、また役者達の宅が残らず焼失し、芝居は当分の間休場となったという。余震は一ヶ月程続いたそうだ。
 そんな中、三代目延寿太夫の相続が話し合われ、太兵衛の妹婿で門人の町田繁次郎に継がせることになり、一段落した師走のある日、父の遺した手箱を整理していた折にお葉が見つけたのが、父が屋敷に出入りしていた頃に頂いた松平不昧公自筆の「散るは浮き散らぬは沈むもみぢ葉の影は高尾の山川の水」という短冊に書かれた和歌の一句。清元を守らねばという気持ちを父の墓前に誓ったこともあって、お葉はこの句を見るなり作曲の衝動にかられる。彼女はそこで当時流行りの端唄でもないうた沢でもない、新たな唄を作ろうと、その和歌に「水の流れと月の影」という文句を加えた。そして「生まれて始めての作曲に、興奮して眠れなかった。三日目の夜、お葉は夢に何も云わないでにこにこ笑って立っている父の顔を見て、はっと眼が覚めた。お葉はこの時、大好きな父の清元節の作品のうち、江戸っ子特有の粋といなせと勇みとを採りいれて作曲された『三社祭』と『神田祭』の早間拍子の三味線の手を思い出したのである」「在来の端唄でもなく、新興のうた沢節でもない、違ったものにするには、清元の早間な拍子を三味線にとればよい、お葉がこう考えついたとき、三味線の手が次々と水の流れるごとく頭の中に浮かんでくるのを感じた。お葉はすぐに作曲して、母の前で弾き乍ら唄った。母は吾が子の始めての作曲の中に、亡き父の特異な早間な清元の三味線の手の入っているのを聞き、腹の中でにっこりしたが、丁度側で聞いていた三味線の二代目清元斎兵衛が堪りかねて、『お嬢さん、大層面白く出来ましたね。私が替手を弾きますから、もう一度弾いて下さいな』と、お葉が本調子で『散るは浮き』を弾き唄うと、流石は斎兵衛で、即吟で三下りの替手を弾く。端唄でもない、況やうた沢でもないこの小曲の旋律に、お磯は初心ではあるが、初心乍らに新しい命の、滾々と湧くのを感じたのであった」(江戸小唄/木村菊太郎)

 このように清元お葉と江戸小唄の誕生を振り返ってみれば、背景に安政の江戸大地震で自らの暮らしていた街が崩壊し、その6日前に父を亡くすといった悪夢が繰り返される中、16才で人生の岐路ともいえる所に立たされた若きお葉の楽才が、一気にこの唄に発揮されたとみることもできよう。
 なおこの「散るは浮き」の二年後、お葉は18才の時、「あの花」を作詞作曲し、20才の時には河竹黙阿弥の『小袖曽我薊色縫』に挿入された『忍ぶなら』が、当時流行の端唄とは異なるお葉独自の作曲による“創作端唄”となって世に広がっていった。こうして「お葉の、この三つの曲が起爆となって、清元界に、創作端唄の気運が高まっていくのであるが、明治維新という局面で一頓挫をし、やがて明治期に入ると、堰を切ったように、新しい端唄が作られていった」(小唄流転/舘野善二)という。

 「散るは浮き 散らぬは沈むもみぢ葉の かげは高尾か山川の 水の流れに月の影」

 先日テレビのニュース映像に東北関東大震災の被災地の様子が映されていて、その中に瓦礫の広がる地に生き残った一本の梅の木がつぼみをつけ始めた様子が紹介されていた。清元お葉の遺したこの「散るは浮き・・」という江戸小唄から、即座に思い浮かんだのが、この被災地に芽吹いた木のつぼみの姿である。